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霊癒の科学(16) [心霊と人生]

                     霊癒の科学(16)


 学問として体系づけられた心霊研究ではあるが、その概要を
知るには現時点では先達の文献に依るしかないのが現状であり、
なんと云っても、浅野和三郎先生、脇長生先生の著作集による
のが一番である。今回からハリー・エドワーズ著山本 競訳の
「霊癒の科学」を載せます。・・・・

{注}パソコンでの入力の関係上JIS設定にもれている漢字の
   表示が困難な場合は現在の簡易表示体で代用するものも
   あるのでご理解ください。
            霊 癒 の 科 学
     
               ハリー・エドワーズ
               山 本   競 訳


      第十四章 失 明 と 聾
一、二年前南ロンドンの霊癒家によりて、全然失明していた者が治さ
れた信憑してよい一例がありました。
 斯る例は稀ですが部分的失明又は失明に脅されていた症例の多数が
著しく治つてます。
 早期の症例は一九三八年南ロンドン新聞に報道されました。
 他の一例は、限科専門医に、一年半以内に一眼は失明するであらう
と宣告された少年の症例で す。患者は特殊な眼鏡を供給され、それ
でかすかに物を見る事が出来ました。視力に関して吾々に何も談され
ていなかつたが唯霊癒だけが要求されました。二、三週間後、患者は
眼鏡なしで新聞の細字もよむ事が出来て、特に眼の疲労も感じません
でした。
 他の症例は一九四〇年十月十九日のサイキツク・ニユース誌に報告
されました。次にその一
             一四七頁
       
部を転載します。

   ロンドン空襲中の霊的助力

 私は暫く国内守備隊の一員だった。私は最近他の人々と共にロンド
ン対空砲兵隊(髙射砲隊)の夜問勤務に従事していた。その際、軍曹
と他の兵卒との会話を立ぎきした。軍曹は数年問限病に悩まされ、高
価な医療をうけていたが長い問何の好果もなかつたと云っておった。
症状が複雑になつたのは汚い潰瘍が眼を犯したためであった。
 此の会話は最近のロンドン空襲中に行はれた。砲兵隊の状勢は少く
とも皆張り切っていて病気の事などかまつていられなかつたが、私は
その兵卒の眼に心を集中しかいではいられなかつた。
 私は他の夜、再び軍曹に会って「眼の共合はどんなかね」ときいた。
限の外観は異状がない様に思はれたので私は或る信念をもつてかうき
いて見た。
 彼は答へた。「貴君が私にそんな事をお尋ねになるのはおかしい、
私の限はすっかりよくなつてますでせう。」彼は過去或る期問、毎週
医療をうけるため専門家の許へ通っていた。その時、彼は云った。
「私は過去二週間治療をうけに行く事が出来ませんでしたが、それな
のに治療し
               一四八頁

ないでいた問に眼はよくなって来たのにきがついてました。」
 私はその時彼が対空砲兵隊に勤務した夜の事をおぼへてるか、又眼
がよくなり出したのはそ の時から始りはしなかったかを尋ねた。
彼は答へた。「あの夜私は潰瘍でひどく脳んでました。当然悪くなる
筈のあの一夜の勤務中に潰瘍は自然に消失して終ひました。」と
 軍曹は私がなぜその事に興味をいだくかと尋ぬた。私は彼が知らぬ
問に霊癒をやって見た事を語った。私は嘲笑されるものと思って出来
るだけいろいろの方面から説明して見た。軍曹は私に対して感謝の意
を表し、そう云う事のあると云う話をきいた事があり、又好感もいだ
いていたと語った。そして彼は家族の病人に対しても奉仕してくれと
求めていた。
 此の症例で特に注目す可き点は主訴の精確な病状を指摘しなかっか
ことです。此は稀ではあります。それで霊癒の超自然的性状を再び支
持するものです。
 此れに次いだ症例では反対な事が起りました。明確な限病に対して
霊癒が求められた症例でした。

   父が霊癒で小児を治す

 著者は不在治療を求められた時、患者に著者の心を集中している問
に軽快し始めたのを認める事が度々ありました。
              一四九頁

時々、人々は偶然彼等の病苦について著者に語りました。著者は一、
二秒問その病苫の治癒を希望して送念しました。後になってその瞬間
から微細な症状が治り初めた事屡々発見しました。
二、三日前著者の小児が針金で限の裂傷を起したため入院しました。
病院の医師は云ひました。
 「傷つかぬ方の限にまで充血が起っている程、ひどい怪我をしたのだ
から全く危かった。」と著者は翌朝眼科の専門家に見て貰う約束をし
ておきました。
 専門家が診察に来て、紺帯をとりのけて見た時、眼に何等障害の跡
も残っていませんでした。
 聾に関しては、聴力が全然失はれていた唯一例の洽癒示ありました。
然し聴力不全だけで霊癒を施した症例で好果のあったものは多数にあ
ります。
 上述全治の症例は前章で既に報告されていました。慈に比較的軽症
の二例をあげませう。第一例は次の如くバーラム・エンド・マーキユ
リー誌に報告されました。

 最も興味があったのは聾のため自分の職能をよぎなくあきらめねば
ならなかった男の症例でした。二、三週問の不在治療後、患者は全治
したので、最近再び仕事を始めたと云う便りをよこしました。
 一九四三年に一人の女が著者の仕事をしていたキソグストン本部へ
来ました。その女は殆ど
             一五○頁

聾に近く、高声で話しかけた時だけきこへるにすぎなかったので読唇
術を習はねばなりませんでした。
 治療中霊癒家はその女の背後に立っていて普通の声で話しかけまし
た。女はそれをきいて答へました。数回の試験が行はれ、声が過度に
低くすぎない限り、その女は談しかげた言葉をききわけて返答をした
でせう。治療後蓄音器を使ってその音量が調整されました。
 音量の調節が最低部に転じた時以外、その女は音楽を明瞭にきくこ
とが出来るやうになりました。
 かくて此等二つの感覚に関連して、吾々は個人及び不在の両治療法
を行って霊癒を施すことが出来ることを認めました。
 数例に於て聴力の矯正と共に或る状態を伴ひました。此は一般に耳
鳴りと呼ばれてゐる障害で、それに対して認む可き好果が得られまし
た。
             一五一頁


         第十五章 骨の畸形と其の調整

  結核の章で述べたヘッチー・ジー嬢は幼少の頃から足の畸形に悩さ
れてました。彼女は一寸一寸外科手術その他の医療をうけて、一、二
の骨が除去されていたと著者に告げました。
 足は萎縮を救うのと彼女が絶へず使用しつづげるために強く繃帯し
なければなりませんでした。
そして繃帯使用の圧迫のため彼女は絶へず痛みを感じていました。
 霊癒家は彼女の妹ダラデイスに治療を施した後、彼女は足を見てく
れと求めたので霊癒を行ひました。そのいきさつの最初の部分は、次
の見出しの下に一九三八年二月のサイキツク・ニューズ誌に掲載され
ました。

    畸形ですら霊的治療は奏効した

エドワーズが霊癒を施してる問にダラデイスの姉は、彼女の足にも霊
癒が施せるかどうかと
                        一五二頁

尋ねた。足は生誕以来畸形を呈していて、軟骨は化骨し、骨の腫瘤が
二つの趾の問に現れて激痛を起していた。
 過去に二回も手術を受けたにも拘らず、数年悶絶へずいたみつづけ
たが、彼女の生計に足が必要だったので終日使はねばならず、それは
可なり著しい苦悩を彼女に与へてゐた。
 霊癒が施されてから三日目の朝、彼女は骨の腫瘤が全然消散してそ
の部分の皮唐がたるんでるのを認めた。
 霊癒は続けられた。化骨形成も消散して、骨ははなれていた、足は
柔軟になってゐた。霊癒が施されて以来、疼痛はすっかり跡方もなく
なった。
 上述の報告が発表された後、数ヶ月問此の足の治療が続けられまし
た。外科医によって切除された骨の欠存のため当然有る可き状態とし
ては可なり常態に近い形のものとなりました。今は繃帯の必要もなく、
靴をはいた時、ねぢれや、醜い形を認める事も出来なくなりました。
畸形は消失し疼痛はなくなり、他の足と同様に使へるやうになりまし
た。戦争中、ヘッチーは自動車運転手となり、両足を使って操縦しま
した。今、彼女は結婚生活に入っていて、一九四四年彼女が著者を訪
間した特、足には全然何の異常も認められませんでした。
 趾問の骨の腫瘤が三月以内に除去されたに拘らず、主要症状の治癒
が完了するためには数ケ
             一五三頁


第十五章 忖の崎形と調整                          

月問連続的治療を要しか事に注目されませう。治療経過中、漸進的に軽
快するのが認められました。足は益々柔軟となり、骨と皮膚との間に肉
がなかった母趾球とも云う可き足の或る部分に、毎週肉の発育が認めら
れ、足の形が変りねぢれていた足はまっすぐにのびてすっかりよくなり
ました。
 かくの如く或る場合には治癒が漸進的だと云ふ事があります。霊癒家
は足に圧迫を加へたことも、骨を手でいぢったことも一度もなく、足を
両手の問に保持してる方法か行って霊医の力をして意のままに仕事をす
るやう任せよっていました。
 一九四三年にキングストン本部で次の二つ霊癒示行はれました。
 二十歳を越して問もない若いW夫人は、少女の頃から背椎骨脱臼に悩
まされていました。脱臼は外傷の結果起り、その結果患者は多大の苦痛
に悩まされました。医師と整骨医により手技(マニフレーション)が施
されました。霊癒をうける前、短時日の間、彼女は妊娠の結来起した過
労のため、症状が増悪して絶へず多大の疼痛を訴へていました。
 霊癒をうけてゐる際、彼女は長椅子の上に横たはり、彼女の母と本部
所属の他の霊癒家の助力をうけてゐました。
 著者は深い入神状態に入っていましたので、此の物語の残部は目撃者
により話されました。即
              一五四頁

曰く
 「頗る短時問の問、実際唯一秒の仕事として霊癒家の手は脱臼部の両
側で、背椎を掴んだやうに思はれた。背柱はその際皮下で、上の方へ引
き上げられる様に見へ、骨のその部分が一直線となって、背柱は常態に
復した。」と。
 此れは一九四三年に起り、現在(一九四五年三月)迄背柱はまっすぐ
になったままであり少しも痛みませんでした。患者は霊癒の後で「少し
も痛くないなんて、なんと云ふ驚く可きことでせう。」と云っていまし
た。患者の母から次の手紙がきました。
 (前略)私の娘が背柱の手当をうけてから可なり長い月口日たちまし
たので、その結果を判断することが出来ます。
 娘の故障は約十五年前の自動車事故に始りそれ以来、娘は整骨療法、
按摩等をうけましたけれど。可なり激しい背柱の疼痛に悩まされていま
した。ハリー・エドワーズ氏の霊癒をうけてから、此の長く続いた疼痛
は治りました。それで私は誠心誠意感謝と温情をこめた御礼の一文を貴
君に送らずにはいられません。」
 「私は此の奇蹟を見せていただけた事に対しても貴君に感謝いたしま
す。なんと云ふ驚異的な事実でせう。私自身の限でそれを見ていなかっ
たら、私は決してそれを信ずる事が出来なっか
             一五五頁

たでせうと思ひます。
 「娘の脊柱はそれ迄の位置から三寸以上も引き上げられました。人間
業で出来る事ではないでせう。」敬具   ジェー・ピー・ダブルユー
 同様の治癒例は中年の婦入にも起りました。背柱湾曲のために彼女は
歩く事も脚を使ふ事も出来ませんでした。此の状態は長く続いたもので
した。此の婦人は数人の小児をもち養育しなければなりま世んでした。
躰を支へるのに一定の道具を使用し、部屋中を骨を折って動くのに腕で
身体をひつぱる必要があり、此のやうに常に躰を引つぱるために、彼女
の腕も肩も身体もその筋肉が可なり著しく発達していました。
 彼女はタキシーで治療本部に連れて来られて治療室へ運ばれました。
施された療法は脊柱の手技をアモス嬢が助力した以外はダブリュー夫人
に施したものと類似していました。取扱ひ方は此の場合異っていました
。即ち湾曲の上と下の背推骨の部分は外方へ引き出されてから、湾曲が
まつすぐに圧迫されました。
 霊癒家の支配霊たる霊医は患者が起き上る迄に、暫時安臥させておく
様忠告しました。それは筋肉と組織を引つばると、再び骨を引き出す事
もあり得るからです。
 冊分間安臥しか後、患者は坐りました。霊癒家は患者を両手で軽く支
へて治療室内を数回歩き
             一五六頁


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