SSブログ

模型ヨット帆走 [旅人]

自作ヨット(紙、木、布)の帆走


下記にリンク



nice!(0) 
共通テーマ:旅行

旅行 [旅人]

世界遺産旅行のリンクを貼ります。

是非ご覧下さい。



nice!(0) 
共通テーマ:旅行

心霊研究(10) [旅人]

                    心霊研究(10)


 学問として体系づけられた心霊研究ではあるが、その概要を
知るには現時点では先達の文献に依るしかないのが現状であり、
なんと云っても、浅野和三郎先生、脇長生先生の著作集による
のが一番である。・・・・

{注}パソコンでの入力の関係上JIS設定にもれている漢字の
   表示が困難な場合は現在の簡易表示体で代用するものも
   あるのでご理解ください。

      心霊講座(浅野和三郎著 昭和3年)

 この一冊で全て網羅されていると云えるほど長年の心血を注
がれた名著。

 巻頭にあるケーティキング霊の物資化した写真は圧巻

 第十講 自動書記現象の検討

   7.其他の自動書記霊媒

     (1)ヴェール・オウェン  Rev.G.Value.Owen
        「彼岸の生活」
        「天国の子供達」
        「天国の外域」

     (2)ウィングフィールド嬢  Miss K.Wingfield
        「他界からの指導」
        ・・マアシャル・ホール氏はウィングフィー
        ルド嬢より兄の死んでいる事を自動書記にて
        教えられ、後日訃報を得た時の驚き等・・・

     (3)ジェ・エス・エム・ワァド J.S.M.Ward
        「死後の世界」
        「幽界行脚」

   8.自動書記の内面装置

     (1)内面に働く要素
        (イ)本人の潜在意識(即ち本人の霊魂意識)
        (ロ)他人の意識(暗示作用又は思想伝達作用)
        (ハ)霊界居住者の意識(即ち交霊現象)

     (2)自動書記をやると申してもそれは通例霊媒の手
        と関係ある脳の一部を占領する丈の事で決して
        全身を占領するのではないのです。
        換言すれば当人の潜在意識と外来意識とがグル
        になりて行る共同作業なのであります。

     (3)自動書記に対しては特に其文体、書体、並びに
        証拠物件としての内容価値に細大の注意を払う
        事が肝要

     (4)微細で虫眼鏡を要するもの、鏡に映して初めて
        読めるもの、文字がアベコベに綴られ末尾から
        読んで意味が通ずるもの、上下?倒して書かれ
        反対側に座っている者でなければ読みえない。
        これらは霊魂の方で霊媒自身の意識の闖入を防
        止せんとする苦肉の汁に外ならぬと認められま
        す。

     (5)霊魂は決して霊媒の頭脳からその思想を借りは
        しないがただ自己の思想を表現するに必要なる
        材料を霊媒から借りる事は事実である。
        霊媒の提供する材料が豊富であればある程通信
        が容易である。

     (6)死者と通信する者は何より先に当面の視聴から
        絶縁し情的に先方と結びつかねばならぬ・・・
        顕幽の交通はただ「思念」を以て成立する。
        爾等が先方を思念して居る時のみ先方でも爾等
        上に注意を払ってくれる。

     (7)自動書記現象は・・・肝要なのは手に作用する
        物質的の力でなく脳に作用する精神的の力であ
        る。

     (8)是非共無くてはならないものは一種変態の頭脳
        である。つまり空虚な電線の存在である。
        それは能動的の思想があってはならぬが同時に
        受動的の思想がなければならぬ。まるきり死ん
        でいては反射作用が起こらない。
        でいよいよわれわれは内面的に頭脳を占領して
        人知れずこれにわれわれの言葉を伝達する。
        すると右の頭脳は自力を以て運動を手に伝える。
        われわれは言わば頭脳技術者ともいうべきもの
        であるから何の点に力を加え何を抑えておき、
        何を印象せしめるべきか等をすっかり心得て居
        る。・・・・・
             「他界からの指導」より

 

             結  論

   1.心霊研究から何を学んだか。

     (1)各人の肉体に霊魂が宿っていること。
        (イ)霊魂ありての肉体。
        (ロ)元来天地間の一切万有はそれが有機物た
           ると無機物たるとを問わず皆何等かの意
           識を持っている。
        (ハ)大宇宙それ自身が一の活物であり大宇宙
           魂により司配されている。われわれが大
           自然の働きとする(称する)ものは取り
           も直さずその発現でその法則は千万世を
           通じても少しもかわる所がないからわれ
           われは安心して生活が出来るのです。
        (ニ)物的組織体の奥に一個の独立せる存在物
           即ち霊魂を認める事がこの新興科学の骨
           子であありこれは正確なる事実と正当な
           る推理の上に立脚して居るのですから到
           底之を覆すことは出来ません。

     (2)肉体と離れた霊魂は死の彼岸に存続すること。
        (イ)1848 フオックス事件他多くの心霊事実
           に基づく結論。

     (3)死者の霊魂は生者の肉体に憑依すること。

     (4)霊魂と人間界との間には交通が可能であること。
         死者の霊魂が何等かの方法で生きた人間の肉
         体に憑依するのは最早動かすことの出来ない
         真理と言ってよいのであります。

     (5)霊魂の働きは驚くべき威力と種類に富むこと。
         ~物理的心霊現象、心通現象~
     
     
   2.心霊研究が及ぼす影響

      我々は新しきモノサシを以て人生百般の問題の測り
      直しをやらねばならぬ。就中重要なるは日本の伝統
      的思想と新霊魂説との不離の関係。

      日本の伝統的思想の中心骨髄は「敬神宗祖」の四字
      に結晶せしむることができます。これが出発点とな
      りて日本の建国も、君民一体も義勇奉公も何もかも
      出来上がって居ります。敬神宗祖をヌキにした時に
      地上から日本国並びに日本国民は消滅する。

      宇宙の一切の万有を顕現せしめた根源の大霊~これ
      がいうまでもなく真の神でキリスト教徒の所謂ゴッ
      ドであり仏教の所謂真如であり儒教の所謂天であり
      日本古神道の所謂天之御中主之神であります。

      日本思想の根源は所謂敬神は無論その宇宙根源の大
      霊にまで遡るのであります。そこ迄漕ぎつけるのが
      所謂惟神の大道の大道たる所以であり所謂真の大和
      魂の大和魂たる所以であります。

      心霊問題が甚大なる影響を及ぼしたのは思想信仰上
      の方面であり、心霊科学により確立された真理を手
      がかりとして哲学的若しくは信仰的体系を立てて人
      生行路の辿るべき規律を造ろうと致します。

       新霊魂説の7大綱領・・・19世紀末制定

       1.われ等は一切の万有が宇宙大精神の顕現なるこ
        とを信ず。
       2.われ等は四海のもの皆同胞なることを信ず。
       3.われ等は各自の個性が死後に存続することを信ず。
       4.われ等は顕幽互いに往来し神人相合一すること
        を信ず。
       5.われ等は各自報恩の責務あることを信ず。
       6.われ等は各自因果律によりて支配さるゝことを
        信ず。
       7.われ等は永遠に向上進歩の道を辿るものなるこ
        とを信ず。


      古来日本で惟神の大道と称するものも煎じつめたら
      この辺に帰着するでありましょう。

      心霊研究と人生の諸問題との間に密接不離の大関係
      が存在すること

      心霊研究の提供する証拠は現代人の信仰と道徳心と
      に根本的革命を惹き起こすものであること。

 


nice!(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:旅行

死者に交わる30年から(その2) [旅人]


           憑依霊と多数人格現象

      l、暗示説其他を包容する霊魂説

 潜在意識説、暗示説、人格分裂説・・・此等は唯物主義の心理
学者が、霊魂論を打破する気組で、気張つて提唱した所の学説で
あります。火のない所に煙は立たないの道理で、此等の学説が、
部分的真理を包蔵して居ることは疑うの余地がありませんが、部
分的眞理は、総体的眞理ではありません。『人間は醜悪である。
ハラワクがあつたり、肛門があったりするから・・・・。』この
言葉に、部分的の真理があるとしたところで、それが決して統体
としての人間を醜悪化するものとは思はれません。潜在意識説や、
暗示説は、いくらそれが成立したところで、霊魂の存続、死後の
世界の存在、又憑霊現象の事実を、一分一厘揺るがすことはでき
ませぬ。心霊科学は、人生統体の真理を究る所の広い学問で、此
等の部分的の主張や主義で、いかんともすることは能きませぬ。
潜在意識は、ある程度働くものである。暗示はなかなか有力なも
のである。人格分裂は不健全な頭脳の所有者に見受けらるゝ悲し
むべき現象である。しかし依然として人間には霊魂があり、その
霊魂死後までも残り、そしていろいろ心霊現象を生むことに何の
変わりはない。
 心霊科学は潜在意識説や、暗示説や、人格分裂説の対手ではな
い。それ等のものを楽に包容して、綽々(しゃくしゃく)として
余裕あるのである。
 すべてのものは、その分に応じたことをせねばなりません。
潜在意識説や、暗示説には、その為すべき職分があります。警察
官や、普通教育者や、開業医や、民衆政治家やの用具となつて、
迷信打破を叫んだり、坊やは善い児を言いきかせたり、我党万歳
を唱へたりするには、この上もなく調法な武器であります。
われわれは此等の武器が極度に善用さるゝ事を、ひたすら渇望す
るものであります。が、彼等がその埒を越えて、分不相当をする
時に、黙過する訳にまいりません。現に暗示説をへタに呑みこん
で、治るべき患者を見す見す殺したり、潜在意識説をワルく勤違
いして、眞信仰の破壊を試みたりするものが現はれてゐます。
況んやこの種の部分的眞理を振りかざして、統対的の心霊科学に
反抗せんと企てるに至りては、その分を知らぎるも甚だしいと謂
(言)わねばなりません。
 ウイツクランド樽士夫妻が、三十年問の撓(たわ)みなき実験
中には、霊魂の存続、並に憑霊事実の正確なることを証明する実
例が無数にあります。憑霊が変わるにつれて、夫人にはいろいろ
の現象が起つて来ます。彼女は二ケ国語の国語(英語とスエーデ
ン語)しか知らないのに、一回の実験中に、六ケ国の国語を流暢
に喋つたことがあり、叉その表情が、憑霊次第で千変万化し、そ
してその各々が、生前のその人そツくりである場合が、何回とな
くつきとめられました。そんな場合には暗示説だの、潜在意識説
だの、人格分裂説だのは木端微塵に砕けます。それはその筈です。
部分的の眞理が、統体的の眞理の前に影を薄くするのは、恰度日
光の前で提灯の光がボンヤリするが如きものであります。
 ある時り氏夫妻は、M夫人の家に招かれました。夫人は教養あ
る人で、優れたる音楽家なのですが、あまり各方向からの招待が
はげし過ぎたので、神経衰弱に罹り、狂的妄語を乱発することが
六週間に及び、かゝりつけの医師の手に如何ともし難く、昼夜を
分たず看護婦がつききりにしているのでした。
 博士夫妻が行つた時には、彼女は寝台に坐つていましたが、あ
る瞬間には棄てられた小児のように泣き、さうかと思へば恐怖の
色を浮べて『マティラー!マティラー!』と呼びます。やがて叉
唐突にもがき争い、英語と西班牙語(イスパニア語(スペイン語)
をチヤンボンに怒鳴りつゞけます。(西班牙語は婦人の知らない
言葉なのです。)
 ウィックランド博士夫人はそれを見てこれは憑霊現象に相違な
いと直ちに診定しましたが、幾許なく其診定は裏書きされました。
夫人が肩掛けを手にして、正に暇乞をせんとする瞬間に、突然恍
惚状態に陥って了つたので。乃で夫人を音楽室の書臺の上にかき
載せると、婦人は患者の躯から離れた、いろいろの憑霊を引き受
け、かわるがわる二時間に亙つて喋りつゞけました。
夫人は愚者の
 最初に現れた憑霊の数は、すべて三個、即ちメーリいう少女と、
その恋人のアメリカ人と、競争者のマティラというメキシコ人な
のです。二人の若者は猛烈にメーリを愛し、従つお互い同志は極
端に憎み合いました。かくて嫉妬のあまり、一方の男が少女を殺
害すると、つゞいて二人の若者の問に大喧嘩が始まり、とうとう
二人とも死んで了つたのです。
 困ったことには、三人とも自分が死んだことを自覚せず、肉体
が夙(とう)に亡びたくせに、依然として生前の恋いと、憎みと、
嫉妬とをつゞけているのです。斯(こ)んな連中に躯を占領され
た患者こそいゝ迷惑で、彼女の霊衣の内部ほ、一の修羅場と化し
て了いました。無論神経がしつかりして居れば、通例斯んな亡霊
対する抵抗力があるのですが、神経過労の悲しさに、飛んでもな
い憂目を見ることになつたのであります。
 ウイツクランド博士から懇々と諭されたので、三人の亡霊はは、
辛(や)っと肉体の亡くなったことを自覚し、患者の肉体ら離れ
ましたが、その中患者は寝臺から起き上り、静かに室内を散歩し
ながら、驚いた看護婦に向つて、六週間目に初めて正気な言葉を
きゝました。
 『何んだかわたしは睡くてしやうがない。今夜から安眠させて
もらひます・・・。』
 さう言つて患者は、おとなしく寝臺に戻って、すやすやと翌朝
まで安眠をつゞけたのであります。
 翌日彼女は看護婦に伴はれて、ウイツクランド博士の許に入院
しました。乃で博士は看護婦を帰し、服薬を止めさせ、たゞ電気
療法だけを一回試みて、食事なども他の患者と共に、食堂で取ら
せましたが、むろん異状はありませんでした。
 翌日更にモ一つの憑霊を、霊衣の中から抽き出しました。それ
はサンフランシスコの大地震で死んだ小娘で、『暗い暗い』と言
って泣きつゞけました。むろんそんなのは百方慰撫を加へた上で、
更に霊界の共同者に引渡して、保護をくわへてやることにしまし
た。いかに霊界の優秀な共同者でも、感受性の多い人間の霊衣中
に絡みついている霊魂を、単独でいかんともすることが能きませ
ん。是非とも憑霊の性質をのみ込んでいる人間の、側(がわ)か
ら手伝ってあげる必要があります。その取扱方は必すしもウイツ
クランド樽士の実行しつつあるヤリ方・・・、電気をかけて駆除
した憑霊を、霊媒の躯に移して説諭する方法・・のみに限るもの
とは考へられません。現に本邦の行者中にも、ある特珠の有効な
処置を講する者もあります。何れが一番優秀方法であるかは、現
在に於いて断定の限りでありませんが、たゞ何れの方法にしても、
霊界の共同者のカを借りずに、徹底的の仕事は能きないことを私
は断言するものであります。其所に不透明な霊術-単なる暗示等
に捕へられて居る、似而非精神療法の致命的欠陥が伏在します。
 悪性の憑霊が駆除さるれば、病気の根本は、それで除かれます
が、むろん紳経系統に加へられたる大傷害の後には、余程の安静
と看護とが必要です。M夫人の場合にも、すツかり回復して、家
庭の日常生活に炭つたのは、それから二三ケ月後のことだつたと
いいます。
 爰にモ一つ、ウイツクランド樽士の実験録中から、興味あるも
のを選出して、梗概を述べることにします。それは一九〇六年十
一月十五日、シカゴでの出釆事で、ウイツクランド夫人は妙な亡
霊につかまつて、恍惚状態になつて床上に倒れました。
 漸くのことで、右の亡霊を引張り出して訊問を試みますと、何
やら非常に苦しみながら、繰り返し、繰り返し斯んなことを言い
ました・・・・。
 『何故わたしは、もツと多量の石炭酸を飲まなかつたかしら・
・・・。わたしは早く死にたい。モウ生きているのは厭だく厭だ
!』
 そして力なき声で、あたりの暗いことをかこち、いくらその眞
正面から電気燈の光りを注いでやつても、矢眠り暗い暗いと言い
つゞけました。叉時々低い声で『枠はドウしたかしら・・・。』
などとも囁くのです。
 更に言葉をつくして、詳しい説明を求めると、彼女の名前はメ
ーリ・ローズと呼び、南グリーンス街の二〇二番地に住んで居た
というのです。勿論其場に立合つた人達には、グリ-ン街が何所
にあるのか、さつばり見当さへも取れないのでした。
 最初彼女は、時間の事は少しも想ひ出せませんでしたが、『今
日は一九〇六年十二月十五日か?』と訊かれると、『いゝえ、そ
れよりも少し前です。』と答えました。兎に角この世の生活は彼
女に取りて不愉快な仕事で耐らなかつたらしく、日頃慢性の腹膜
炎に悩まされつゞけ、最徐に毒薬を飲んで自殺の決心をしたので
した。
 彼女は他の亡霊の多くと同じく、最初はドウしても、肉体的生
命の破壊に成功したことを自覚し得ないのでした。肉体の死はつ
まり自我の滅亡・・・この広く現代人に行渡れる、しかし根本的
に全然一の迷信に過ぎない、心の闇に深くとざされて居たのでし
た。
 ウイツクランド博士は例によりて、諾々としてその迷妄である
所以を詳しく説明し、人生の眞の目的の何であるかを懇々言いき
かせました。たうとう彼女の心眼が、初めて豁然として開けると
同時に、悔悟の念が油然として湧き出でゝ、心から神に祈願をさ
ゝげる事になりました。
 すると忽ちにして、それまでの無明の闇が破れ、朧気げながら
も、霊界から彼女を導くべく接近せる祖母の霊姿が、その眼に映
じました。
 彼女の霊魂は、斯くして救ひの網にかゝつたのでありますが、
その後霊魂の自白した所番地を査べて見ると、全くそれに相違な
く、彼女の一人息子が、現に右の家屋に住んで居り、彼女はクッ
ク州立病院で、一週間以前に死亡したことが判明しました。
 更に右の病院へ行つて調査すると、一層確かなことが判明しま
した。病院の患者名簿には、斯う記帳されて居ました。
 『シカゴ市クック州立病院・・・メーリ・ローヅ。・・・・・
一九〇六年十一月七日入院1一九〇六年十一月八日死亡。・・・
病名石炭酸中毒・・・番号三四一一〇六番。』
     
      ニ、理 窟 つ ぽ い 憑 依 霊

 ウイツクランド博士が取扱つた患者の中に、パアトン夫人という
のがあります。この人は霊的聴覚を有する病人で、自分に憑依して
いる亡霊達と、間断なく喧嘩をするのです。私自身の実験した中に
もも、その種のものが数名ありました所から察すれば、精神病患者
中には、案外これが多いのかも知れません。憑依して居る亡霊ある
のに、之を無硯して、全部を幻錯覚の所為とのみ曲解する所に、現
代精神病医学の大欠陥が伏在しいるやに思考されます。他人の生命
を預かる重大な職分を有つ方々の、眞剣な反省を切望せね訳にはま
いりません。
 バアトン夫人の敷ある憑依霊の中から、頗る判りの悪い、飽くま
で屁理屈をならべる亡霊を選びウ博士との問答を左に紹介します。

    患者・・・・ バアトン夫人。
    亡霊・・・・ カアリイ・ハンテイングトン。
    霊媒・・・・ ウイックランド夫人。
    審査人・・・ ウイックランド博士。

博士。あなたは何方です?
亡霊。なぜそんなことを知りたいのです?
博士。当たり前ぢやないですか。あなたとは今日初めてお目にかゝ
   るめです。初めての外来者があった時に、その名前を知りた
   く思ふのは、あなただツて同一せう。
亡霊。だってわたしは、自分から求めて、斯んな所へ訪ねて来たの
      ぢやないですよ。誰かゞ無理に人のことを爰(ここ)へ押し
      込んだのですよ。罪人ぢやあるまいし、ほんとに人を莫迦に
   して居るわ・・・。
博士。それはお気の毒さまです。・・が、そんな目に逢わされるに
   ついては、何か其所に然るベき理由があるのではないですか
   ?
亡霊。理由なんかあるもんですか! わたしは癪に触ってしようが
   ありアしない。あつちへ突きとばされ、こつちへ引ツ張りま
   わされ、年がら年中死ぬ苦しみの為続けですワ。
博士。一たいあなたは、死んでから何年におなりです?
亡霊。好かないことを仰ツしやるのね、あなたは・・・・。わたし
   ア死んではいませんよ。。わたしア斯の通りピンピンして生
   きていますよ。却つてだんだん若くなる位・・・・。
博士。でも、時々変な気分はしませんか?何やら自分の躯が、自分
   のものでないような場合がないですか?
亡霊。そりやアあります。何んぼわたしだツて、自分の好きな場所
   へ、勝手に行きたいのは山々ですのに、何やらそれが能きな
   いのです。誰かゞ人のことをつかまへて、妙な所へ押し込め
   、其所で雷みたいナものを打っかけるのです。その時の厭な
   気持ちったらありアしません。今にも気絶しそうになります
   。モーモーこんな眼に逢わされるは懲懲りだ・・・・。
博士。それなら早く退けば可(よ)いでしょう。
博士。あなたの右で、
亡霊。私は何時も一本立ちにしているのに、あの女(患者を指す)
   の方から干渉するのです。何故あの女は、あんなに威張るの
   でしょう。私だって対等の権利があるワ。
博士。あなたの方で先方の権利を侵害して居るのでしょう。
亡霊。そんな事があるもんですか!あれはわたしの躯で、あの女の
   躯ではありません。わたしは何故干渉を受けるのか、更にそ
   の理由が判らないのです。
博士。先方ではあなたの利己主義なところに閉口して居るのでせう。
亡霊。憚(はばか)りさま! なんぽわたしが莫迦でも.自分の正
   常な権利を主張する位のことは知つていますよ。
博士。困りますネあなたにも・・・・。あなたは知らぬ問に、自分
   の躯から抜け出して了つた幽霊で、現在一人の婦人の躯に憑
   (と)りついているのです。幽霊は幽霊の世界へ行くのが本
   当で、斯んなところでブラブラ彷(うろつ)いていては困り
   ます。
亡霊。彷(うろつ)いているのですツて・・・・。人のことを野良
   狗か何んかと思つているのネこの人は・・・・。
博士。そんな訳の判らないことをいうから、『雷火(かみなり)』
   をかけてやらなければならないのでせす。(電気療法の事)
亡霊。些(すこし)位なら雷火も構わないが、近頃のやうでは、と
   てもヤリ切れはしない。ノべツ幕なしにガラガラピシン!
博士。お望みならば、早速あいつをかけて上げませうか?
亡霊。誰れがあんなものを! 何んな工夫でもして、二度と再び雷
   火などに打たれないやうにすからいゝ・・・・。
バアトン夫人。(日頃自分を苦しめる憑依霊であることを認め)わ
   たしはネ、お前さんには困り抜いているのですよ。兎も角も
   名前をお名告りなさいよ。
亡霊。名前ですツて?
バアトン夫人。当たり前さ。まさか名無しぢやあるまい。
亡霊。わたしの名はカアリイ・・・・。
バアトン夫人。カアリイ何んというふ?
亡霊。カアリイ・ハンティングトン。
バアトン夫人。何所の者なの?
亡霊。テキサス州のサン・アント-ニオ。
バアトン夫人。お前さんは、余っぽど以前からわたしの躯にくツつ
   いているのネ。
亡霊。お前さんこそ、わたしにくツついているのだワ。何故さうわ
   たしの邪魔をするのか、はツきり理由を仰ツしやい! 妙な
   人もあればあるものネ・・・・・。
バアトン夫人。(躍起となり)お前さんこそ幽霊だワ!一体お前さ
   んの住んでいた街は何て言うの?
亡霊。いろいろの街に住んで居たわ・・・・。
博士。(会話を引取りて)あなたは自分の肉体を失ったことに気が
   つかないですか?病気に罹った記憶があるでせうが・・・・。
亡霊。わたしが最後に記憶してゐるのはエル・パアソーに住んでい
   たことです。その後のことは、些ツとも覚えていません。其
   所へ行った記憶があつて、其所から退いた記憶がないから、
   今でも多分其所に居るのでせう。兎に角彼所で重い病気にか
   ゝりました・・・。
博士。多分その時死んだのでしょう。
亡霊。エル・パアソーから先きの事は、何所へドサ行ったかさつば
   り知りません。何んでも何所へ出掛けることは出掛けた・・
   ・・。
   たしか汽車に乗つたらしいのですが、誰もわたしを柏手にす
   るものがないので、仕方がないから、其所に居るお婆さん(
   バアトン夫人の事)に附いて行った。
バアトン夫人。そめ時だネ、お前さんが大きな声で歌を唄つて、わ
   たしを困らせたのは・・・・。
亡霊。だツて歌でも唄はなければ、人が何を言つても返事もしてく
   れないンだもの・・・・。お前さんはわたしの言うことをき
   かないで、汽車に乗って、だんく先へ行って了ったじゃない
   か。わたしはそれが為に、自分の住居や朋達から離れ、どん
   なに迷惑したか知れアしません。そうでせう!
バアトン夫人。さうでせうがきいて呆れる・・・。幽霊のくせに、
   一人前のことを言つているから耐りアしない。
博士。(再び会話を引きとり)これこれカアリイさん、あなたはモ
   些(すこし・ち)と、自分の境遇を理解せんと可けませんナ。
   あなたはよほど念入りに、ものの道理の判らない幽霊で、む
   ろん躯などは夙に亡くなつている。多分大病に罹ると同時に
   早速死んだのでしょう。
亡霊。でも幽霊に談話ができますかい。冗談ぢやない・・・・・。
博士。幽霊でも、やり様によつては談話ができんことはない・・。
亡零。そんな莫迦なことがありますかい! 死ねば躯がそこへ転が
   っているいるぢやないか・・・・。
博士。躯はそこへ転がります。しかし霊魂は死ぬものではない。
亡霊。霊魂は神様の御許へ戻ります。
博士。ぢや神様は何所に居られますナ?
亡霊。天国・・・・・。
博士。天国というと、そりア何所にありますナ?
亡霊。イエス様の所です。イエス様を捜して行けば行けるでしょう。
博士。バイブルに、神は愛なりとあるちやありませんか? そさう
   すると神様の所在地は、寧ろ人間の胸の内部にあるのぢやな
   いでしょうか。
亡霊。知りませんよ、そんな面倒くさい事は・・・・。とに角あの
   雷火が、地獄の苦しみを与える丈は確かです。あんなものは
   些(ち)ツとも利益になりアしない。わたしは大嫌いだ!
博士。大嫌いならバアトン夫人の躯からお退きなさい。
亡霊。あのお婆さんがバアトン夫人というのですネ。今までほ何が
   何んだかよく判らなかつたが、不思議にあのお婆さんの姿が、
   よく見え出して来ました。あれなら本当の人間に相違ない。
博士。あなたほ現在私の妻の躯に憑つているから、そのお陰で先方
   がよく見えるのです。しかしこの躯は一時の借物だから、そ
   のつもりでいてください。モウ直に取りあげます。
亡霊。阿呆らしい! あなたはモ些と訳の判った人間かと思つてい
   た。そんな莫迦なことができますかい!
博士。莫迦なことぢやありませんよ。その手を御覧なさい。それが
   御自分の手ですかナ?
亡霊。わたしの手のやうではありませんネ。しかし近頃はいろいろ
   なことなかり起つているから、何が何だか判りアしない・・。
バアトン夫人。コレコレカアリイ、お前さんは何歳にお成りかい?
亡霊。失礼な! 婦人というものは齢を名告るものではありません。
博士。就中未婚の年増は、齢を名告りたがらない・・・・。
亡霊。お生憎さま! わたしはこれでも一度良人を有ちましたよ。
博士。良人の名前は?
亡霊。そいつばかりは言われません。わたしの大嫌ひな男で、あん
   なものゝ名前は、死ぬまで言いたくないです。わたしは何所
   までも、カアリイ・ハンティングトンで通します。
博士。名前などはドウでもよいが、あなたは早く霊界へお出でなさ
   い!
亡霊。叉そんな詰らないことをお仰しやる! わたしア立派な人間
   で、これまでこのお婆さんと同居して居たんですよ。それは
   さうと、この人に悪るい一つの癖があつて、それには弱りま
   すワ。お婆さんのくせに飴ンまり大食過ぎるのです。ムシャ
   ムシャ物を食べて、健康になるとわたしの力量が負けて来て、
   始末が悪いのです。(バアトン夫人に向かい)ネーお前さん、
   これから大食いだけはつゝしみなさいよ。わたしがあれを食
   べるナ、これを飲んではならないと、いろいろ言いきかせる
   のに、些(ち)ツともそれが判らないのだから。お前さんに
   もつくづく呆れますよ。
バアトン夫人。そんな下らない事を愚図愚図喋っていると、雷火さ
   んを落としてやるよ。冗談じゃない・・・・。
博士。雷火さんは次の室に備えたあります。お望みなら少々かけま
   すかな。
亡霊。沢山沢山!折角ですが、わたしならモウ要りません。
博士。おとなしく此方のいうことをききさえすれば、あんなものは
   かけはしません。ただあなたがいかにもわからずやで、他人
   の躯を借りているくせに、さも一人前の人間らしい事を言っ
   ているから、始末が可けないのです。現在あなたが使ってい
   るのは、私の妻の躯ですよ。
亡霊。お気の毒さま!わたしは今日初めてあなたにお目にかかるの
   です。あなたの妻と呼ばれる義理は、何所にもありません。
   厭なことです。
博士。私の方でも、あなたを妻にする気は少しもないのです。
亡霊。私の方でも真平です。
博士。就いては一時早く、私の妻の躯から退いてもらいたいのです。
   いつまでもあなたに妻の躯を貸して置く訳にはまいりません。
   あなたは躯の亡くなった幽霊ですから、何卒そのおつもりで
   ・・・・。
亡霊。人を莫迦にするにも程があるワ!わたしア生まれてから、ま
   だ一度もそんな囈語をきいたためしがない。
博士。お前さんも随分理解のわるい幽霊ですネ。
亡霊。何っちが理解がわるいのだ知れアしない。わたしアわたしの好
   きなことをする。あなた方に厄介にはなりませんよ。
博士。ドウも行儀の悪い幽霊もあればあったものだ。もっと穏しく
   しないと、隣の治療室へ連れて行って雷火をかけますぞ!
亡霊。雷火は御免だ!
博士。それなら心をいれかえなさいよ。お前さんは、最早自分の肉
   体が亡くなって居るのだから、早くその事を自覚せんといけ
   ません。私達はお前さんを気の毒に思うから、救って上げよ
   うとして居るのです。
亡霊。大きなお世話です。あなた方から救つて貰うほど、盲碌はし
   ていませんよ。
博士。飴ンまり判らないことを言うと、私を卸守護くださる優秀な
   霊魂達に引渡して、霊界の牢獄に放り込んで了ひますぞ。
亡霊。フン! そんな嚇し文句なんかで、ビクビクするわたしでは
   ありませんよ。わたしは何もわるい事をした覚えはないです
   よ。あなたこそ雷火なんかをかけて、人を虐めるひどい人で
   す。わたしとあのお婆さんとは仲よしです。(バアトン夫人
   に向い)さうでしょう。わたしが一度だツて、お前さんを苦
   しめたことはありませんネ?
バアトン夫人。何を言つてる! 今朝も人のことを朝の三時から呼
   び起こしたくせに!
亡霊。お前さんは朝寝坊なんかしなくてもいいんですよ。
バアトン夫人。私の眠る、眠らないはお前さんなんかの知つたこと
   ぢやないよ。図々しい幽霊だこと!
亡霊。アラ! 怒つてるの・・・・。お前さんはよつぽど寝坊な性
   質ネ・・・・。
博士。これこれカアリイ、お前さんは平気で人の邪魔をするから可
   けないのです。心を入れかへて、殊勝らしく人に救を求める
   気になれぽ、私達の方でも、適当な方法を講じてあげるのだ
   が・・・・。私の妻は数十年釆、お前のやうな亡霊達に躯を
   貸して、能る丈それ等を救済することに努力して居るのです。
亡霊。(皮肉に)御親切さまですこと!
博士。ドウもお前さんにも困ったものだ! いよいよ悔悛の色を見
   せないなら、気の毒でも霊界の方々の御厄介を願うより外に
   途がない。
亡霊.(ある幻影を見て、急に畏縮しながら)アレエツ! それば
   ツかりは御免・・・・・。
博士。御免でも御免でなくてもモウ駄目だ。
亡霊。ウアーツ!

 (右の亡霊は余りに頑冥不霊、とても説諭では悔悟させる望がな
  いので、霊界の高級霊の手に引き取られて、処分されることに
  なつたのです。)

             終わり。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:旅行

死者に交わる30年から [旅人]

                      死者に交わる30年

                                                    ウィークランド原著
                                                       浅野和三郎抄訳
                           はしがき

 本編収るところの 『地縛の霊の解放』中にもある通り、米國加
州のウィックランド博士は『死者に交はる三十年』なる、可なり大分の著
書を公けにして居ります。
 その著書の中から、故浅野氏は標本的に、4編を拾つて雑誌に発
表したのでした。憑依から釆る精神的並びに肉体的障害は、幾度想
像に飴るものがありますが、此の標本的のものによりても、大概他
を類推するに難しくはないと信じます。
 本邦にもかうした実例は、枚挙に遑ない程数多くありますが、遺
憾ながらそれ等は未だ整理されて居らないので、取り敢へす是れ丈
まとめることに致しました。
 唯本邦での実例には、ウイツクランド博士のやうに、どうしても
理解せぬ亡霊を、高級霊に引渡すという事が行はれたことを、寡聞
にして未だ聞き及ばないのであります。もし本邦の心霊家で、そん
な経験を有せないものがあるなら、今後その方面の研究を進めろこ
とも必要となるのでありませう。
編纂の次手を以て、右のようなことを一つの希望として申し述べて
置くことに致します。
     
                  昭和十四年十一月

                         編纂者記

                 


              目 次
   地縛の霊の開放          ・・・1
   憑依と自殺の実例その1      ・・・7
   憑依と自殺の実例その2      ・・・17
   憑依霊と多数人格現象       ・・・37

   

           
            「死者に交わる30年」から
                  浅 野 和 三 郎 訳
          地縛の霊の解放

 『地縛の霊』とは、英語のゼ・アース・ハウンド(The Earth
 bvund)の訳語で、所謂『浮べぬ霊魂』『迷へる亡者』などゝ同様
な意味を以て使用されて居ることは爰に申上ぐるまでもありますま
い。実際問題に触れない人は、おしなべて斯んなもの存在を否定し
たがりますが、凡そ天下にこれはど無智な、向ふ見ずの仕打はない
でせう。心霊実験が進歩しなかつた時代には、或はさう考へられて
も致し方がありますまいが、今日では、霊媒を用いて地縛の霊を捕
らえるることは、顕微鏡を用いて微細な徴薗を捕へるよりは寧ろ容
易で、且つ正確味がある位であります。
現在日本にも西洋にもそうした仕事に堪能な霊媒は、決して少きを
憂えません。
 西洋で地縛の霊を捕らえるに妙を得ている、有名な霊媒の一人は、
米固加州カール・ウイツクランド医学博士の夫人で、その詳細は同
博士の著述にかゝる『死者に交はる三十年』(Thirty Years Among
 the Dead)中に忠実に記述されて居ります。
一々証明づきの報告で、今更之を否定しょうとしたところで、天に
向って唾するが如く、とてもできない相談であります。
 ウイツクランド博士夫妻は、先般ライ欧洲大陸を漫遊して、心霊
上の講演、並びに実験を行ひつつありましたが.本年八月英国滞在
中には、『ロンドン心霊協会』などでも講演を行つた模様でありま
す。するとウイツクラン夫人の霞媒能力は、入英後間もなく活動を
起したらしく、右に関する記事が、サー・アーサ-・コナソドイル
によりて、最近『デイリイ・エキスプレス』紙上に報告されて居り
ます。大要を述べると左の通りであります。
 『某日ドイル氏は、ウイツクランド夫妻を携へて、ザセックス州
の某荘園を訪問した。一と通り古い建物を見物して辞去したが、そ
の際ウイツクランド夫人の眼に、一人の奇妙な格好の老人の姿が映
じた。彼は余程の老齢で、駝背(セムシ)であつたが、ヨチヨチ一
行の後から付いて来て離れようとしない。夫人は言つた。「あれば
地縛の霊で、昔この荘園に住んで居たものです・・・・。」
一行は村の宿屋へ入つて茶を喫んだり、その他諸所を歩るきまわっ
たりして、日暮漸くドイル氏の住居に戻つたが、その問老人の附い
て来るのが、始終夫人の眠に映じて居た。やがて室に入ると、早速
老人はウイツクランド夫人に憑依して、自分はダヴット・フレツチ
ヤーであると名乗った。
  段々聞いてみると彼は元荘園の管理者であったが死後既に1世紀
以上になるらしかった。そのくせ彼は未だに自分の死んだことに気
がつかず、たゞ誰かに水中に押し込められたこと丈を記憶して居た。
従つて彼は今以て荘園の管理をしてゐるつもりで居るのであつた。
ウイツクランド博士は、かゝる際に使用する常套手段に出で、彼が
最早人問界のものではないこと、従って眼を霊界に開き、向上の途
を辿るべきこと、死んだ以上駝背などは、疾うに放棄すべきこと、
其他いろいろ懇切なる注意を与えたもので、あわれなる霊魂は、死
後百年以上を経過した今日に於いて、初めて窮屈なる地上の雰囲気
から脱却し、美しい霊界に安住の地を見出すことになつた。
 彼は死後初めて自分の母の霊魂、その他に逢って非常に歓んだ。
後で荘園の記録を調べて見ると、果たして十八世紀の末葉に、ダヴ
イツド・フレツチヤーなるものが、強盗の手にかゝりて非命に死ん
だことが確かめられた・・・。
 斯んな話は、千百の実例中のたゞひとつで、材料はいくらでもあ
ると言つて宜い位であります。
実に人間の執念、殊に死の瞬間のつきつめたる覿念ほど.強烈に死
後その霊魂を束縛し、左右するものはありません。肉体のある人間
は、衣食住その他の仕業に屈托し、叉感覚の動きに捕らへられて居
りますので、一意見専念、唯一事を思ひつめるということは減多に
ありませんが、死者の霊魂は、念(おもう)ことだけが全生命であ
り、自から造りあげた狭い、苦しい観念の世界に閉ぢこもつて、未
来水劫同一事を繰り返し繰り返し、徒らに時を刻むのであります。
 これは心霊実験の明示する所で、推理や想像の所産にかゝる、コ
ジツケ説ではないのであるから、動きが取れません。東西の心霊研
究家が声をからして、警世の言葉を絶叫しつゞける所以も、実にさ
うした確信の上に立つからであります。
 ウィックランド博士夫妻の今回の欧洲巡錫が、一般人士に封して、
何れほどの感化を及ぼすことになるかは、今のところでまだ不明で
ありますが、兎に角かゝる計画が彼地で着々実行され、そして『デ
ーリイ・エキスプレス』の如き新聞紙が、真面目に之を報道すると
いうことは、日本ではまだ見られぬ現象で、西洋の方が日本に比し
てたしかに-日の長があると言はねばなりますまい。その癖日本国
に地縛の霊の災厄が少ないかというに、決してさうではないのであ
ります。殊にかの関東大震災の如き、転瞬の問に、数十万の人畜の
生命を奪つたことを考えれば、いかに浮べない亡者が多いか、想像
に難くないと信じます。
 『そらつ地震だ! 大変だ! あぶない! 逃げろツ!』
さうした刹那の恐怖に戦慄しつゝ、今猶愛児を尋ね、愛妻を捜しつ
つ、右往左往する亡霊は、いかに鉄筋コンクリートの聳(そび)え
立つ、復興の都大路に充ち充ちて居るでありましょう。私の実験の
結果も、明らかにさうした消息を物語るものがあります。
 『亡霊なんか、いくら騒いだつて構わんちやないか! 亡霊は亡
霊だ。生きた人間の知つたこつぢやない。』
 私はよく斯うした放言に接しますが、こんな勇気は、畢竟(ひっ
きょう)無知から生る勇気で、丁度低脳者がチブス菌だらけの生水
をガブガブ飲むのと同様、一向褒める値打ちがありません。
 心霊研究の結果が明らかに証明する通り、現幽の問には、密接不
離の因果関係が存存し 人間の肉体は、間断なく幽界居住者の宿泊
所となり勝ちなのです。発狂、ヒステリイ、神経衰弱、瘋癲、慢性
病、悪癖、出来心、・・・
われわれ人間は、表面的観察に基きて、斯んな名称をくつつけて、
済ました顔をして暮らして居りますが、適当の心霊的手段方法を以
て、其裏面の消息を探って見ると、其所にはきまり切つて幽界の落
武者.つまり地縛の霊が頑張つて居るのを見出すのであります。
 現代の薬物医学、倫理学、法律、政治、宗教等は、此等の、此等
に封して、姑息手段以外に、殆んど手を下すべき術を知りません。
暴ばれるから拘禁する。眠れないから睡眠薬を欧ませる。衰弱する
から転地させたり、滋養物を食はせたりする。
他に迷惑を及ぼすから刑罰に処する。悪いことをするから説法する。
死んだから葬式をしてやる・・・。これでも一時を糊塗し得ないで
はありませんが、根本的社会改良、生活改善は望まれません。
微力ながら私どもなら、も些と奥深く突入して、此等人生の不幸災
厄の眞因をほじくり出して、通常に処分することができまます。無
論日本の心霊研究は、今日漸く整理の緒に附いた丈です。吾ゝは一
方に於いて、在来伝統の諸霊術(各派の修験者等の修法)を審査し
護養成して、的確なる幽明の交通を講じつゝ、苦心努力を重ねてい
る最中で、まだまだ充分安心の域に達して居りませんが、しかし大
概の霊的調査なら、先づ遺憾なく遂行しうる連行し得るところまで
漕ぎつけました。その結果最近数ケ月間に、幾多の重病者が見事に
平癒し、幾件かの難問題が立派に解決されました。実用向きのでは、
必しも劣りません。事によつたら現在では日本の霊媒の方に、或は
少し勝味が見えはせぬかと考へらるゝのであります。
 兎に角幽冥の世界と.人間の世界との問には、案外関係が深く、
人生の安危存亡、吉凶禍福は、主として其所から生れ出ると言つて
も過言ではないのが事実であります。
人間が強いて眼を瞑つて、無知によりて一時の安心を獲ようとする
のは、たゞ損の上塗りをする丈のことで、一向詰らない、幼稚至極、
愚劣千万な話しであります。それも昔のやうに、頭から只かく信ぜ
よと迫るのなら、其所に無理が伴いますが、二十世紀の心霊研究は、
未だ曾てそんな事を何人も強いようとはしません。現在はこれこれ
の霊媒が居り、これこれの方法によりて、これこれの結泉を挙げて
居るのだから、公平な見地でよく調べた上で、お亙に事実を事実と
して認めるの雅量を有とうではないか。これは決して他事ではない、
直接御互の身の上にかかる問題だから、一時も早く適当の方法を講
じょうではないか。たゞさう主唱する丈なのであります。
まさかにこの正当な主唱が通らぬほど、暗い日本国ではありますま
い。・・・・(昭和二・九・ニ○)


                         
         憑依と自殺実例

           その一

 世間には何の為めの自殺か、外面的にはさツばり訳の分らぬもの
が少くありません。
そんな場合には、大方気でも狂つたのであらうとか、何か世め中を
悲嘆したのだらうとか、いい加減の理窟をくっつけて、有耶無耶に
葬って了うのを常としますが、一たん通常な霊媒を据えつけて、其
裏面の消息を探ると、その大部分が憑依霊の仕業であることが明ら
かに突きとめられます。憑依霊の種別は大別して二つに分れます。
即ち
 (申)是非とも相手を倒そうという目的で憑(かかって)って来
    るもの。
 (乙)戸惑の結果偶然に憑つて来るもの(換言すれば自殺した者
    の霊魂が.死後自己の意識が継続して居るのを見て、てっ
    きり自分は自殺し損ねたものと勤違いし、他人の肉体に飛
    込んで来て、自殺行為を続行するの類)
 自殺は一般に罪の深いものとして、何れの宗教に於ても大てい之
を排斥しますが、心霊実験の結果も、これを裏書します。自殺者の
霊魂は大てい地縛の霊として娑婆にうろつき、自分が勝手に縮めた
丈の期間をその状態で送るべく余儀なくされるやうです。この種の
霊魂に憑かれた人間は、まことに災難で、自然その陰気な思想にか
ぶれます。
 私はこれからウイツクランド医学博士の数ある実験の中から、参
考になるものを二三抄出して紹介する事にします。何にしろ博士夫
人(アンナ・エム・ウイツクランド女史)は、この種の実験にかけ
ては、恐らく世界随一の好霊媒で、前後三十年問も良人を助けて、
そればかり行つているのですから、その実験記録中にはなかなか立
派なものがあります。
私自身の実験中にも、面白いのが少くありませんが、それは後日一
とまとめにして、整理の上に発表することにして、当分外国の実例
中の優れたものから、先づ皆様にお目にかけるつもりであります。

      Ⅹ 夫 人 の 自 殺

Ⅹ夫人は、クイックランド博士が少年時代を英固で過して居る時分
に、
日曜学校の教師だつたもので、クイックランド夫人とは一面識もな
く、夫人はⅩ夫人の存在さへも知らずに居たのでした。
 Ⅹ夫人は利発で、精神的で、幸福なる結婚生活に入り、二児の母
として、何不足なき身分の人でした。ところが彼女は、一見幸福と
満足の絶頂に放て、ダシヌケに首を絞つて自殺を遂げました。愕い
たのはそめ良人と子供達とで、何故の自殺なのか、頓と推定さへつ
かないのでした。
 ところがⅩ夫人が自殺してから、約十ケ年を経過したある冬の日
に、シカゴの自宅に放て、ウイツクランド夫人は、急に神憑状態に
なりました。その憑霊は気息(いき)がつまつて、しきりに悶(も
がき)き抜いている状態を続けるのです。
霊媒に憑依する事に慣れた霊魂は、最初からそのつもりで居るから
始末が宜いが、初めてこの経験をするものは、他人の脳と自分との
見境がつかず、突然物質的肉体に接蝕したはづみに、普通その臨終
の際の悶えを繰り返します。
 ウイツクランド博士は、斯んな事には慣れ切つて居ますから、直
ちにその想依霊に向つて姓名を訊ねますと、意外にもそれが十年前
首をくくって自殺を遂げた、ロンドンの旧友であることを発見しま
した。絶女はその時までも、地縛の霊魂として残り、十年問に嘗め
させられた精神的苦痛は、実に言語に絶するものがあつたのでした。
 Ⅹ夫人の嚢魂は斯く物語りました。

 『私は自分の躯から抜け出た瞬間に、初めて何故あんな向ふ見ず
のことをしたかということに気がつきました。他人の嫉(そね)み
から、私の身に附き纏うことになつた悪霊ども・・・そいつ等が私
の傍に立って、さも得意らしく、歯をむき出して嘲つて居るではあ
りませんか!
『私が自殺したのは、全く其奴達の仕業で、ツイうつかりした隙間
に、イタヅラをされて了つたのです。私は不可抗力の一の衝動に駆
られて、夢中で首の周囲に紐をくゝりつけたのです。これは可けな
いと気がついた時には、モウ手遅れでこざいました。
私は若しモ一度白分の躯を取りもどすことが能(で)きれば、何ん
なことでも致したいと思ひました。私が経験した絶望と、後悔との
十年問の苦しみ!家庭は砕け、良人は落胆、二人の子供達は、母を
尋ねてさぴしさに泣いてゐます。
私は何時も彼等の傍に行つていたのですが、先方ではむろんそんき
とには少しも気がつきません。その問の私の胸の暗さ、苦しさ・・
・。』
ウイックランド博士は、何時もするやうに、Ⅹ夫人に向って、霊界
の真の生活に就きまして諾々と説明を試み、一時も早く心の闇を披
(ひら)いて、信仰の光明を求むるやうにさとしますと、元来判り
のよい霊魂ですから、直ちに悟りの扉が開けそめ、霊界の指導霊に
就きて、まことの教を受け、ドウすれば地上に残せる愛する者に対
してお役に立ち得るかを、眞心から研究することになりました。
 それから幾年か過ぎた時、クイックランド博士の所に、一人め自
殺癖のある患者が来ますと、Ⅹ夫人の霊魂が再び戻って来て、博士
夫人のロを借り、右の患者に向い一場の訓戒を試みました。左にそ
め全部を紹介します。


      何事ありても自殺はするな


             (一九一入年十一月十七日の実験)
『随分永いこと御無沙汰を致しました。こゝにお在(いで)の御婦
人は、しきりに自殺しょうと考えて居られますが、それに就きて、
私からちよつと御忠告上げたいと思うのでございます。
 『実は私自身も元は幸福な人妻でどざいました。可愛い子供が二
人もあつて、良人はこの上もなく親切・・・・・。それに夫婦とも
快活な性質でございますから、人に羨まるゝはど円満な家庭を作っ
ていました。
が、人生は何所に不幸の種子が潜んでいるか知れません。家庭の囲
満が、却つてある人の嫉視の標的にされたのであります。
 『その自分の私は浸礼教会に属し、自分が霊媒的の感受性を有つ
ていようとは、些(ち)っとも存じませんでした。で、私は家庭の
主婦として、ひたすら家事に没頭して居たのですが、ある人がひそ
かに邪道を用いて、私蓬の家庭を傷けることに着手しました。ある
私は仕事に出掛ける艮人を迭り出し、大へん愉快な気持ちで家に居
たのですが、急に変な気分・・・。
何物かに全身を占領されたやうな気分になり、それつきり何が何や
ら、さっぱり判らなくなつたのでした。
 『むろん私は自分が何をして居たのか、些(す)しも記憶しませ
 ん。
それは全く夢中なのでした。たゞ誰かにグイと掴まれたやうな、不
思議な気分だけが、かすかにあつたやうに思います。
 『が、しばらく過ぎますと、すつかり様子が変わりました。一ば
ん早く気がついたのは、私の良人が、いうに言われぬ悲痛の色を浮
べて、男泣きに泣いてゐる光景でした。それから意識がモ些し明ら
かになつて来た時に、私は自分の躯が、プラリと梁から吊り下つて
ゐる光景を認めました!
 『その時の私の心持は、とても皆様にお伝へすることは能(で)
きません。良人は垂下せる私の屍骸を眺めながら、ボンヤリ其所に
佇(た)っています。その両眼からは、涙が雨のやうにほうり落ち
ますが、私には良人をドウ慰める術もありません。能(で)きるこ
となら、モ一度自分の冷たい体内に戻りたいと思ひましたが、そん
なことはモウ後の祭り・・。
二人の子供等も、私の変わった姿を見て泣いていますが、人間で
なくなつた私には、それをドウすることもできないのです。
 『最初私は、何故斯んなことになつたのか、些つとも見当が取れ
ませんでしたが、二三の悪霊どもが、すぐ傍で、私を見て嘲り笑つ
ているので、初めてそれと気がつきました。彼等は私の躯を占領し
て、私に首をくゝらせ、家庭の幸福を砕いて了つたのです。
 『私の良人は、その後、水久に物置の架からプラ下つている私の
首吊姿を忘れることができません。子供達はまだ稚いので、何より
も母の助けを要するのですが、その養育の任務は、良人の手一つに
かゝり、私は蔭からそれを見てゐる丈で、あゝ済まない済まないと
思いつゞけるより外に致方がありませんでした。
 『私の自殺は、単に悪霊の憑依の結果で、その他に何の過失はな
いのですが、それでもまるまる十年問というもの、私の眼に映るも
のは、たゞあの時の光景のみでした。タラりと垂下した醜しい自分
の肉体、絶望せる艮人と泣き叫ぶ二人の子供・・・。その苦痛はと
ても言葉には尽くせません。
 『丁度十年問経つた、ある冷たい冬の日に、私は何やらもう一度
姿婆へ戻ったやうな気がしました。私はポカリとした躯の温みを感
じました。
それが何所であるのかはよく判りませんが、ドウやら人間界には相
違なく感ぜられました。言葉をきいて見た時に、初めてそれがウイ
ツクランド博士の所であることが判りました。博士のお話で、私は
初めてウイツクランド夫人のもの躯を一時拝借していること、それ
から一切の現世的迷妄を振り棄てゝ、真の霊的生活に入り、自他の
利益を図らねばならぬことを悟らせて戴きました。
 『それからの私の境遇は、ずっと改善されました。今日私が霊界
の美はしき境涯に安住することの能きますのは、皆博士並に博士夫
人の献身的指導の賜であります。
 『しかしそれまでの十年問の苦痛悔恨! 垂下せる醜しき死骸・
 ・・
人生の悲惨に泣く良人と二人の子供とのあはれな姿・・・。眼には
見えても扶(たす)くる途も.慰める術もなき私の心の苦しみは、
何れほどでありますたろう!
 『で、私は衷心から自殺を計る所の一切の人々に向って、警告し
たいと存じます。

 何事ありとも自殺ばかりはなさいますな

 『あなたは何にも御存知がないので、今自殺しょうとして居られ
ますが、それは御自分の入る地獄を造り上げるのです。一たん躯か
ら出脱けた上はモウニ度とその内部へは戻れません。それっきり御
自分の務めを果たすことが能きなくなります。
 『何よりも先づ、私の子供等のあはれな身の上を考へてください。
日分達の母親は自殺をしたのである、という考へから、終生離るゝ
ことができないではありませんか! 
私の良人も、叉子供等も、決して心から私を恕す気にはなれません。
縦令それが憑霊の仕業であつて、自分自身の心から出た仕業ではな
いにしても、私はあんなに苦しまねぽなりませんでした!
 『若しもあなたが、真に霊界方面の法則を御存じならば、あなた
は決して自殺しょうとはなさらないでせう。その結果が実に恐ろし
いからです。
是非その忌はしい考にだけは打勝ってください。自然にあなたが霊
界に入らねばならぬ時節の到着するまで、この地の世界で幸福にお
暮らしなさいませ。
 『私が苦しみ抜いた十年といふ歳月は、私が無理に縮めた期間で
した。
あの十年を地上で過した上で、私は霊界の人として、叉母として行
る丈の任務を首尾よく果した上で・・・・・。
 『霊界には霊界の厳律がございます。自分に与えられたる期間を、
現世に過ごした上でなければ、自分ぎめに霊界には入れません。私
は私の過失に封する刑罰として、十年の問、間断なく自分の眼に、
自分の醜しき屍骸の垂下している状況を見せられました。そしてそ
の間、私は自分の良人と、子供等とが何んなに困っているかといふ
事を忘るゝ隙とてありませんでした。
 『私は目下相当に幸福でございますが、真の幸福はは、霊界で自
分の愛する家族と再会する時でなければ味われません。私はそれま
で、こちらから子供達を助けるべく全力をさゝげて居ります。
 『良人には博士から私の愛を伝えてください艮人はいつも一人ぽ
っちと思っていますが、実は私がいつもその側に居るのです。側に
居りますが、慰めることも、手助けすることもできません。・・・
これでお告別致します・・・・』
            (大正十四年・十二)


       憑 依 と 自 殺 の 実 例


          そ  の  ニ

   1.地 縛 の 霊 魂

 前章に引き続きて、憑依霊と自殺に関する新実例を紹介します。
例によりて、ウイツクランド医学博士、並びに同夫人の数ある実験
の中から、適当と信ぜられるものを選びますが、御承知の通り、同
夫人は地縛の亡霊を憑(かか)らせるに、誠に誹向きの好霊媒で、
自由自在に、現幽両界の連鎖を講ずる手腕は、殆んど前代未聞と言
つて差支ないと存じます。
憑霊現象の実地を知らぬものは、ちよつと腑に落ちかねる虞(とこ
ろ)があるかも知れませんが、その理論は一度腑に落ちれば.比較
的簡単であります。
かねがね申上げます通り、霊媒は一の生きたる器械であります。
たゞ生きて呼吸して居る丈で、多くの場合に於て無意識であり、常
人の個性は、可及的混入せぬを以て原則とします。さうして置いて、
此生きた器械を、当人と全然無閲係の、他霊魂に貸すのであります
から、その人の人格とは、全然異なった別人格が現わはれて、或は
言葉をきゝ、或は文字を書きます。
心理学者は、その別人格の処置解釈に困り、苦しまぎれに潜在意識
説だの、暗示説だのを提唱します。
幼稚劣弱な霊媒の場合に於いては、潜在意識説位で、曲りなりにも
説明がつきますが、ウイツクランド夫人見たいな、優秀的確な霊媒
になりますと、死者の霊魂の個性が歴々として現われ、幾らでも動
きの取れぬ証拠を挙げますから、潜在意識説や、暗示説では.到底
説明がつかぬ事になつて来たのであります。潜在意識説も、暗示説
も、過去の詐術たっぷりの似而非霊媒を撲滅掃蕩(ぼくめつそうと
う)するのには、大なる効果臭がありました。
イヤ日本のいかゞはしい霊媒現象に対しては、現在でもまだ頗る有
効な武器であるかも知れません。しかし時代は急速に進展しつつあ
ります。現在の世界の心霊界は、そんなものでおさえつけられるに
は、余りに長足の進歩を遂げて了いました。いつまでも弓矢や竹槍
で戦争ほできません。今頃尚お真面目くさりて暗示説やら、潜在意
識説やら一点張りで騒いでいる連中を見ると、他人事ながら冷々い
たします。
前にも申上げた通り、ウイツクランド夫人に憑つて来る霊魂は、そ
の殆んど全部が地縛の亡霊でありますが、この種の霊魂に就きては、
読者の方で、ある程度の理解を有つことが肝要であります。『死』
決して罪深き者を聖者にするものでもなく、叉賢者を愚物にするも
のでもありません。
死者の精紳状態は、生前から引続いて、その希望、習慣、意思、僻
見、迷信等を持ち超しているのが多数であります。生きている人間
は、死を恐るゝこと蛇蝎(へび、さそり)の如く、且つそれに神秘
的色彩を帯ばせますが、実際死んだ者の告白等から推定すると、死
ぬることは案外に自然的なもので、物質的肉体から脱出した人達め
多数は、自分の死んだことに気づかす、何やら勝手が少々異って来
たナ、位にしか考へて居ません。一方に放て物質的感党を失つて居
るから、今迄のやうに物質界の事情も分らす、他方に於いて死後の
世界の規律法則を知りませんから、精紳的にも盲目であつて、無自
覚な死者の霊魂は、随分憐れむべき状況に沈淪(りん)して居りま
す。そんな亡霊達が、普通多くは地の世界の雰囲気の中にマゴマゴ
して居る所の、いわゆる地縛の霊魂となるのであります。
 ズッと上層の霊界まで進んだ霊魂達は、間断なく地の世界に降り
て此等地縛の霊魂達を啓発すべく努力するようですが、困った事に
は、両者の距離が余りにかけ離れ過ぎて居るので、所謂大声耳に入
り難き憾があり、且つ亡霊の多くは、死は滅亡だという間違つた先
入観念に捕へられて居るので、好意を以て自分を迎うる先輩の霊魂
を、何やら怪しい一つの幻覚である位に考へて、容易に信頼せぬ傾
向が多いやうです。斯んな連中は、むしろ之を霊媒の躯に憑依せし
めて、心霊上の知識ある人間の手で説諭した方が、却つて余程効能
が多いやうに見受けられます。ウツクランド博士は、よく其間の呼
吸を諒解し、常に諄々として亡霊の説諭を試み、多くの場合に於い
て、驚くべき良成績を奉げて居ります。
 地縛の亡霊の一番厄介な点は、物質的肉体を失つているくせに、
生前の物質的慾望が、依然として残存して居る事で、彼等の為にも
、叉人間の為にも飛んだ迷惑な現象が起ります。外でもない、それ
が憑霊現象であります。入間の躯からは一の磁気的光線を放射しま
す。それが所謂霊衣(オーラ)であります。
亡霊達はこの光に引きつけられて、意識的叉無意識的に、霊衣の中
にとぴ込み、そして次第に、其人間の思想感情までも左右します。
ヒステリイ、発狂、悪癖、その他の不健全なる性質がかくして発生
します。
古来『悪魔』扱いを受けたのは、多くは此等地縛の霊魂のようで、
悪魔は悪魔ですが、個人の欲望、迷信、無智等から発生した人間お
手製の品物であります。
 従来人間に発生せる不宰災厄の大部分、叉原因不明の不可解の事
件の多くは、此等の肉体のなき幽界の居住者のイタヅラであります。
正直とか眞心とかは、甚だ結構なものに相違ないがそれ丈では、必
ずしも憑依の防御にはなりません。
此等の問題につきての完全な知識・・・これが何よりたよりになる
金城鉄壁であります。
肉体の欠陥も、勿論ある程度までは、悪霊から憑依さるゝ原因とな
ります。
即ち生来襲はれ易き体質、神経系統の欠陥、不意の驚き等がそれで
あります。
叉一般に躯が衰弱して居る場合には、抵抗力が薄弱なので、兎角彼
等のつけ込みどころとなります。
 今回の説明は、この辺で一と先づ切り上げて置きまして、次に実
例を紹介することにします。


       ニ、お婆さんになる丈は真平

 B夫人は自殺癖のある狂人で、食物や睡眠を取らず、間断なく頭
髪をかきむしり、骨と皮ばかりに痩せこけて了ひました。到底医術
を以て回復の望みはないものとせられ、まるまる三年間某精神病院
に監禁せられました。
 この患者が縁あつて、ウイツクランド博士の治療を受けることに
なつたのであります。最初は幾度も自殺を企てましたが、敷週にし
て彼女に憑依せる一人の亡霊・・・それは自殺した男の霊魂です・
・・を駆除しますと、それっきり自殺の衝動が止み、しばらくして
ズンズン健康体に復し、今日では、心身共に立派な人間となりて家
族と同居し、以前の職業を営みつゝあるのであります。これがウイ
ツクランド博士と、右の亡霊との問答です。・・・・


 時 日 一九-九年二月二十二日
 亡 霊 レエフ・ステイヴンス。(B夫人に憑れる男の亡霊。)
 室 媒 ウイツクランド夫人.
 審査人 ウイツクランド博士。

博士。あなたは何地(どちら)からお出になりましたか?
亡霊。あちこち彷徨(さまよ)って居る中に、光が見えたからやつ
   て来ました。
博士。お名前を一つきかせてくれませんか?
亡霊。名前・・・。そんなものは知らない。
博士。あなたは御自分の姓名を記憶して居ないのです?
亡霊。私ア何一つ記憶して居ないのです。頭脳が攣挺(へんてこ)
   で、考へる   ことがさっばり能きなくなつて了つたので
   す。一体私は何の用事があつ   て此処に居るのでせう。
   あなたは何誰です?
博士。私はクイックランド博士というものです。
亡霊。何の博士です?
博士。医学博士ですよ。・・・・あなたのお名前をきかせてくださ
   いナ。
亡霊。名前には弱つたナ。妙な話だが、ドウも私は自分の名前が想
   ひだせないので・・・・。
博士。あなたは死後何年になりますか?
亡霊。死後ですって! 御冗談仰っしやい。私ア死んではいません。
   死んで居るなら結構なのだが・・・・。
博士。あなたは生きているのが余程厭だと見えますね?
亡霊。厭ですとも! 私ア何度もく死なうとしたのですが、その都
   度必ず生き返って釆るのです。何故私には死ぬことができな
   いのでせう?
博士。真の死というものはありませんよ。
亡霊。無いことは無いと思うが・・・・。
博士。ドウしてさう思ふのです? 何か正当な理由がありますか?
亡霊 理由なんか知るもんですか!(萎れ切つて)私アたゞ死にた
   いのだ死にたいのだ!世の中というものは、実にイヤな陰気
   なところだ。私ア死にたい。死んで何も彼も忘れて了ひたい。
   どうしてそれが能きないのかしら・・・・。時々はこれでも
   死んだやうに思うこともあるが、早速生き返って了ふには弱
   って了う。私ア早くこの苦痛悔恨からのがれたい。何所へ行
   つたら立派に死ぬことができるかしら・・・・。
   そりア私だつて、ときどき明るい堤所(霊衣(オーラ))へ
   出ることもあるが、すぐに叉暗闇の中へ突っつき出されて彷
   徨(ほうこう、うろつき)きはじめる。
   何所へ行つても、自分の、自分の永住の場所が見つからす、
   叉死ぬことも能きない。どうにかしてこの暗闇(くらやみ)
   から脱れる工夫はありませんか。
博士。君は迷って居るのですね。
亡霊。さうでせう? 何所かに本当の道があるでせうか?
博士。本当の道は自分の心にあります。
亡霊。私だつて、これでも元は神様を信じました。天国や地獄を信
   じて居ました。しかし今は駄目です。私アたゞ忘れたい丈で
   す。一切を忘れ、自分の存在までも忘れたいのです。
博士。あなたは自分の肉体が失せたことは知つて居るでせうね。
亡霊。そんなことは知りません。
博士。それなら何故爰に来て居ます?
亡霊。何故ですかねえ。私アあなた方の姿を見ますが、一人も知つ
   た顔はありません。しかし、あなた方は何れも皆親切な頭を
   して居られる。ドーか私に少しの光と、慰安とを恵んでくだ
   さい。私は何年となくそれ等に離れて居る。
博士。一体あなたの苦痛は何が原因です?
亡霊。世の中には神様は無いのでせうか? 何故私はこんな暗闇の
   中に放り込まれてばかり居るのでせう? 私だつて最初から
   の悪人ではありません。
   尤も私は・・・・私は。あなた方にそればかりは言れない。
   私は死ぬより外に道はない。死にたい死にたい!
博士。何んでもいいから、あなたの思つてゐる事を残らず言つて御
   覧なさい。
亡霊。私は悪い事をしたのです。神様だって私のやうなものは、決
   して宥(ゆる)してはくれません。とても駄目です。
   とても・・・。
博士。あなたは気を鎮めて、現在ドウなつているか、よくそれを了
   解せんと可けません。あなたは御自分では。当たり前の人間
   のつもりでせうが、実は現在一人の婦人の躯使つている幽霊
   なのです。
亡霊。冗・・・冗談仰ツしやい。いかに私がとぽけて居ても、自分
   の躯が婦人になるのを知らずに居るものですか! (この時
   ある霊魂の姿を見て急に昂奮する。)これ! 来やがつたナ!
   あっちへ行け! あいつがあいつが!とても耐らない。
博士。あなたはどんな罪を犯したのです!
亡霊。そればかりは言われない。そんな事を言おうものなら、すぐ
   に捕縛されて了う。・・・私はモウ爰には居られない。逃げ
   よう逃げよう!斯うして居ちやとても駄目だ!あいつが追い
   かけて来て縛らうとして居る。逃がしてくれエー!(患者の
   B夫人は今まで何回となく逃走を企てたのです。)
博士。あなたは目下何処にに居ると思って居ます?
亡霊。ニューヨークに居る。
博士。違っていますよ。あなたは目下加州のローサンゼルスに居る
   のです。それからあなたは、今年は何年だと思って居ます?
   一九一九年ですよ。
亡霊。一九一九年? そんな筈はない。
博士。何年だと思つているのです?
亡霊。一九〇二年です。
博士。それは今から十七年も昔のことです。あなたはモウ肉体のな
   い人間・・
   イヤ幽霊です。世の中に真実の死というものはありません。
   亡くなるものはたゞ肉体だけです。あなたは生前心霊間題を
   研究したことはないですか?
亡霊。ありません。私アたゞ神さまを信じた丈です。・・そうそう
   私の名はレエフというのです。姓は忘れました。私の父親は
   死んで居ます。
博士。つまりあなたと同じことになつて居る丈です。
亡霊。達ひます。私ア死んではいません。私ア早く死にたい。どう
   か何処へ連れて行つて殺してくれませんか。あれあれ!彼奴
   等が叉追いかけて来る。掴まっちゃ大変だ!この上監獄へで
   もプチ込まれて耐るものか!
博士。ドウもあなたは無智の為めに、心の眼が開けて居ないのだ。
   懺悔なさい。
   さうすれば助けてあげます。
亡霊。懺悔などはできません私には・・・・。前にも試みたが、で
   きすに了いました。
   私の過去は、私の眞正面にはっきり浮き上つて見えます。
博士。先刻からいろいろ伺ったところで想像すると、ドウもあなた
   は他の人問に憑依し、自殺するつもりで、それ等の人達の生
   命を幾人も奪りましたネ。
   時々あなたは、何やら変な場合に臨んだととがありましょう。
亡霊。ドウだか私には判りません。叉判らうとしたこともありませ
   ん。(吃驚してアレ!彼所にアリスが居る!アリス、堪忍し
   ておくれ、私はそんな所思(つもり)ではなかつたのだ。堪
   忍しておくれ・・・。
博士。自白なさい早く・・・・。さうすれば助けてあげます。
亡霊。実はアリスと心中するつもりで失策(しくじ)ったのです。
   アリスお前は何故私に殺して呉れと言ったのだ? 何故あん
   なことを言つて呉れたのだ! 私ア最初お前を殺し、それか
   ら自殺を図ったのだが死に切れなかつた。アリス、アリス!
   勘忍してお呉れ!
博士。そいつア少し違って居る。女の方があなたより少し訳が判っ
   ているやうだ。
亡霊。アリスは『あの時は莫迦な眞似をした。』なんて言って居ま
   す。私はす   っかり事情を打ち明けても構ひませんが、
   さうすると捕縛される虞(おそれ)がある。・・・・。
博士。私が請合う、大丈夫捕縛されはせん。早く自白なさい.
亡霊。実はアリスと私とは.夫婦約束をして居たのです。ところが
   彼女の両親は、私の事を見込のない人間と見くぴつて、結婚
   を許してくれません。
   むろん二人は惚れ抜いてゐる仲ですから、それならアリスを
   私の手にかけて殺した上で、自殺しようといふ事になつたの
   です。・・・
   で、たうとうそれを決行したのですが、私アドウしても死に
   切れません。
   アリスも爰へ出掛けて来るところを見ると、多分死損ねたか
   と思ひます。兎に角私は、何時も彼女から責められてばかり
   居ます。
博士。何(ど)うして死損ないをしたと思うのです? あなたが手
   を下して、アリスを殺したではありませんか?
亡霊。むろん殺しました。ピストルでアリスを射殺し、続いて自分
   を射ちました。が、私はアリスが床の上に横わつている状況
   を目撃すると、耐らなくなって起き上って、その場を逃げ出
   しました。それからの私は、年がら年中走り続け、逃げ続け
   で、一生懸命になって、一切を忘れようとして居ます。
   しかしドウしても駄目です。時とすると、アリスがひよつく
   り私の所へ出掛けて来ます。其様な場合には、私は何時も
   『アリス勘忍して呉れ。私がお前を殺したのだ。迷ってくれ
   るナ。』と言つて逃げます。
   さうしている中に、時々変な事が起ります。先日などは、
   何やら自分が一人のお婆さんになつたやうな気がして、ドウ
   しても仕方がないのです。時々その癖が脱けて自分に戻ると
   こともあるが、やがて叉お婆さんになつて了うのです。
博士。あなはその間他人の躯に憑衣して居たのですよ。
亡霊。憑依? 憑依って一体何の事です?
博士。聖書(バイブル)の中に汚れた霊魂の話が出て居ませうが。
亡霊。ありますナ。兎に角私アお婆さん時代に、自殺したくてしや
   うがなかったが、どうしてもそれが能きませんでした。その
   お婆さんが、叉どこまでも私の身遍に附き纏つてしやうがな
   い。あれには全く弱りました。
   モーモーお婆さんだけは眞平御免です。(昂奮して)アリス、
   お前は此方に来ちや可けない!
   お負けに婆さん時代には、時々電気が起つてパッパッと火花
   が出るので困りました。とても助からないと思つたことが、
   何度あったか知れません。丁度それは雷が落ちて感電したや
   うな感じです。そめくせ死にもしませんでしたが・・・・
   (ウイックランド博士が患者に電気療法を試みたことを指す
   のです。不浄な亡霊は、電気療法には余程手こずるようです
   )。
惇士。あの火花は、私が患者の治療に用ゆる静電気から出るのです。
   あなたは確かに右の患者に憑依中、その電気に感じたに相違
   めりません。さう言へば、丁度あなた見たいに、あの患者は
   自殺ばかりしたがつて困りました。幸い電気の力で、あなた
   は患者の躯から迫ひ出されて、現在は臨時に私の妻の躯に這
   入り込んで居ます。これで患者の病気も治り、叉あなたも救
   われることになるでしょう。
   あなたが爰を立ち去ることになれば、アリスの霊魂があなた
   を導き、周囲の状況が初めて明白になつて来ます。あなたは
   今でも肉体のなくなったことを自覚せす、依然としてて生き
   て居るものと勘違いして居ます。
   アリスだつてあなたと同様、今は霊魂です。人間の霊魂と精
   紳とは、永久に滅亡はしません。
亡霊。斯んな身の上でも、私は心の平和を見出すことが能きるでし
   ょうか。私一時間でもいゝから、平和を昧わいたいのです。
博士。あなたの前途には、永遠め平和があります。
亡霊。でも私の罪が宥(ゆる)されるでせうか?
博士。真の懺悔と悲哀とが、あなたの胸に発生すれば罪は宥されま
   す。辛抱なさい。辛抱して努むれば助けが来ます。
亡霊。(昂奮して)アラ!私のお母さんがあそこに居る! お母さ
   んお母さん私はあなたの倅と呼ばれる丈の価値はあり空せん
   が、愛情はかわりません。(泣き乍ら)お母さん.どうか勘
   忍してください。この出来損ないの伜れの罪をゆるして、ホ
   ンの一時でもいゝから幸福にして下さい。
   私ア・・・私ア随分苦しんで来ました。若し私の罪を宥せる
   ならば、どうか一緒に連れて行って下さい。後生ですから
   ・・・・。
博士。あなたのお母さんは何といわれます?
亡霊。お母さんは、『母の愛は他の何物よりも強い・今までだって、
   お前の所へ近寄ろう近寄ろうとしたのだが、お前が逃げてば
   っかり居るので困っていた。』と申して居ます。
   レエフ・ステイブンソンと稀する亡霊との問答はこれで終る
   のです。すると入れ代つて、彼の亡母の霊魂がウイツクラン
   ド夫人の躯に憑つて、次の文句を述べたのです。

       三、亡 母 の 注 意 と 謝 辞

 私はこれでやつと、自分の伜と一緒になることが能きました。こ
れまでも、何遍さうしたいと思つたか知れませんが、それが能きす
に居たのです。私が 近づかうと思念する毎に、伜はいつも逃げ出
すのです。何故さう私を恐がるのかといいますと、日頃人間が死ね
ば滅びるものだという.間違つた教えをきかされて居たからです。
人間が死者を恐れるのは、主に其所から釆て居ります。
 われわれ人間は、死ぬるということはございません。たゞ死と称
する一つの 関門を越えて、別の世罪に進み入る丈です。その眞理
さへのみ込んで居れば、死後の世界は、実に美しい境涯です。しか
し人間は地上の生活をして居る時から、来世に関する知識を、少し
は蓄へて置かねばなりません。
 何卒あなた方は、御自身並に人生に就いて、充分に研究していた
ゞきます。
さもないと、伜のような目に遇います。彼は何年問か、たゞ逃げる
ことばかり考へて居ました。私を見ても又自分の愛人を見ても、た
ゞ一生懸命に逃げ ました。それから伜はしばらくの間、一人の老
婦人に憑依して居たこともあ ります。ドウすればその霊衣の中か
ら脱出し得るかを知らないので、いつまでも其所に滞在して居たの
です。一と口にいうと、伜は地獄に入つて居たのです。但しその地
獄は、あの宗教で教える火の地獄ではありません。
 自分の無智から造り上げた一種の地獄なのです。
何卒皆様は来世の状況を研究して置いて、死後の準備をなさいませ。
死というものはダシヌケに来るものですから・・・。その準備はた
ゞの信仰では可けません。眞の知識が必要です。死の黒幕の披方に
何があるか、よくそれを査べて置いていたゞきます。そうすれば、
いよいよ時節が来て、次の世界に歩み入る時にマゴつきません。
 自分の行先がよく判つて居ますから、私の憐れな伜のやうに、地
縛の霊魂とならずに済みます。
可哀そうに私の伜は疲れ切つて居ります。精神的の大病人でありま
す。これから私がよく看護してやつて、永遠の生命の何物なるかを
教へ、霊界の美わしき境涯をはつきり会得させてやります。
くれぐれもただ信じることは禁物でございます。ただ信ずれば、そ
の場所に固着して一歩も進めません。またわれわれは他の為に生き
、他の為に尽くすことを忘れてはなりせん。さうすれば霊界に入っ
たときに幸福を得られます。
 これが幸福を得るための秘訣でございます。
あなた方が私の伜に与えられた御援助に封しては、お礼の辞もムい
ません。母性愛は強いものです。次回に伜があなた方にお目にかゝ
る時までには、きっと立派なものにしてお目にかけます。伜を苦し
めるものは疑惑の念です。
 疑惑は人間が生死の中間に自分自身で築くところの障壁です。こ
の障璧の存伜はてつきり自分け生きて居るもの、自殺し損ねたもの
と思いつめて居ました。先頃一人の感受性の強い婦人と接触しで、
その躯に憑依して居た時なとは、当人は監獄に入れられたものと勘
違いしていました。
 くれぐれも今回の御援助につきましては御礼を申上げ、御事業に
封して、神の冥助の下ることを祈願します。
 これでおわかれ致します。(大正十五、一)

           憑依霊と多数人格現象

      l、暗示説其他を包容する霊魂説

 潜在意識説、暗示説、人格分裂説・・・此等は唯物主義の心理
学者が、霊魂論を打破する気組で、気張つて提唱した所の学説で
あります。火のない所に煙は立たないの道理で、此等の学説が、
部分的真理を包蔵して居ることは疑うの余地がありませんが、部
分的眞理は、総体的眞理ではありません。『人間は醜悪である。
ハラワクがあつたり、肛門があったりするから・・・・。』この
言葉に、部分的の真理があるとしたところで、それが決して統体
としての人間を醜悪化するものとは思はれません。潜在意識説や、
暗示説は、いくらそれが成立したところで、霊魂の存続、死後の
世界の存在、又憑霊現象の事実を、一分一厘揺るがすことはでき
ませぬ。心霊科学は、人生統体の真理を究る所の広い学問で、此
等の部分的の主張や主義で、いかんともすることは能きませぬ。

         ・・・・・続き・・・・・

 


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:旅行

横森家に搦まる因縁譚(二つの・・その2) [旅人]

     横森家に搦まる因縁譚

     一、明治大正を通じての一大奇蹟

 調査は尚お進行の途中にありますがが、私は最近驚くべき一の心霊事実・・恐らく私がこの十有余年の間に逢着した心霊現象中で最も深みと正碓味とに富めるものを実験する機会を得ましたから、取り敢えず之を報告いたします。これ程の事実は、一個人として取扱うには余りにも重大で、ひとり会員諸君の協力援助を要するのみならず、恐らく全国の識者の指教を煩わすべきものかと、払は思考するのであります。くれぐれも断っておきますが、これは決して調査済みの問題ではありせん。歴史的事実の穿鑿、現存物件の考證鑑定、其他の重要問題は、未だ手を染められずに残っております。しかしそれ等は到底私一人の微力で、如何ともすべきでありません。私としては、単に神懸かりの結果によりて得られたる、事実の内容を赤裸々に報告して、問題を提供するまでゝあります。私から見れば、たしかにこれは近年無比…成る意味に於ては、往年の長南年恵女の奇跡的事実などよりも、一層重要なる一大事蹟と考へられますので、是非とも大方諸彦の御指教を仰ぎたいのであります。

       ニ、問 題 の か ね 代 女

事件の発端は、東京府下三河島町、字蓮田一四三、請負業澤部善の妻かね代女(本年三十七歳)の神懸かり現象から出発するのであります。
 かね代女は、山梨県北巨摩群穂坂村字久保、横森市太郎の第三女であります。横森家は元、村内随一の旧家で、代々名主を勤め、彼女の曾組父横森市兵衛という人の時代までは、押しも押されもせね豪農であったのであります。殊にその市兵衛という人は、当時にありては、余ほど学力識見のすぐれた人で、教育事業、その他地方産業の開発に盡瘁し、それが為に、常に郷党の間に重きを為して居たといふことであります。・・が、横森家の家運は、明治二十四年五月五日、同人の死歿と共に、俄かに傾き、現在では家計は余ほど不如意に陥ってしまい、一家の子女も教人、東京方南に移住して居るやうな始末であります。
  さて問題のかね代女ですが、この人は性質から言っても、叉外貌から言っても、極ぬて尋常平凡な婦人であります。こんな人が、昨年三十六歳の時を以て、俄に神懸りとなりて、その身辺に一大奇跡を演ずるなどとは、全く予想外の話しで、関係者一同が、今以て腑に落ちない面持ちをして、煙にまかれて居るのも、全く無理からぬ次第と思われます。
 しかし後から後から発展して行く活きたる事実、活きたたる証拠の前には、人間の理性や常識は、常にタヂタヂとならざるを得ないのであります。人間界の仕事は、いつも事実ありての理屈で、理屈あっての事実ではありません。
 たゞ一つかね代女の身に、これまで人並でない点がありとすれば、それは他へ縁づくと共に、間もなく病身となる厄介千万な特質でありました。生来至極強健であわり、人一倍の働き者であるくせに、嫁入りすると、身体の調子が狂って来て、病床に親しみ勝ちになる。他に何の仔細もないが、嫁入り匇々(そうそう)病弱で働くことが能ないのが、婿さんに対し、叉姑さんに対して、本人として気の毒で耐らない。とうとう最後に暇を貰って実家へ帰って了う。・・・・・彼女はそんな事を両3回繰り返したやうであります。
 最後に彼女は東京に出で、縁ありて前記三河島の澤部善三郎なる人の許へ、後妻として嫁ぎましたが、此処でも亦相変わらず身体の調子が面白くない。数年連添っていても妊娠もしない。きうする中に、昨年大正十四年に入りてから、全身に水気が来て、ブクブクに脹れ上がり、頭髪がボツボツ抜ける。一度櫛を入れると百本も肉がついて脱けるのですからたまりません。しばらくする中に、薬罐(ヤカン)頭になりかけて了いました。
 無論その間に、各方面の医者にかかりづめであります。評判の良い医者の門は、片端から叩きました。梅毒性ではないかというめで、六〇六号の注射もやったさうであります。が、何をドウやって見ても、寸分の効果が見えない。水腫はますます加わり、頭髪はますます脱け、昨年の
夏の初頃には、見るも気の毒な醜しい姿になって了いました。近隣の人達はそを見て口々に噂しました。
 『善さんのところのお上さんは、なりんぼになったそうだ・・・。』
 『あの人は元しやうばい人上りに相違ない。梅毒が体にまわって来たのだ・・・・。』
 無論彼女は芸娼妓になった覚えもなく、叉自分の血糖が純潔であることも、充分承知してゐるものゝ、しかし自分の現在の婆を見ると、われながら浅ましく、心苦しく、何の因果で、斯んにみじめな身の上になったのかと、人知れず悲款の涙に暮れるゝ事、何回であつたか知れなかったといいます。
後になつて見ると、彼女の難病はたゞの難病でなく、遠く幽冥の世界から因縁の綱を引いた、探い仔細のある事柄なのでありましたが、当時にありては、夢にもそんなことは判りませんから、定めて彼女の小さい胸を悩ましたことであつたらうと想像されます。幽明の間に完全な橋梁を架すまでには、兎角、いつもこの種の悲惨事が附きものであることは
人間の立場から観ると、まことに困ったものであります。

      三、か ね 代 女 の 神 懸

 医者という医者にかかっても、少しも病気が治らず、百計尽きた掲句、彼女は附近の人々勧めによりて、悩める者の多く辿る路を辿りました。外でもない、七月頃から、ツイ付近の不動様へ参詣するととになつたのであります。
 少々くどいやうだが、後で大開係のあることですから、右の不動の来歴につきて一言して置きます。堂守は田中秀蓮というお婆さんで、ニンニク葱善事田中某という人の妻でありますが、今から七八年以前に神懸かりとなり、熱心なる不動の信仰に入つた人だといいます。
が、この不動堂で秀蓮よりも大切・・・・少くともこの間題に、一層密接の関係を有つているのは、秀蓮所蔵の不動明王の画像であります。
 右の画像は余程の大幅で、中央に不動明王を描き、周囲に三十六童子を描き、軸は黄金、布地にも同じく黄金の金線が澤山織り込んであつてどんな素人が見ても、一見直ちに余程の貴重品であることが判る位の逸品だといいます。さればにや、秀蓮も非常に之を尊重し、生命にもかへられね賓物だと言って、めったな参拝者には、それを拝まさぬ位にして居たということです。かね代女の神懸りは、この不動明王の掛軸と関連して発展したのであります。
 かね代女と秀蓮とは、以前から面識の間柄でありましたが、今回病気平癒祈願の為に、参拝の度数が重なるに連れて、ますます懇意の間柄となり、八月二十五日の晩には、秀蓮の親切なる勧めに任せて、その堂に宿泊することになりました。
一旦床に就き生したが、夜半頃不園眼をさましたかね代女は、独り起き出でゝ、右の不動明王の掛軸の前に跪坐して、熱心に不動経、並に般若心経を読誦しはじめました。その間何分問経ったのかは判りませんが、いつしか彼女は半恍惚の状態忙入ると共に、腹の底から湧き出づる、自
分とは全く無関係の音声に、先づ自分自身が愕かされ、つゞいて問近に臥して居た、田中秀蓮が愕かされました。日蓮宗信者や、不動様信者の問には神懸り状態になつて、言葉を切ることを『罪障消滅』と呼んでいますが、心霊研究の立場から言えば、これは純然たる一の憑依現象であ
ります。
 この現象が起こった結果、罪障の消滅すべき処置方法を講ずれば、それで罪障消滅ということになりませうが、現象そのものは、畢竟単なる心霊現象で、それが直ちに罪障の消滅とは謂われないのであります。斯んな手段と目的とを混淆したやうな取扱方は、一時も早く修正すべきだと信じます。
 それは兎に角、神懸状態に陥ったなね代女は凛々たる大音声を張り上げて、彼女の夢想だもせぬ、意外千萬な文句ばかり呶鳴り出したのであります。
 『われは山梨県北巨摩郡穂坂村に於いて、二十八ケ村の名主なりし横森市兵衛であるぞ。・・これなる不動明王の掛軸は、わが家の祖先から伝われるところの貴重の賓物、普通の掛物とは訳が違うぞ。・・・
 この掛軸は掛軸ながらも言葉をきく。納まるところに納まらねば、何人の手にも負えぬあばれ不動であるぞ。・・・指折り敷えれば、l人の六部の為に、この掛軸が盗み出されたは、今から丁度三十六年前、かくいふ市兵衛は八十一歳、かね代がまだ生れぬ時のことであった。間もなく市兵術の躰は亡びたが、その魂魄はこれなるかね代の肉体に憑り、彼女を迷わせ迷せて、幾度となく病気にかからせ、最後に今度の難病で苦しぬたのも、つまりこの病気によって、かね代を不動明王のお傍へ引寄せる手段であつた。いよいよ三十六年の宿願を果たして、不動明王の所在が判った上は、かね代の病気は即刻に治る。・・・田中秀蓮どのよく聴いてくれ!かね代が尋ね当てるまで、仮に汝の守本尊として預けてあったなれど、実はこの掛軸は、深い因縁のある寶物で、横森家以外のものゝ預かるべき品物でない。一時も早く、きれいに横森家へ返して貰いたい。若しもわが言葉に従はねば、そなたに取りてまことに気の毒なことになる・・・・・。』
 以上は、その時かね代女の舌端から迸り出た言葉のホンの一部分だけ
ん。実際は二時間許りに亙り、恐ろしい権幕で、滔々と述べ立てたさうで、他の何人よりも、かね代自身が且つ驚き、且つ呆れ返ったといいます。

       四、深 き 因 縁 の 發 生

 私は最近三回に亙り、かわ代女を神懸状態に導いて、彼女の曾祖父、横森市兵衛といふ人の霊魂から、可なり詳しく掛軸の由来その他を聴いて居りますから、前後の筋道を明らかにすべくすべてを引つくるめて、記述の筆をすすめる事に致します。
 物語は今を去ること三百四十四年の昔、武田勝頼の滅亡の時まで遡りります。各方面の戦は悉く不利に陥り、味方は離叛者相つぎて、いよいよ武門の滅びるべき時節が米たのは、天正十年三月の十日前後のことでありますが、その危機一髪の際に於て、わざわざ勝頼の許に馳せ参じた、忠烈の武士が二人りました。それは佐菜山備中守、同じく備前守という兄弟であります
この二人は曩(さ)きに主公の勘気に触れ、それまで閉門して居たのですが、いよいよという間際に、主人の急に赴いたのであります。これには勝頼大いに喜びましたが、このまゝ武田家を全滅さしては、先祖にも相済まず、又残念でもあるというので、当時三歳の一子勝王(?)に、武田家伝来の至宝『不動明王』の一軸を添へ、備中守をして、圍を衝いて、信州の真田を頼って落延びさせました。右の不動明王の掛軸というは、たしか武田家の祖先が、南朝の天子から拝領の品で、武田家に取りて事の外大切の品であるのみならず、信玄が日頃信仰しで、陣中までも携帯
したものであり、その死するに臨みては、『自分の霊は、永久この一軸に籠もって居るから、以後之を自分の御霊代と心得よ。』と遺言したほどの寶物でありますから、勝頼も自分と共に、之を失うに忍びなかったのでありましょう。他方には叉三歳の小供が、勝頼の実子に相違ないことを真田に知らすべき、最も有力なる証拠物件とも考へたでありませう。兎に角斯うして備中守は、泣く泣くも死を待つばかりの、残り少なの主従に別れ、信州をさして進發したのでありましたが、モウその時には、敵の手配りがすっかりできて了い、又土民の気も知れないので、とうとう目的を達することが能きず、暁近くにひそかに門を叩いて、庇護を頼んだのは、外でもない、韮崎在の穂坂村字久保の横森家なのでした。
 その頃の横森家には、夫婦の間に子供が無く卜・
 その頃の梼森家には」夫婦の聞に子供がなく至って無人でしたが、夫婦は親切に、この貴重なる落人達を庇護しました。しかし先方では、飽くまでもその素性を秘し、『姓名のみは聴かないでくれ』と頼みますので、件の武士が佐菜山備中守であり、その連れて来た子供が、勝頼の実子であることは判らないのでした。          .   、
 『その姓名が初めて判明したのは、私が死んで霊魂となつてからでした。』
 さう市兵衛の霊魂は、かね代女の口を借りて私に申しまました。
 可なりの長い間、主従は暗い納戸の裡に隠れ、村人にも顔を見せないで、脱出の機会を待ちましたが、時が経てば経つほど、周囲の形勢が不利となるばかりでした。とうとう備中守は、ある夜一通の遺書を認め、、割腹して相果てゝ了ひました。その遺書は、三十余年前まで、横森家に秘蔵されて居りましたが、親戚に預けてある中に、不事火災に罹り、焼失して了ったということです。市兵衛の霊魂からきくところによれば、その文筆といひ、筆蹟といい、まことに見事なもので、大意は斯んなことだつたといいます。・・・
  『自分の名も、叉連れて来た小供の名も、絶対に明かすことはできないが、あの子供は、大切な子供であるかち、不動明王の軸と共に、横森家の寶として大切に頂かってもらひたい。お前達の所には子供がいないさうだから、この児を相続者として平民にして貰へば結構である。自分の遺骸は人知れすこの家の床下に埋めてくれ。叉着用の鎧、兜、劍、陣羽織りなどは、わが亡き後に、黙って、ある所のある邸へとゞけてくれ・・・・。』                          
横森家の祖先は、その遺言通りに実行したので、鎧、兜、劍、陣羽織等は一品もなく、たゞ不動明王の掛軸のみは、歴代の人々の熱心なる尊崇の対象物となって、大切に保存されました。
一方横森家に預けられた武田家雄一の遺児は、その後遺書に示されたとおり、横森家の一養子として、草深き田舎に育ち、通称を信一と称して、
年頃となりて嫁を迎へましたが、結婚後問もなく、かの遺書を読みて、自分の身の上に勘づくと同時に、流石に武田家の血が流れて居る若者だけありまして、慨然として割腹して、これも備中守の後を追いました。その遺骸も、横森家の床下に埋葬されてあるということです。
斯うして横森家の邸と不動明王の掛軸と、武田信玄の霊魂とは、切っても切れぬ密接不離の因縁を生むに至ったのであります。


      五、掛 軸 の 盗 難

 右の因縁話は、甚だ興味あるものには相違ありませんが、たゞそれ丈で終ったならば、甲州の田舎のある旧家に、一幅の古い不動明王の掛軸が秘蔵されているという丈で、そんな事実の有無は、全然他郷の人の視聴には上らないでしょうし、ましてそれが機縁となりて、破天荒の大心霊現象が起こるような事は、到底望まれない話しでありますが、先年右の掛軸が、一人の六部に盗まれたのが因となり、爰にはしなくも不思議千万、奇妙至極の大葛藤を生むに至ったのであります。人間は斯んな事実に逢着するごとに、たゞ驚き呆れますが、しかし人間界の奥にありて、人知れずこの不思議な出来事の操縦に当たるものが、絶対にないとは誰が言い得ましょう。イヤたしかにそれがあるものと、私は認めない訳にまいりません。武田信玄の霊は、かね代女を通じて斯う言います。

 『この掛軸を六部に盗み出させたのも、叉三十六年の後に、再びこれを甲州に引き戻させたのも、すペてこの方の予定の行動である。そう致さねば、この方は氷久に世に出られない・・・・・。」
 さすがに戦略戦術の神と言われた人だけあって、霊魂となりても、依然として縦横の奇策を弄するやうであります。そのやり方善か悪か、巧か拙か・・そんな批評をやるのは、観る人の勝手でありますが、兎に角幽冥の世界から、微妙な綱む引かれては、人間の方で、とても太刀打困難と謂ねばなりません。かくいう私が、斯んな所にめぐり合ひ、斯んな記事む草するというのも、矢張りこの大策略霊の操り人形の一つにされているのでしょう。考へて見ると阿呆らしいやうでもあるが、叉両白くないでもない。
 閑話休題として、記事をすゝめます。時は明治二十三年十月上旬のことでありました。諸国遍歴の一人の六部が、穂坂村へ辿つて求ました。
服装なども随分見すぼらしい、人相のよくない、乞食然たる男でしたが、横森家の人々は気の毒に思つて、この六部を三晩ほど泊めてやりまし
た。しかしその間に、市兵衛は横森家傳侍の重寶たる不動明王の掛軸を、この男に拝ませてやったのであります。市兵衛ほどの人物の仕業としては、いさゝか軽率のやうに思はれますが、信仰という要素が加はる時に、人間はいつも斯うした手ねかりに近いことをやり兼ねない。可哀想に彼も人の児、神信心の為めに全国を行脚して歩るいているこの奇特な男に、自家の不動様を拝ませてやつたら、功徳になるだらう・・・・。』市兵衛はうつかりそう考へたのでした。
 所が図らずもこの六部は、極度に不良性を帯びた悪漢でした。信仰心がないではないが、しかしそれは極度に自家中心の、慾の深い信仰心でした。他を救ふが為の信仰ではなくて、何処までも自己の福利と、願望とを充たさん為めの信仰でした。彼とてまさか、不動明王の掛軸を売り
とばして、金儲けをしようとのみ考へた訳ではありますまい。その後の彼の行動から察すれば、彼をたゞの泥棒と考へることは、当たらないやうであります。が、兎に角彼は不動明王の掛軸を見せられた瞬間に『是非こいつを自分の所有にしたい』、との欲念の捕虜になりました。三泊の後暇を告げて、横森家を辞去した彼は、こつそり逆戻りして来て、家人の隙を窺い、首尾よくかの掛軸む盗み出すことに成功しました。
 植物の種子が鳥や、蟲や、風や、いろいろのものを媒介として、四方に播き散らされるやうに、横森家の寶物不動の掛軸は、盗心ある一人の六部を媒介として、甲州の山の奥から、広い浮世に放浪の旅ををつゞけることになりました。
 神を認めず、霊魂を認めざるものは、かゝる現象を以て、単なる偶然の出来事と考へます。何等かの不思議な力を、たゞ漠然と感ずる者は、かゝる現象を以て、運命の働きであると見倣します。更に一だん信仰の域にくゞり入つたもののみが、かゝる現象を、霊界の奥から起こる、一予定の行動と考へ、天地の間に一の偶然はないと言います。此等の中の何れが一ばん正しいかは、別間題といたしまして、兎に角かの掛物は、爾来不思議な経路を辿り辿りて、奇跡の上に奇跡を生むことになりました。

    六、掛 軸 の 発 見 と 復 帰
 一人の六部に盗み去られた不動明王の掛軸が、いかなる経路を取って、浮世を転々したか?・・・・これは人間の方からいうと、全然開かれぬ神秘の扉であります。明治二十三年から大正十四年に至る、まるまる三十六年間の行方は、全然一枚の白紙で、どこにも調査の手がゝりがないのであります。
 が、心霊能力の活動、霊魂の活動からいうと、前後三十六年の掛軸の行先は、手に取る如く判っているのであります。
 祖先伝来の大切の賓物を盗み取られた市兵衛老人が、当時家族の他の何人よりも、之に就きて心を痛めたのは勿論であります。『先祖に対して何とも申訳がない・・・・。』八十歳の老翁は、その事ばかり思いつめました。もちろん警察署にも捜索願を出し、その他当時に於いて、能きる限りの手段を講じましたが、何の手がゝりも音沙汰もない。彼は泣きの涙の中で、空しく一日叉一日と暮しましたが、その中躰が弱って、翌明治二十四年五月五日に、絶大の怨みを呑んで歿して了った。
 その当時の状況を市兵衛の霊魂は斯う述べます。
 『生きている時に、この爺は泣きに泣いて捜しましたが、とうとうその行方が判りません。くやしい!済まない! 私はそればツかり思いつめて死んで了ひましたが、いよいよ死んで見ると、信玄公のお告げによりまして、何も彼も一遍に判つて了いました。斯うなることも、言わば皆深い深い約束事、深い思召しがあつてのことだということでありますが、しかし私の念願から申しますれば、一時も早く、大切の不動明王を、因縁の搦まった横森家へ取りもどしたい一心・・・・。
 『丁度その頃生れたばかりの兒(こ)が、このかね代であります。私は不動明王の御指図を以て、このかね代の躰に憑きました。かね代の躰を使つて、大願を果たさなければならないのであります。可哀想にかね代には、随分苦労をさせました。子供の時分から貧しい境遇に育ち、年頃になって嫁入りしてからも、病気の為めに戻って来る。・・・最後に昨年のあの難病・・・・。みんなこの市部衛が、蔭からした仕業であります。この市部衛には三十六年間、あの掛軸が何所をドウ経めぐって歩いているかゞ、手に取るように、すっかり知らされて居ました。知らされて居りながら、時節が来ねば、何うするることもできず、苦労を重ねて今日に至ったような次第・・・・・。』
 市兵衛の霊魂の述べるところによれば、六部と不動明王の掛軸の行先は、ざツと斯うです。・・・
 横森家からあの掛物を盗み出した六部は、それを背負って先づ信州に行き、信州から静岡に行き、その後叉新渇、青森等の方面にも行つた。青森では林檎を売っていたこともある。つゞいて盛岡にも行った。最後に右の六部は横浜に出て、鈴辨・・・かの新聞種になつた本人・・・の家に寄食した。さうする中に、彼はある悪事を働いて、荷揚人足達の怒りを買い、川の中に放り込まれて非業の死を遂げた。しかしその事件は有耶無耶の中に葬られ、警察問題にはならすに済んだ。斯うしたことで、一時鈴辨の家に落付いた不動明王は、やがて山憲の手に譲られた。その山憲が叉それが自分の実兄・・・浅草で酒店を営んでいる山田某なる者に譲つた。ところがある時、山田商店の若者と葱善(そうぜん)(浅草の八百屋)の若者とが、遊興の為に十八円の金子に窮した結果、無断で山田商店の掛軸を持ち出して、葱善に預け、十八円の金子を借りた。それツきり金子を返しに来ないから、不動の掛軸は、当然葱善の所有に復することになつた。右の葱善の妻君というのが、即ち現在三河島で不動堂を守りせている田中秀蓮である。
 右の霊告の全部が、果して事実であるか否かは、調査の手がかりがありません。が、少くともその後年、横浜以後の事は、ドウも動かすことのできぬ事実のやうであります。田中秀蓮という婦人には、私はまだ逢いませんが、兎に角その人が、日頃生命にもかへられねほど大切にして居
た不動明王の書幅を、きれいさつぱり返すことになつた主なる理由の一つは、たしかに神懸りの言が、一々胸にこたへる点があつたからだと考へられます。
 よしや他の全部が、真実不明であるにしましても、明治二十三年十月十日に盗まれた横森家の家賓たる不動明王の掛軸が、三十六年の後に於いて、東京三河島田中秀蓮といふ不動信者の手元に発見せられ、そして其発見の方法が、横森市兵衛と名告る霊魂の憑つている、当時三十六歳のかね代といふ婦人の霊告による事丈は、動かすべからざる事実であります。
 それがたしかに盗まれた現品に相違ないか?・・これに就きては、そこに一点の疑惑を挿むべき余地がありません。かね代の姉の三千代、兄の金一などという人達は、朧気ながらも、その掛軸につきて記憶して居り、殊に父の市太郎という人は、わざわざ甲州から出掛けて来て、田中秀蓮の前で、その実証を挙げたのであります。今は消して了ってあるが、元は立派に『横市』とう記号が附いていたことまで、証拠立てられたのであります。
 若しそれ、それが一部の心理学者の言うやうに、かね代女の潜在意識の發動ということではないか?・・・斯んなことは問題になりません。
かね代女は掛軸の盗まれた翌年に生れたもので、それが何んなものかということは、全然念頭になかつたと言ひます。        .
 田中秀蓮が、いよいよ右の掛軸を横森家に返すと決定するまでには、其所に当然多少の曲折があつたやうですが、最後に話が纏まつて、いよいよ掛軸が元の甲州穂坂村横森家に送り届けられたのは、実に大正十四年十月一日のことでありました。

       七、武 田 信 玄 不 動 明 王

 盗まれた掛軸が、神懸りによって、再び元の所有者の手に戻った。単にそれ丈でも、相当興味ある問題に相違ないとは思いますが、しかしこの事件は、そんなことで鳧(けり)がついたのではありません。今迄の所は、この事件のホンの三番曳きで正味の所は、これからドシドシ進展して行くのではないかと信すべき大なる理由があります。それが何処まで進展するかは、日本の心霊界として、最大の注意を払うべき、重要案件と通感されます。
 霊界の事は、容易に思議すべき限りではありませんが、私のこれまでに調査したところによると、今回の問題は、たゞ賓物捜しなどゝいう、兒戯に類せる事柄でなく、其所に大なる隠れたる謎、人間界から霊界の奥の奥にかけて、首尾聯関せる遠大なる、一の計書と言ったやうなものがあるのではないかと、考へられるのであります。西洋の心霊視象は、正確味に放て優るが、奥は通例浅井い。日本のは之に反して、その輪廓がいかにも茫漠として居るが、ともすれば油断のならぬ深みが潜んでいる。この問題を取扱うにてけて、私は再びこの感を深うし次第であります。
 外面から観察すると、この問題は、たゞ一人の平凡な婦人、穏しくはあるが、さして教養のありとも見えぬ一女性の身に起つた、一の変態現象としか見えません。が、かね代女の内面に向って、一歩探求のメスを進めて見ると、其所に彼女の曾祖父たる横森市兵術といふ人の霊魂が、厳として控えています。この人はその時代の田舎紳士としては、珍らしく事理を解せる律義な人物で、一家の為めに、叉その郷土の為めに、骨身を惜まず尽くす盡瘁しようとする意気が、充分に窺はれます。誠に得難き立派な心懸けの人物には相違ない。が、その器局がさして大きいとも、叉その人格がさして高邁なりとも考へられません。かね代女の背後に控えて居るものが、たゞ市兵衛の霊魂一人だけならば、その神がゝの力は、恐らく多寡の知れたものでしょう。一と通りの事は判っても、飛び離れた仕事は、到底できないに相違ないと思われます。
 ところが、市兵衛の霊魂の内面に向って、一段探究の歩をすゝめて見ると、何うしても其所には市兵衝の智慧袋、その守本尊が控へて居るものと、見倣さね訳には行かないのであります。その守本尊が、武田信玄の霊魂であるのか、それとも武田信玄の霊魂と、不動明王の力との合併したものであるのか、そむ辺の穿鑿は、現在に於いて、到底私どもの断言し得る限りではありませんが、兎に角奥の方に控えで市兵衛徹の霊魂を指導し、操縦しつゝある、ある有力なものが存在する事実は、疑はれぬと考へられます。こゝにかね代女の神懸かりの深みと、強みとが発生してまいります。表示すると次のやうなことになりませう。・・・・
かね代・・・横森市兵衛・・・・守本本尊・・・・武田信玄不動明王。

    八、生 米 と 生 水 と の 生 活

 かね代女の奥の奥に控へる、守本尊の意思の發現と考へばならぬやうた事は、昨年から現在にかけて、すべてに力強く、着々としてかね代女の身辺に繰出しつゝあります。有りのまゝ自白しますが、寡聞な私は、生来まだ一度もかほどに強烈なる心霊事実に逢着したことがありません。
『いよいよ不動明王の掛軸の所在地が判つた上は、かね代の難病は即刻に治(なお)してやる。』
これは昨年八月二十五日の夜、市兵衝の霊魂が取次ぎをした託宜でありますが、この託宣には寸分の掛値がなく、それまでブヨブヨになつて居た、彼女の全身の水気が一気に去り、同時に今までゾロゾロ脱けていた頭髪が、いかに櫛で掻いてもたゞの一本も脱けなくなりました。
『汝は今日から生れ代つて、不動明王に仕へる身となるのだ。これから生へる毛髪は、ウブ毛と同じものである。少しばかり残っている舊(ふる)い髪は刈り取つて了へ!』
かね代女はその指図通りに、舊(ふる)い髪を全部刈取ったさうですが、現在では右の所謂ウブ毛が、相常の長さに延びて、房々として居ります。
 『不動明王に仕へる清浄な身となるにつけては、以後一切火の物断ちをせねばならぬ。煮炊きしたものは、縦令湯一ぱいたりと飲んではならぬ。』
 昨年の八月二十六日からかね代女は、固くその命令を厳守すべく努め、
主として生の玄米一日に約二合と、生水とで生きて居ます。副食物としては梨子、林檎、蜜柑少許を摂取するだけであります。
                                                                
 彼女は最近私に向つて、その後の模様を斯く物語りました。・・・・
  『わたくしは昨年から引きつゞいて、現在に至る約六ケ月の問、至って変わった生活をして居りますが、御覧のとおり、無病息災にさして貰って居ります。お指図どおり、生米と生水とだけで暮らして居りさへすれば、尾籠な話しでムいますが、便通その他が事の外順当で、何処に痛いところも、痒いところもムいません。が、矢張りたゞの人間でムいますから、時々は失策ったことがムいます。長い間大病をした後で、そんなものばかり喰ベて居っては、栄養不良になつて了う。・・・ある時そんなことを親戚の者が申しまして、鵜卵の半熟や、牛乳などをすゝめてくれました。
 人間心で、それも或はさうかと考へて、ツイそんな食物を食べて見ますと、さアその後の苦しみたらムいません。胃腸がきりきり痛んだ上に、一たん食べたものは全部吐して了いました。近頃ではモウすツかり懲りてしまいましたので、お湯一ばいでも戴かぬことに致して居ります・・・・。』              ・              生の玄米と生の水だけの生活、・・・・いわゆる現代の文化生活とは、何という相違でありましょう。これだけでも、真に篤実なる医学者の、興味有る研究資料ではないかと痛感されます。往年死んだ長南年恵女の不思議な生活、(『心霊文庫』第三篇付録参照)に対比すれば、かね代女の生活は、まだ余ほどの人間味があります。年恵女は、十有余年に亙りて全く絶食絶飲、そして祈願数分にして数十本の瓶中に、各種各様の霊薬を飢出現せしめるというやうな、奇抜な事を行りました。かね代女には、そんな離れ業は見られません。どの点から観てもかね代女は、いかにも普通の女らしい人間であります。が、その普通の女が、日常の食物だけ、すツかり常人と達つているのです。しかも年恵女が、すでに故人であるのに反し、かね代女は至極太平無事な面持をして、現に私の住所を訪れたり、丸の内の事務所に顔を見せたりして居るのであります。私は衷心から、世の篤学者の再思三考を促したいのであります。眞の意味の心霊現象は、西洋式の物品引寄や、幽霊写真や、卓子浮揚やに限りはせぬと、近頃私はつくづく痛感して居るのであります。但しかね代女の現在の極端な火物断ちの生活は、水久のものではあるまいと思考さるゝ理由があります。先般私がこの件に就きて、彼女の直接の守護霊たる、市兵衛老人の霊魂に質問しますと、その返答は斯うでした。・・・
『かね代の身体を根本から改造する為めに、あんな生活をさせて居るのです。あれだけの事をさせませんと、不動様のの眞の御用をつとめる身になり得ないから、致方がムいません。しかし凡そ一年ばかり火物断ちをつゞけますれば、後は大へん楽になります。・・・・。」
 彼女の身辺に起りつゝある心霊現象は、決して心霊現象の為めの心霊現象ではなく、萬止むを得ざる必要に迫られて、寧ろ心ならずも、涙を呑んで実行させて居る事柄のようであります。ある時期が来れば、当然それは止んで了いましょう。私は人の聴くと聴かざるとに頓着なく、この際世の篤学者の、再思三考を絶叫して置くものであります。

       九、社 殿 造 営 の 託 宣

 昨年秋以釆、かね代女の身辺に起りつゝあつた奇跡填的現象は、右に述べたとおり、世にも驚くべきものでありますが、しかしそれよりも一層重要なりと思考さるゝのは、彼女の口を通じて漏らさるゝ、武田信玄不動明王の託宣と称するものであります。その託宣は、何所までが不動明王の意思であり、何所までが武田信玄の意思であり、何所までが横森市兵衛の意思であり、又何所までがかね代女の意思であるのかは、軽々に断定の限りでありません。心霊研究の立場から云へば、この詑宜の内容は相当複雑なものであると考へねばなりますまい。仮に不動明王の意思を、無色透明の液体だとすれば、武田信玄の意思は、あの人の生前の行動から考へて、相当濃厚な色彩・・・例へば真紅の色の液体見たいなものではあるまいかと思われます。
 『わが亡き後は、この不動明王の掛軸をこの方の御霊代と思え!』霊魂のくしびな働きの一端に触れてて居るものゝ眼から観れば、かれの臨終の言葉は、甚だ恐ろしい言葉であります。力量は不動明王の力量でも、その力量の方向は、武田信玄によりて、或る程度まで左右されて居りましょう。換言すれば、ある程度まで、武田信まの色彩を帯びたる、不動明王の働きということになって居りましょう。市兵衛の霊魂は、斯んなことを言って居ります。
 『これは極度に負けぎらいの不動明王である。この不動様に祈願すれば、どんな事で九分九厘というとこで、掌をかへさしてくださる・・・。』
 『この不動様は、どこまで深謀遠慮に富んで居られるか知れませぬ。不動様がいよいよ落付く場所に落付きなされた暁には、どんなお働きを発揮されるか知れませぬ・・・・。』
 この言葉に、何所まで市兵衛自身の色彩が加味されて居るかは、容易に判りませんが、兎に角冷静に考へて、大体さもあるべき事と肯かるゝ節がないではありません。恐らく律義者の市兵衛の色彩は、さう濃厚厚ではありますまい。が、かね代女の口から漏らさるゝ託宣に就きて、一ばんの色彩の加わり方の少ないのは、かね代女自身であるやうに見受けられます。素直で.無教育で、そして無関心・・・・これが霊媒として、かね代女の最大の身上であります。
 兎に角この託宣の内容性質に就きての攻究は、今後の日本の心霊学界の、大問題の一つであると痛感きれますが、然らばこれまでで出現した不動明王の託宜の中に、何んなのがあるか?
 私は深き仔細ありて、私が聴いた仝部を公表するには、時期尚早と考へるものであります。それ等の多くは、充分調査の上で、ボツボツ発表して行っても、決して遅くはない性質のものであります。が、それ等の中に、是非と至急公表して、大方の指教・・・少くとも甲州の具眼者の考慮を仰がねばならぬと思わるゝ問題が、たゞ一つ存在します。外でもない、それは一時も早く、穂坂村の横森家の邸宅を取払って、其所に武田信玄の霊なり、又不動明王なりを祀るべき、一大社殿を造営せよとの託宣であります。
 横森市兵衡の霊魂は、かね代の口を借りて、しきりに斯んな事を述べ
ます。・・・・
 『横森家の邸には、たゞに大切な不動明王の掛軸が納まつて居るという、深い由緒があるばかりでなく、忠義な佐菜山備中守の屍骸も、叉武田家唯一の遺児の屍骸も、共にあそこに埋められて居て、言はゞ切るに切られぬ因縁の土地である。ドウあっても、彼所はあのまゝには棄て置いてはならぬ。あの大切な掛軸を御本体として、立派なお寺なり、お宮なりを造営すべきである。甲州には、武田信玄をお祀りした神杜もないではない。が、それは内容なしの、ホンの形式だけのものである。信玄公の生きた御霊代は、あの不動明王のお掛軸以外には絶対にない。その証拠には、あのお掛軸のあらたかなお働きを見るがよい。人から人へと、三十六年間の流浪の旅の間に、誰の手に入つても、あばれ不動の名で通つて居たではないか。自然の理に外れなければ、何んな事でも、あの不動様に祈願して見るがよい。必ずその祈願を協へさせてもらへる・・・・・。」
 この霊魂の言葉が、何の点まで正しいものであるかは、時日が浅くて、充分の調査が届いて居りません。かね代女に訊いて見ましても、彼女が人に依まれて、不動様に祈願を籠めた実例は、僅かに指を屈するほどだといいます。しかしその僅小な範囲内に於ては、霊験頗る顕著なるもの
があるやうです。彼女の親戚に十一歳になる一人の子供がありますが、生来骨無し児と言われ、ツイ先達まで、大小用とも母親の手に抱かれてして居ました。ところが、今年の一月五日、かね代女は不動明王の託宣に従い、一日に三度づゝ、子供に代りて水行を行うこと一ケ月に及んだところ、右の小児は次第に足腰が立ち、現在では立派に独りで歩行ができるやうになつたということです。これなどは、たしかに面白い実例に相違ありませんが、しかし其数がいかにも少ないので、もちろん今後の霊験に対して、あやまらざる推定を下すの資料には、頗る不充分であります。
 従つて横森家の邸に、寺院又は社殿えを造営するなどゝいうことは、余ほどの研究調査を重ね、又当局との交渉をも経、よくよくということに、衆議が熱し切つた上でなければ、決して着手すべき事柄ではないと考へられます。霊魂の指示だとありて、軽々に社殿の造営に着手し、後で物議と誤解とを惹(ひ)き起こした実例は、過去に於て決して少くはありません。兎に角横森家の人達、又武田信玄に深き憧憬を有する甲州の人士は、容易ならぬ心霊上の難問題を叩きつけられたものであります。
これが空漠たる夢物語然たる霊告であるとか、宗教的野心ある山師の提案であるとかいうならば、一気にたゝき潰して、何の遠慮曾釋も要りませんが、一概にそんな乱暴な処置も取り兼ねるのが、今回かね代女の身辺に起りつゝある心霊事実であります。家傳の重賓として尊重して居た、不動明王の掛軸が、三十六年目に發見されて元の所へ帰って来た。・・・・彼女の年来の難病が、掛軸發見と同時にすつかり平癒した。郷黨(とう)の間に重きをなした市兵衛さんが戻って来て、生前のとおりに物を言う。・・・・生米と生水ばかりを常食として、已に半歳以上になるが、彼女の健康状態は、ますます良好になる・・・・。他のすべての諸点が、真偽尚お不明であるとしても、此等の数点のみは。実際の事実であつて、とても否定することができないのですから厄介であります。たしかに近年稀有の心霊上の大問題に相違ありません。
 乗りかけた船で、私としても、微力の及ぶ限り、今後引きつゞき調査研究の歩をすゝめましょう。
が、これは到底独力でいかんともすべきでありません。是非とも広く大方諸彦の御指教に預かりたいのであります。(大正一五、三、十二)


        十、一片の甘藷で死に瀕す
 かね代さんという人が霊媒として新米であるだけに、容貌にも、趣味にも、話し振りにも、どこにも格別人並みはづれたところがない。何も知らずに偶然に逢えば、この人の身の上に、そんな変わったところが起っていようとは、到底想像のかぎりでありません。従ってかね代さん自身が、ときどき戸惑いをして、飛んだ失策をやりかねない。失策の最も多いのは、矢張り食物の上にあるようです。
 『以後は絶対に火の物断ちをせよ。お湯一ぱい飲んでも命にかゝわるぞ!』・・・そう神様から厳達されているくせに、時々人間味を出したがります。ツイ先達ても・・・・。たしか三月の十日頃でしたろう。姉の三千代さんが、甘藷を煮て、『一と片(きれ)れぐらい食べても構わないわ、肉類とは訳が違うから・・・・。』勝手にそんな理屈をつけて、煮立てのポッポと烟のでる甘藷の一塊を、かね代さんに薦めました。
 『一きれ位なち、別に身体に触りもしますまい。久しぶりで御馳走になりましょうかしら・・・・。』ツイ釣り込まれてかね代さんは何の気もなく、ホンの一小魂、長さ一寸五分許の甘藷を食べたのであります。
少しも食欲に駆られて食べた訳ではないのですから、格別甘(うま)くもなく、叉格別まづくもなかったということです。そして食べて了いますと、そんなことはすっかり忘れて、平生の通り談笑していたということです。
 ところが、それから約一時聞過ぎた時分から、胸から腹にかけてキリキリと、言うに言われぬ、激しい疼痛が起こって来た。
 『今度ばかりはいよいよ死ぬかと思いました。』・・・さう本人が痛感した位の劇痛で、文字通りに七顛八倒の苦しみ!一日一晩殆んど言葉もきけずに悶きつゞけたのであります。近所の医者が釆てカンフル注射を施したが、少しのきゝめもない。そのくせ脈拍がしっかりしていて、死にそうな模様のなかったのが不思議だったといいます。
 無論姉の三千代さんをはじめ、兄の金一氏、その他親戚一同枕辺につめかけて徹宵看護しました。すると、苦悶しているかね代女が、急に神懸かりになり、
 『わしは横森市兵衛だ。神の注意を無視して、煮た甘藷などを食べた為に、こんな苦しい目に逢うのだが、命に別條ない。しかし今後はわすれても御神命に背いてはならぬぞ!食物が体外に排除されるまで苦しみは免れない・・・・。』そんなことを言いきかせたそうであります。・・・・もちろん当人は一切無我夢中で、そんなことは人から後できかされて知ったといいます。
 が、發病よりも一層不思議だったのは、その快癒の極めて迅速なことでした。五日ばかり過ぎると、彼女はムクムクと病床を離れ、二個の林檎を携えて東京を出発し、単身甲州の実家へ帰ったのでした。
 『まるで幾日かの間、何一つ食べないのに、韮崎から穂坂村まで一理余の山坂を歩いても、格別くたびれたように感じませんでした。全く不思議でムいます。・・・・。』
 彼女は不相変わらずのんきな顔をしてそんなことを人々に語るのでした。

        〔附〕雪 の 甲 州

 三月二十日の朝起きて見ると、夜来の雪が二三寸積もっている上に、まだ熾んに降りしきる。
 『てれでは甲府は塞いナ。』と思ったが、豫ねての約束なので、出発の準備にかゝる。好田青年も兵庫県へ帰省の途次、中央線を通過して同行したいというので、その旨を承諾する。
今度の甲府行きは、もともと春の行楽などゝいう、しゃれたものではない。前記の韮崎在穂坂の横森家を訪ねて、例の不動の掛物を見たり、家族の人々や.村の人々に逢って、事情をきゝただしたり、又帰郷中のかね代女に面会して、神懸りをしたり、叉できる丈、武田家に関する記録を集めたりしたいと思つての小旅行である。
 途中の景色は、降りしきる霏(ひ)雪でさつぱり判らない。やがて午後の三時過ぎ、甲府の停車場につくと、前約があるので、大野黙之助氏が待合わせて居て同車し、同勢三人となる。韮崎に着く頃には、幸雪は降り止んだが、空はどんより曇って、寒さは肌にしみ透る。殊に辟易したのは、雪融けの道路の極端に悪いことで、和服の自分は少なからず弱る。小憩の後、村から迎へに来た案内人に連れられて、韮崎を出たのは四時過ぎであった。穂坂村は茅ケ嶽の裾に位する、極端な寒村なので、むろん乗物などは通らない。田園路を通りぬけ、急流を渉り、爪先上りの赤土路を、グチヤグチャ登って行くのであるが、先きの方へ行くと、人通りがないので、雪が一面に敷きつめていて、下駄ではほとんど手手古摺った。一里余の里程に過ぎないが、少くも五六里歩いた位くたびれる。薄幕横森家に着く。
 その夜は炬燵に暖まりながら、市太郎老人、及び二三の村人達から、故市兵衛老人の思い出話しを聞く。明治二十四年に死んだ人なので、生前の状況を知つてゐるものは、まだ可なり沢山残っている。市太郎老人は、その時二十七歳であったたさうナ。二三時間閑談の間に、大分容量を得る。
 翌二十一日は終日曇天で、寒気は頗る強い。朝の間に早速例の不動の掛軸を観る。
自分は斯道の素人だが、成るほど尋常の品でないと肯かれる。驚かされるのはその絵具で、古いものでありながら、鮮麗眼を奪うものがある。これも家人その他の証言により、祖先伝来の寶物に相違ないことが判る。
 とが判る。惜しい哉両度の火災で、之に関する貴重の傍証、かの書置きが焼けて了っている。
 午後かね代女は、不動の掛物の前で神懸りにになる。例によりて市兵衛老人の霊魂が懸って来たが、村人の甲乙(だれかれ)を捕へて数十年前の当時を語り、叉訓戒を加へるところ、ドウ見ても市兵衛老人そつくりであるといふので村人一同驚歎して了ふ。一時間以上に亘り、いろいろの事を述べた中に、斯んなことを言った『このかね代の身体は、≡十六年間に使い切って了って、一旦死んだのだ。今生きているのは仝く不動の力だ。この体は火食はできない・湯でも飲まして見ろ!すぐ死んで了うぞ! もちろん男女関係などもできない。・・・飯を喰ったり何かする汚れた体に世間で不動がのりうつるなどゝいうのは皆嘘だぞ!この女は斯うしてこれから、不動の御用をするものだから、傍の人もよく気をつけてやるがよい。・・・・・』
 実際かね代女の近状は不思議極まるもので、最近の十日問は、生米さへ食はず少許の果物と沢庵とを食つている丈である。先日単身東京から帰るに際しても、一里余の山路を歩くに、毫も疲労を覚えなかつたさうで、大分先年の長南年恵女の状況に酷似してゐる。その癖われわれの為に饂飩を作ったり、酒を温めたり、一心に歓待の労を執っている。
馬め
 その日は叉十余人の村人達と、いろいろの談話を交換して、得るところが少くなかつた。叉武田信玄に関する材料なども、少しばり手に入れた。
 翌二十二日は朝から快晴、初めて雪の甲州の、秀麗な山河に親しむことができた。査べることは沢山残っているが、ほぼ見当だけはついたので、一と先づ引きあげることにきめ.市太郎老に韮崎まで送られ、十二時四十分の汽車を捕へた。好田君韮崎で分れ、大野君とは甲府で分れ、後は独りで薄暮れの頃鶴見に戻って来た。(大正十五、三、二十三日朝誌)
                                        


 


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:旅行

二つの怪奇な心霊現象(その1) [旅人]

           は し が き
                                        
 本編には土佐の集団的怪現象と、横森家に搦まる因縁譚とを収めてあります。前者は西洋でポルタアガイスト現象といわるゝものですが、こんなに集団的に行はれたものはさう滅多になく、全く珍奇といつてもいいでしょう。読過して行く中に、不思議といふ感じよりは、寧ろ滑稽劇の筋書でも読む心地して、自から破顔を禁じ得なくなります。年代はチト古いが、公文書に拠るということですから、全くの事実に相違ないでしょう。
後者は著者が親しく調査した事實で、長南年恵物語りと、多少似通つたところがないでも
ないが、因縁の深刻さを語る点に至つては、全く戦慄に値するものがあります。共に得易からざる心霊事実として、之を一本に伴せ録して刊行することに致しました。
                                        
 昭和十五年二月
                             編 集 者 識
 

     二つの怪奇な心霊現象
                浅野和三郎著

     土佐の集団的怪現象

       は し  が き                ・
 東洋に於ても、西洋に於ても、時として途轍もない怪奇現象が突発します。例へば大き石塊が矢鱈に飛ぶとか、器具類が飛ぶとか、無論中には人騒がせの好きな、イクヅラ者の計策(たくらみ)にかゝるのもあるやうですが、明確なる証拠が立派に上り、ドウあつても之を事実と認めない訳には行かないのも、決して少くありません。西洋の心霊家は、かゝる現象を普通ポルタアガイスト現象(騒々しい幽霊現象)と呼び、これに関する正確なる記録が沢山作られて居ります。「今の開けた世の中に、そんな莫迦な話があってて耐るか」などゝいふのは、単にその人の無智を証明する放言に過ぎません。心霊科学のメスにかければ、もちろん別にそれは不可能の事でも、又不可思議な事でも何でもないが、しかし普通の常識、普通の物理化学の知識では.到底訳の判らない異常現象が、案外世界の各方面に起こりつゝあるのであります。
 試みに私の記憶を辿つて見ましても.西洋ではバアレツト博士の報告にかゝる、チェリトンに放ける石飛び現象(1918年5,6両月の英国心霊協会報所載)などがあります。年代も新らしく、又証明者も又粒揃いの学者ばかりで.一点疑惑の余地がない。更に最近には、オースト
リアの少女、ズーガンを中心として起これる怪事件があ少、心霊大学がが相当力瘤を入れて之を究明したことは、御存知の方もあると思ひます。東洋方面には、この種の出来事が、一層多いのではないかと考へられますが、何をいうにも調査が不充分、従つて記録が一向纏まつて居ないの
で、飴り識者の視聴に上るのが多くないのは遺憾千万であります。たゞ大正十三年十月二十七日以降、約二ケ月に亘り、北満の南開嶺に起った怪奇現象丈は」本会貝田中剛輔氏の手で、綿締な記事が作製され、『南関嶺の怪現象』と題し、『心霊と人生』誌大正十五年二月号に掲載されて居ります。まだ御承知のない方は、是非御一読を御勧めします。
 私がこれから紹介しようと思いますのは、只今から約八十五年の昔、土佐園長岡群豊永郷岩原村に起った、怪奇現象の実験記録であります。これは当時直接この事件に関係した、土位藩士野島通玄という人が、『甲辰奇怪記』と題し、なかなか詳しく顛末を記述してあるのを基本とし、私が全編を読み易い現代語に翻訳したままで、内容にはもちろん一点一劃の増減をも施しません。
日本の心霊界としては、近頃めつたに見当らぬ面白い掘出物で、原本はもちろん写本のまゝ、野島家の書庫に秘蔵されて居たのであります。事によるとこの種の秘本は、尚他にも少しは見出さるゝか知れません。若しも御心当りの方があったら、この際成るべく提供さるゝことを、日本心霊界の為に御願ひして置きます。

       一、事件の発端
                                
土佐には古来、犬神憑きと称するものがあり、これに関する風説は到る所に見出されますが、その犬神の正体は、まだ充分突きとめられでいない。事によると、何等かの憑依現象が起こり、取りとめのない言葉でも口走れぽ、その内面の許しい調査もせす.すぐに之を犬神の仕業にして
了うような場合も、少なくないらしい。弘化元年(甲辰)長岡群豊永郷岩原村の山民どもの間に起こった、不思議現象なども、だんだん調査をすすめて見た結果、所謂犬神なるものの内容が、ほぼあきらかになって来たように思われます。
 右の豊永郷岩原村というのは、野島通玄の支配にかかる山間の僻村でありましたが、同年の正月十六日から地下人ども二十幾人かが、すっかり乱心して了い、同村百姓長丞は犬神使いであるから、これに懲罰を加えるのだと言って、同家へ乱入して、狼藉の限りを尽くすのでした。すると長丞は、「自分は決して犬神使いでも何でもないのに、そんな無法な事をされては、迷惑至極である。何卒充分の御詮議を願いたい」
と公儀に申し出ました。著永郷の大庄屋山本實蔵、同惣老小笠原順平の両人も、途方に暮れ、その旨を書面に認め公儀に申し出ました。
 乃で長岡群支配の先遺役野島馬三郎(通玄)が出張して、仔細に査べて見ると、百姓長丞と申す者は、一般の人家から余程北の方に隔たった、巌窟の下に家を構えて住んで居る変人なので、前々から村人との交際が円滑でなく、あの巌窟の内部には、犬神が籠って居るのだなどと言い囃され、村の組合からも除名されて居る男なのでした。
 当年に入り、長丞は村人に向かい、頻りに組合に加入させて貰いたいと頼みましたが、頑固な村人は一統不承知を唱へ、素気なくその申出を拒んで了ひました。すると間もなく、同村の百姓寅蔵なる者が、何物かに憑かれた様子で、いろいろの出鱈目を口走るやうになり、しかもそれが傳染性を帯び、忽ちの間五六人の男女が、同じやうに攣な事をのべるやうになりました。

 『こりアたしかに犬神の祟りだ』-村人は一人として、さう信じない者はなくなりました。
この事情は、直ちに御郡奉行青木忠蔵の手元まで進達され、尚お追々の模様は、その都度報告するやう、係りの役人に厳達されました。するといろいろの報告が、後から後から参るのでした。
第一の報告は 
 『先程御達し申上た通り、岩原村地下人共数人乱心仕り、いろいろ取り治めましたが、その後又々人数五人計り相増し、都合乱心の者十七人に相成り、一同前後の見境なく騒ぎ立て、そ処分には、全く当惑致して居ります。病人ども申すには、長丞が願主となり、小さき堂を氏神の脇に献立してくれれば、鎮まってやる云々。由って長丞にその旨申し含めましたところ、左様の事は自分の力には、到底及びませぬが、家内一同へ働切手を下し賜り、尚お百姓株田地とも御買上げ下されば、歓んで立退く旨を申出ました。左りながら、此儀も甚だ差し支え有って、目下適宜の方策を考慮中です。何分乱心者どもいよいよ荒立ちますので、隣村の者まで来て、監硯して居る次第、誠に以て前代未聞の大変事で、この先ドウなるか、到底予測致しかねます。……』
 右の書簡を持参した使者の口頭報告は、一層要領を尽くしたところがあります。
 『不思議なことには、乱心者一同、夜分になると一向正気に返り、平気で仕事もすれば、談話も交えるのでぁります。翌朝も同断にて、山野に出かけて農事に従事致しますが、四ツ時(午前十時)になりますと、誰彼ともなく自然農事を放り棄てゝ道端に集まり、ゾロゾロ勢揃いをして、惣老順平の宅やら、五人組頭共の宅やらへ押しかけ、歌つたり、舞つたり、叉源平時代の昔物語などを試みたりします。そして間断なしに、あれ彼所へ沢山の犬神どもが押しかけて来た。などと怒鳴り立てます・・・。集まつた連中の顔触れを見ますと、昨日の狂乱者の外に、幾名かの新顔が加はつて居り、毎日毎日人数が増加する一方であります。試みに其者達の家内に事情を尋ねて見ましても、今朝農事に出掛けるまでは、何も妖しき事はなかつたさうで、恐らく狂乱者に交際つた為に、病気が傳染したのでムりませうと答へる位のもので、一向要領を得られません。このままで打過ごしましたら、狂乱者の人数が殖える一方で、何とも手が附け兼ねるやうになりませう・・・・』

  第二の報告は正月二十四日の日附で、差配役畑山堅蔵から差出されました。その要領をかいつまむと                 
  『だんだん大庄屋はじめ惣屋共から、事の次第を聞き及びますと、今から五十年前にも、岩原村の者十三人ほど、同様の状態に陥ったことがあるとの事で、その節は狂人共の申分に随い、長丞方で小宮を建て、お祭りをした所、すっかり鎮まつたさうで、今回も同様小祠を建てるよう、長丞に勧めて居りますが、なかなか得心致しませね。去る十六日には、狂乱者二十名許りを集め地下役附添で長丞方出張させて見ますと、狂乱者達は、久しぶれで我家へ戻ったので、大いに安心だとばかりに、乱舞狂跳の限りを尽し、長丞を捕へて、いろいろ難題を持ち出し、果ては犬の吠えるやうな大声を発しながら、有り合ふ薪を引つつかみ、長丞に打つてかゝりましたので、長丞はじめ家内一同、蒼くなつて逃げ出したやうな始末であります。すでに先日以来栗生村の定福寺の真言僧が日夜祈祷をつゞけ、法力でこの災難を鎮めんと力んで居りますが、一向効験ある模様なく、祈祷中には尚更狂ひ暴れるやうな始末。その癖夜分になりますと、一同ケロリと正気に返り、自分でもドウした事かと、乱髪を撫でゝ不審がつて居るやうな訳で、只今の所、何等之を鎮める名案もありえせね…。』

 尚お右の報告の末尾には、定福寺の状況をちよつと書添へてあります。
 『定福寺は岩原村の阿彌陀堂に於いて、祈祷を修して居りますが、なかなか仰山な仕掛けで、いかなる悪霊邪鬼も退散しさうに見えますが、しかしその効験は意外に薄く、祈祷最中一同の暴ばれ方は、一層物すごいものがあります。何れも乱髪になり、大音響で神代の事、源平合戦の次第などを、無茶苦茶に呶鳴り立てます。無論前後の脈絡等は、一向について居りませねが、無学文盲な山奥の人民の仕業としては、何とも合点が参り兼ねます。その人数も、最近には四十余人に上つて居ります・・・。』                        ■
 右の書翰によりて土佐藩でもいよいよ頭脳を悩まし、更に差配役藤崎信八む派遣し、臨機の処置を執らせる事にしました。

        二 祈 祷 の 失 敗
 引きつづき一月二十八日には、大庄屋惣老達から、神職派遣の請求をして来ました。短い書面ですから、当時を偲ぶ資料として、試みに原文のままを載せて見ます。-
 『豊永郷岩原村地下人共数十人、狂乱の体に御座侯而、度々御達仕候通、次第に人数ましにも相成、如何共当惑仕侯問、何卒神職御指定之上、御祈祷被仰付度、恐乍ら書面を以御願申上候也・・・・・・。』
 右の願書に差添へては、例の差配役からの報告があります。重複の個所を省き、左にその要点のみを採録します。                           

 『…今以て邪気退散致しませぬ。既に昨日も狂乱者中重立ちたる者十人許りを、地下役宅へ呼び寄せ、彼等の気分が平静に立戻った時分を見計ちひ、順序を立てゝ訊きただしました。彼等の申す所によれば、狂い出すのは実に俄かの事で、急に身の毛が立上がり、何やら東の方から、一陣の風が楓と吹き来る様に感する。それ同時に、正気というものは全然消え失せ、それから何処へドウ行ったのか頓と判らない。程経て追い追い我家へ立帰る時分になると、これは東、これは西という方角だけは判つて来る。さて家に戻って見ると、身体が非常に憊(くたびれた)(つかれる)れているので、そのまゝぐつすり快寝、翌朝家内の者から、前日の狂態の話しきいで、初めてそれと知り、自分なながら呆れ返って了うといふ具合である・・。ざつとさう言った陳述であります。現にこの折りなども、斯く対話をして居る最中、東側に居る者から、順々に前日の通り狂乱状態に陥り、めいめい乱髪を振り立てて、例の祈祷所阿彌陀堂へと突撃して行きました。まるで人間の形勢ではありません。
で、地下役の方では、これでは到底致万がないから、是非五代山高善院を迎へ、加持所念を受けたいと、差配役場へ申出ました。さり乍ら私どもの存慮磨にては、寧ろ稲荷の神職久武山城に、この仕事は仰せつけられるのが宜しいかと思います。故いかにとなれば、四国には狐が居ない為めに、かく犬紳が跋扈するのだと言い伝えられて居るからで、この点篤と御詮議を願い上げます・・・。』
 犬神退治の為に、急に稲荷さんを輸入しようとする当時の役人達の名案?は、われわれを微笑せしめます。兎も角も奉行の方では詮議の結果願いの通り神職の久武山城に、悪霊退散の任務を命する事に一決、『御用筋有之侯間、御郡方役場罷出べし。』との一通が、同人の手元に届きました。山城は即日出勤、野鳥馬三郎から委細め物語をきかされ、難有く御受けを致し、同時に斯んな証文を発しました。『仰せに従ひ、明三十日出頭致しまするが、この大任を果す為めには.神職五人を要します。植田村神主武田豊後、大井出雲、この両人は平生から使いなれて居りますから、是非とも召し連れることとし、他の二人は彼地にて傭い入れることに致威しましょう。』           .        
 山城は二月朔日を以て、約束の通り岩原村に到着、前記二人の外に、同村にて岡崎長門、西村若狭の両人を傭ひ入れ、同村氏紳の社殿で、二日から四日まで三日の間、祈祷執行の段取りになりました。

 かかる問にも村内の形勢は、ますます悪化するばかりでした。かの長丞一家のものどもは、とてもヤリ切れなくなり、何所か親類の方へ逃げて了いましたので、狂乱者達はその目標を変更し、今度は阿彌陀堂に行つて、定福寺の行っている祈祷の邪魔をするのでした。彼等は口々に罵りました。『コラツ! 坊主、只今の読方は節が拙いぞ!もつと高い声で呶鳴れツ!』 『オイ坊主の月代の生えたのはみっともないぞ!きれいに剃らぬか!』『そんなヒヨロヒヨロの痩こけ坊主に、高い良い音声の出る筈はない。もちと甘いものでも喰はんか!』そして不相攣、日毎に狂乱者の人数は増加する一方なのでした。

 稲荷の神職久武山城等五名の祈祷は、予定の如く二月二日から開始されました。その時に於ては、狂乱者の人員、実に六十四人を算し、定福寺の場合と同じく氏神の境内に集まり、雑言罵倒呈しうし、役人達の制止も一向耳に入らないのでした。しかし久武山城は、相当しつかり者らしく、一座の修法が終つた時、狂乱者の大将株と覚しきものを捕へて、問答を試みました。
           
『汝等は一体何物であるか?誠に犬神の所為ならば、この稲荷の神体小狐丸を知らね筈はあるまいが・・・。』              
『それなら白状するが、実際長丞には犬神の関係はない。俺達はたゞ犬神をダシに使つて、騒いで居るのだ。何を隠さう俺達は、阿波國祖父山の内、国政村梅の宮に千年以上も住んで居る古狸だ。先年国主様の鎭祭に依り、諸人へ化障を為す事を慎んで居たが、本年から年明きになつたので、いよいよ思う存分、イタヅラが出来る時節になつたのだ。五十年ほど前にもこの村にやつて来て、村の奴等を悩ましたことがある…。』
『これはけしからん、何故汝等は、特に当所を目指してイタヅラを行るのであるか、その仔細を逐一申立てよ…。』
 『……。』
 『早く白状せぬか?』                     
 『……。』
 いかに詰問しても、先方は返答をしない。その中日が暮れたので、止むなく問答を打ち切り、翌日叉々修法に着手しましたが、乱民どもは依然として、髪をふり乱して跳んだり、はねたり、又わめいたり、到底人間世界に於ては、類例のなき狂態を演ずるのでした。山城は例によりて、
 彼等の中から弁舌の優れたもの四五人を選み出し、自分等の正面に座らせて問答を試みました。
 『汝等はしきりに神代の事やら、源平合戦の事やらを口走るが、それは一体ドウいう理由か。叉女の中で、在原業平んが恋しいなどと言うものもあつたやうであるか、いかにも奇怪至極だ。果たして汝達のいふ通り古狸にて、昔の源平合戦の有様を知つて居るというなら、先以て汝達の近国、讃岐の八島で、両軍雌雄の合戦の有様を詳しく物語つてきかせて見よ。さあドウじゃ?』
『汝は稲荷さんに仕えて居る身分ぢやないか』と、その中の一人が言い出した。『神主には猿田彦大神が、天孫を導かれた次第でもきかせてやるのが、筋に合つて居らあ・・・・。』
 すると他の一人の女が、傍から言葉を出しました。
 『われこそは天鈿女命の化身なり、汝等平常神楽舞と唱へ、わが古のの姿を真似て、白粉の女面をかぶり、長髭を垂れ、緋袴を着して舞ひ歌うは、甚だ以て奇怪なるぞ。以後は慎め!』
 さう言って髪を振り乱し、拍手合掌して、狂乱の限りを尽くすのでした。
 山城もこれにはほとほと手こずり気味で、
『これこれそうふざけては困る。おとなしく早く本国へ引上げてくれぬか。汝達の望みというのは、一体何んな事であるか?』   
『別に他の望みはありはしない。』と、一同口々に罵るのでした。『祠堂さへ早く建ててくれれば、いつでも鎮まってやるよ。』
乃で神職一同協議の結果、二尺四面の小祠を建て、一尺許りの神鏡一個を納め、これに向つて祈念をこらしたのでしたが、格別の効験もないのでした。
百計尽きて神職一同は、二月八日を以て空しく岩原村を引きあげました。


          三、いよいよ鐵血政策
 久武山城等神職達の三日間の祈祷も駄目、定福寺の昼夜兼行で、気長く行っていた修法も、結局無効と相場がついた時に、差配役の連中も、ほとほと思案に暮れました.差配役は門田左助、藤井清治、植田十蔵、野島三郎の四人でしたが、この際取るべき方策としては、畢竟佐の二途の外には出でまいということに、ほぼ評議がまとまりました。第一策は、然るべき方術者を迎へて、加持祈祷を行うことでした。古来陰陽師博士などというものは、屡々奇妙の術を施し、狐狸の類を調伏したといふ例証が澤山残っている。幸い五臺山高善院は、この地方での有徳者で、地下役を始めとし、かの狂乱者達までも、之を欽慕して居る榛子であるから、同人を指立て祈祷を修したら、或は奇功を奏せねものでもあるまい。若し狂乱者達が暴ばれて手に飴る時は、地下役に申しつけて、自宅へ縛り置き、大集団とならないやうに工夫すればよい。…‥大体さう言った方針なのでした。                   
 第二策といふのは、もつと武断的な鐵血政略なのでした。高善院を迎へて、加持祈祷も悪るくはないが、若しもそれで甘く行かなかつたら、他藩に封しても面目がない次第。寧ろ江の口牢屋の囚人全部を、しばらく山田町牢屋に移し置き、其処へ狂乱者どもを監禁する方がよくはあるまいか。狂乱者の中でも、老人、子供、又婦女子の輩は、地下に預かりにして置き、血気盛りの乱暴者のみを牢屋へ入るれば、それで沢山であらう。無論それを行るには、お上の御威光を示す為めに足軽二十人を申受け、一同十匁玉の鐵砲を持参させることにする。そして郷廻役ともども力を併せて狂乱者を召捕り、手錠足錠をはめ、十手杖棒等にて威し、盛んにに無玉の鐵砲を打放のである。さうしたら、悪魔はきつと往生するに相違あるまい…。
 四人の差配役が、とくと会議を重ねた結果、とうとう第二の鐵血政略を採用する事に一決し、ニ月九日、その旨を御郡奉行所に達し出でたるところ、詮議の上で、その申出通りにせよとめ認許が下されました。
 変態心理患者鎮圧の為に、火縄銃を携へた二十人の足軽が堂々と出陣!いやなかなかの大芝居になつたものです。


        四、大   乱   闘

 鎮圧隊の惣宰には植田、野島の両人が任命されて居ましたので、右両人は二月十一日を以て郷廻役、足軽等数十人随身にて党々と出発、同十二日には、同郷土屋村の大庄屋山本實蔵方に乗り込み、暫時休息の上、再び其処を出発して岩原村へと向いました。すると途中で、足軽共が数十頭の犬を曳いて来るのに出逢ひました。ドウした理由かときいて見ると足軽どもの答は斯うでした。・・・
『この度の大乱暴は、古狸の所為でムりますから、斯うした場合には犬の用意が第一でムりまする・…。』
 別段拒むほどの事でもないので、惣宰等はそれを黙許する事にしました。程なく一行は岩原村の境界へさしかかりますと.地下投どもが出迎へて、とある民家に一同を案内しました。
すると間もなく、村内の情況報告が達しました。・・・
 『只今定福寺儀例の場所で、祈祷の途中でムりまするが、狂乱者どもは、何れも右境内に集り、乱暴狼籍の限りを尽くして居ります。しばらく遠方から、その實況を御覧くだされてはいかゞなもので…・。』
乃で一同ぞろぞろと右の休憩所を立ち出で四五丁ほど進んで見ると、其処に一つの谷川が流れて居り、谷川の彼方、距離はやゝ一丁許りと思わるる阿彌陀堂の境内に、果たして数十人の男女が乱舞して居る状況が、手に取る如く展開されました。見よ、何れも皆頭髪を振り乱し、何が何やら、更に合点の行かぬ文句を呶鳴りつつ、手を合わせてニ三尺の高さに飛び跳ねてゐるではないか!『何とも目を驚かし候事にて候』と、筆録者も驚嘆して居ます。
さて此等の狂乱者を、ドウ処分するかに就きては、叉々詮儀が開始され、
短兵急に手荒らく形づける説と、深謀遠慮をめぐらして萬遺算なきを期す説とに分れましたが、其処へ大庄屋が罷り出て、意見を述べました。・・
『あの狂乱者どもが、何より嫌いまするのは、犬と繊砲でムります。ついては現場へ乗り込むまで、右の二つを取り隠し置き、人目にたゝぬやうに、こつそり御出かけにならるゝが宜しいかと存じます。何分にも阿彌陀堂へ参る道筋は嶮岨でムりますから、そんな所を多勢で通行致しますれば、狂乱者どもに押し寄せられて、不覚の怪我を致さぬでもムりませぬ。この儀篤と御考慮を煩はしたうムりまする…。』
 大庄屋の意見ば、至極尤もだといふので、鎮圧隊を二手に分け、野島馬三郎は南から、植田十蔵は北から、相談の通りに嶮路を潜行することになりました。かくしていよいよ阿彌陀堂近く押寄せますと、狂乱者達は忽ちそれと気がついて、何れも目を怒らし、口を尖らせ、『汝等何者
なれば繊砲を携へ、犬を引き連れ、異形の体にて罷り越したるか?そのまゝにはさし置かぬぞ!』とばかり、ものすごい形相で反抗の態度を執りました。
『それツ! ものども懸れツ!』               
 惣宰達の号令が下るると共に、剛気の輿力を先頭に、何れも杖、十手等を以て打ちかゝり、同時にポンポンと空鉄砲を打放し、それに乗じて、率いて来た多くの犬が、ワンワン声高く吠へ乍ら跳び懸かるといふのですから、全く以て大変な話しで、正に剣劇以上の物凄さだつたらうと想像されます。之が為めに、狂乱者の弱虫どもは、片端から難なく搦め捕られましたが、手強いところは、なかく猛烈に抵抗して、一方ならす寄手を手古摺らせたやうです。筆録者の文句をそのまゝ拝借すると、・・
 『その内剛勇の者は少しも辟易致さず、砲火黒煙の中より立上り、飛びかゝり釆るを、再三打伏せ、蹴倒し、種々様々と手術むつくし候へども、尚おもますます狂怒を相発し、声々かしましく罵り立てゝ止まず、因て足軽共は断えす鉄砲を打ち放し、その余の面々も、これに應じて前後左右より夾撃…。』                      
 素朴なる文句の裡に、その場の光景が歴々と眼前に浮び出るやうな気がします。
 兎にも角にも大乱闘の上で、狂乱者全部を搦め捕ることに成功しました。するとそれ等の中から正気にかへり、恐れ入る者がボツボツ現はれましたので、そんなのほ片瑞から阿彌陀堂の境内に端坐させて、厳重に吟味することとなりました。

     五、妖 魔 の 正 体

心霊研究者に取りて、頗る参考に資すべき事象は、それから続々と現われました。
 正気に立返つた百姓の一人は突然斯んな事を叫びました。
 『お役人様、何卒早く御出ください。あいつが叉私の左の手の拇指の爪から這入つて来ました。』                
 『何が拇指の爪から這入つたと申すか?』      
 『魔・・・魔物の精で…。』
さう言われて見ると、成程皮と肉との中間に、ブクリと梅実大にふくれ上つた個所があります。乃で、その者の腕首を堅く握りしめ、そのふくれたものを絞り出すやうにしますと、いつの間にやら、それがブイと消えます。    .
 『あツ! 只今爪先きから出ました。・・・』          
 当人はさう言って喜びます。他にもそんな手合が続々現れ、或は足の爪から這入つたというもの、或は手足の拇指と小指とから、二つ這入ったというものなど、さまざまでした。致方がないので、役人達は半ば好奇心も手伝つて、彼等の注文通り、一々その脹れものを絞り出してやつたのでした。

 その梅実大のものが果して何物であるのか、その正体を掴むことはできませんでしたが、しかし確かに何物かゞ爪先かち飛び出したことは確實で、ひどいのは爪先から出血して居り、又総体それ等のものどもの爪の色が、死灰色を呈して居るのでした。
兎も角斯んな荒治療の結果、大部分は正気に返りましたが、たゞ残る十人ほどが難物で、邪気退散の模様が見えませんので、足軽連中業を煮やし、数頭の猛犬をそれ等にけしかけましたから耐りません。何れも手足を噛まれ、半死半生の状態になりました。
『こらツ! これでもまだ白状せんか!』
『早く退散せねと叩き殺して了ふぞ?』             
単に口で呶鳴るばかりでなく、倒れたものどもを十手や杖で・ビシリビシリと殴りつけましたので七ツ時頃(午後四時頃)になると、中でも一番凶暴な五人も、漸く白状することになりました。

 『私どもは前にも申し上げました通り、阿波の組父山の内、国政村梅の宮に住んで居る狸でムりますが-先般当村の百姓ども、同輩長丞に対し、悪感情を抱いて居るのを見受け、犬神と申し偽りて、緒人を誑惑(タブラカ)した次第でムります。神職や僧侶の祈祷位は一向に平気で、イタヅラを続けましたものゝ、斯くお上の御威光を以て、御成敗に預かりましては、到底刃向かう力はムりませぬ。
この上は罪科の次第、何卒御赦免くだされ度く、さすれば至急本国阿波の國をさして立帰ることに致しまする…。』            
 すると叉列座の中から、斯く申出たのもありました。
『私事は阿波の狸の配下ではムりませぬが、力づくで彼等の為にこき使われ、心ならずも斯んなイタヅラを働きました。何卒御勘弁を願い度う存じまする…。』
野鳥、植田の南惣宰は、此等の申立てを聞き終わった時に、期く申し渡しました。
 『汝等何れも許し難き奴原なれども、真実後悔して全部退散するに於ては、特別の思召を以て、これまでの罪科を差免しつかわす。早々帰国致すやう吃度申しつけるぞ!。』
 『難有くお受け仕りまする。』
さう言って、五人の者どもは、一人づゝ十問許かりも歩るいてから地面に蹲り、両手を後ろに廻わして、何物かせ背負ふやうな格好をして叫びました。・・・

 『眷属どもは、残らず連れて行つてやるから、皆早くこゝへ来い!』
すると、境内に坐つて屈た男女の狂乱者達の中から、一人づつ両手をひろげて、飛鳥の如く五人の背中へ飛びつくのでした。飛びつかれて、中には引っくりかへるのもありましたが、すぐに又起き上り、順々に全部のものを背負うやうな真似をしました。
 『よしよしこれで俺達の眷属は全部済んだナ!早速出掛けるぞ!』
 言うや否や、五人の者は、順次に非常な勢ひで駈け出し、岩石だらけの険路を物ともせす、さながら駿馬の馳するが如き勢いで、無二無三に突進し、岩原口の境界御番所の前に達しますと、忽ちバタバタと仰向けに顛倒して、悶絶して了いました。
 役人達はたゞ呆気に取られて見物するより外ありませんでしたが、半時ばかり経つ中に、五人は何れもムクムクと起き上りて正気に立返りました。

     六、後  始  末

 役人達を手古摺らした五人が、正気に返りましたので、狂乱者は男女合せて総計六十四人、全部阿彌陀堂の境内に列を作りて、土下座をさせられ、野島、植田の両惣宰が、一々厳重に点検してまわりました。大騒動の挙句とて、一人として満足な恰好のものは居ませんでしたが、しか
し何れも皆本心に立戻つた事は確かで、ひたすら恐れ入つて差控えて居るのでした。
 ただそれ等の中で一人の女子・・何某の妻のみがまだ正気でなく、役人が近づくと矢庭に駈け出しました。

 『こらツ! 神妙に致せ!』                 
 与力の一人がすぐ様差押へて、元の位置に連れ戻る、件の女子はしぶしぶ其処へ坐りました。
 『何故その方は温和しく致さんのか?』
 『俺はこの女と古い馴染みのもので・・・・。』
 『何ツ! この女と古い馴染・・・。一体汝は何者なのぢや?』
と役人もいささか呆気に取られて詰問しました。
 『俺はこの女とは仔細あって、当年まで離別して居たものでムりまするが』と、件の女房は途方もない事を口走るのでした。今回久しぶりで再び馴染みを重ね、互いに偕老同穴の契を致した上は、所詮このまゝ別れる所存はムりませぬ。御役人様、後生一生のお願いでムりまする。どうぞ末永く二人を添ひ遂げさせてくださいませ…。』
 さう言って、両袖を顔に当てて泣き出しました。
 この手放しの惚気をきかされては、さすがの役入達も、覚えずどっと噴飯さずには居られませんでした。
 野島惣宰は漸く笑いを抑へて、更に尋ねました。
 『偕老同穴もよいが、全体汝は何物なのぢや?』
すると先方は之に答へるかわりに、唾を吐き懸けたり、舌を出したりするのみで、ドウあっても言葉をきかない。
乃で件の女を庭の大木へ縛りつけ、付近の人家から芥子を取り寄せ、鼻の下で焼立でて、その煙を鼻の孔へ煽ぎ込むというような、乱暴な手段を講じましたが、一向効能は見えないのでした。『ただ狸の泣声を出すのみにて、邪気退散の見込無く云々』と、記録に書いてあります。とうとうこの一人だけは、何れ明日の処分に残すことにして、夜五ツ前後(午後八時頃)一同阿彌陀堂を引き上げ、六十余人のものどもは、地下役が召しつれて、それぞれ自宅へ送り届け、叉役人達は旅宿へ罷り越したのでした。
翌十三日男女六十四人の中、六十三人を旅宿(小笠原順平方)へ呼び出し、地面へ藁筵を敷いて一同を坐らせて吟味しましたが、何れも平和な面持で、平常と少しの相違もないのでした。しかし正月十六日発病以来の事をきかれても、之に答へ得るもめは一人もなく、元より愚味な山民の事とて、神代の物語が何だやら、源平の合戦が彼だやら、一向無我夢中なのでした。
 乃で、野島惣宰は一同に向かって、諄々と説諭しました。・・・
『その方どもの間違の原因は、理不尽に百姓長丞を忌み嫌つたことである。総じて妖魔と申すものは、人の心の隙を覗ってさまざまの祟りを為すもので、今回の珍事とでも、全く犬神の所為ではない。日頃長丞を犬神使いなどと称して毛嫌いしたから、悪魔がそれに乗じて、イタヅラをしたまでのことぢや、以後は長丞をその方どもの組合に相加へ、互に睦じく交際せんければ相成らぬぞ。この儀吃度申しつける・・・・。』   
 一同恐れ入って承服の旨を申出でたので、それぞれ自宅へ引き下らせました。最後まで暴れた婦人も、その後邪気退散し正気に返って居たのでしたが、ただ昨日の取扱方が少し酷過ぎたせいか、体中痛み激しく、食事もできないとの事に、この日の同席は、差免されることになったのでした。
 植田十蔵、藤崎信八、郷廻役四人、火番四人、足軽二十人等は、その日の中に岩原村を引きあげ、たゞ野鳥馬三郎は丈は、長岡郡支配なので、念の為に一日居残り、六十四人のもの等の邪気退散の模様を見届け、並びにかの神職達の建立した祠を取毀った上で、二十四日同地を引き上げたのでした。

 以上で大体この土佐の怪現象の落着がついた訳ですが、二月二十日頃に至り、六十四人の中から、少々再発の患者が出現し、その為にまた少し余談が残って居るのであります。

         七、徐  談
二月二十一日、岩原村の郷廻役から、次ぎの書状が役所へ差出されました。それによると、あの荒療治で、大体は鎮まったが、まだ多少余波が残って居る模様なのでした。・・・・
『過日の狂乱者六十四人の内より、気分穏やかならざる者が、少々発生した模様で、心痛致して居ります。何分地下役始め地下人ども、五臺山高善院に封する信仰甚だ厚く、是非一同は同人の加持祈祷を受けたいとの念願を抱いて居ります。就きては一同同所へ立越し、加持をを受けることに致してはいかゞなものでムむませうか。この儀お指図を仰ぎ度う存じまする・・・。』
役所では評議の結果、人気の転換法として、それも至極宜しからうといふ事になりました。
 今回の再発患者というのは総計十四人でしたが、それ等お地下役達が引具して、二月二十四日五臺山に赴き、大般若の祈祷を受けました。すると不思議にもそれが効いたものか、一同すっかり正気に返りました。尤もその頃までに岩原村の村民とかの長丞との間の仲直りがすっかり出来ましたので、或はこれも大いに輿って力あったではなからうかということでした。
 三月二十五日、筆録者は散策の途次、五臺山高善院に立寄り、雑談数刻に及びました。その際岩原村の怪異談に花が咲き、いろいろの物語りが出ましたが、律師の述べた所説の中には、相常面白いところがありますから、それを紹介することにしませう。・・・・『すべて加持祈祷というものも、平時と変時とでは、趣きが異うものちや。平常家内安全、息災延命を祈るには、常の経文読誦暗いで事足りるが、かの岩原村を襲つたやうな、大袈裟な邪気を払うには、不動明王大成神力と唱へた位のことでは、なかなか効験のあるものではない。少くともこの高善院等の法力では、所詮駄目でムる。さうした場合には、矢張り國家の御威福を借り請けるのが近道ちや。これは祈祷者達のよくよく心得置くべきことで、生中の修法などをやると、却って神仏の御名を汚すことになります。
神仏の御威徳が不足なのではない。その御威徳を身に受けて、充分に之を発揮するだけの力量が、祈祷者の方に備わっていないのじゃ・・・・。』
 『最早や五六年前の古い話しでムるが、あの時この附近の若者達が、三十歳許りの男遍路を、愚僧の許に連れて来たことがあります。暴ばれて手に負へぬというので、乱暴にも右の男の首玉を縛り、丁度犬を牽くやうにして引きずって来たもので、・・・・・。見るといかさま右の遍路は、狐狸の類に魅惑されて居るらしく、キヨロキヨロウロウロと一向落付きがない。愚僧は篤くと思案の末、その者を玄関に蹲らせ、金剛杖を携えて参った。・・・・・金剛杖で一つ芝居してやれという所思いでなナ…。
『それから愚僧は、声を励まして呶鳴りました。・・・・おのれ妖魔畜生め汝いかなれば、万物の霊長たる人間に対して障碍を致すのぢや。速やかに退散致さゞるに於いては、国主の威厳を以て、汝輩を遺類なく退治して了ふぞ!退散するか、退散せんか!、こらツ!!・・・そう言って拙僧は手に持てる金剛杖を以て、敷居の辺を両三度手強く叩きました。
良い塩梅に、こいつが多少効験がありまして、右の発狂者はびっくりして縁の下へ逃げ込みました。そいつを更に引きすり出し、尚おも大声にて呵責し、再三金剛杖を振かざして、威しつけましたところ、彼者ますます恐れ戦慄き、ドウやら退散の模様が見えますので、その機を逸せず、拙僧は尚おも跳りかゝり、傍に転がっていた大石を、力任せに杖で擲きますと同時に、彼者は仰向けにひっくりかえりました。

『ドウやら手應へがあつたらしく感じましたので拙僧はは居間へ立戻って、休息して居りますと、やがて僕が来て、彼者が只今起き上がりましたとの注進。乃で早速縁先へ立ち出ますと、
先刻まで人の見境のなかつた遍路が、立派に正気に戻って居たではござらぬか。そして拙僧を見ると等しく、地上に端座して、一伍一什の身上噺を致したものでムる・・・・・。イヤ全く以て不思議な次第で…。
『彼者の述べた所はざっと斯うでムる。・‥自分は阿波の侍であるが、余りにお恥ずかしき次第ゆへ、姓名を名乗るだけは、何卒大目に見ていたゞきたい。先年来発狂の身となり、その間、ありとあらゆる秘法を試みましたが、少しく効験なく、とうとう今回両親に附添はれ、病気平癒祈願の為、四國八十八ヶ所の巡礼に罷越した次第でムる。が、何分気が確かでない為め、道中でいつしか両親と離ればなれに相成り、うかうかと他国の遍路達の後について、此処まで罷り超したやうな次第・・・・。
幸に時節到来したものか、今回計らずも貴僧の御威力を以て悪霊退散、ドウやら元の通り意識明瞭と相成り、何と御礼の申上げやうもムりませぬ・・・・・。
『右の侍は一夜当院に止宿の上、翌日帰国の途につきましたが、翌年三月にも再び遍路姿にて訪ね来たり、阿波の國の名産ども、多分に贈られたことにムりました。まあ斯う言ったやうな手軽い狂乱者ならば、未熟なる拙僧の力に及ぶこともムるが、今度の岩原村の大騒動、総計六十四人の狂乱者を鎮撫するというやうな大仕事は、縦令愚僧を差立てられても、到底無益でムつたに相違ない。御役所の威光を以て行ったあの荒治療、それこそ真正の祈祷というものでムる・・・・・。』
筆録者の文句どおり、全く『さすがに高善院の權奇』といゝたくなります。兎に角彼は略もあり、識もあり、相当のしつかり者だつたでしょう。
 これでこの記事は終わりですが、最後に筆録者の巻末の附記を原文のまゝ掲げて、本記録の正しい史実であることの証左としましょう。

 右一部中村の官邸に於いて暇日の折から、故紙の裏に半ば蟲鼠の食となりしを捜し出して、彼を綴り此を削りて書き改むること右の如し。素より邪魅の奇談を書置き侯も、諸人の嘲を忌悼り、数年の間そのまゝ差置候にぞ機略の俵は思ひ知るべきなり。猶かも洩れぬる事、疑わしき事どもは数十人眼の前に見もし、聞もしせる所なれば、その人々に尋ね問うべし。決して妄言にはあらざるなり。

 嘉永六癸丑四月二十七日        野 島  通 玄 識

                   (昭和六、十一)


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:旅行

続幽魂問答(3)長南年恵物語 [旅人]

  付録 長南年恵物語

     は し が き 長南年恵は朋治時代の日本が生んだ稀代の大霊媒であり、同時に又珍無類の人間の標本でもありました。 彼女は文字どほり絶食絶飲の状態を十四ケ年間もつゞけました。 彼女には大小便などの生理作用は全くなく、叉その生涯にたゞ一度の 月経もありませんでした。 彼女が数分間神に祈願すると何十本もの壜の中に一時に霊水が充満す るのでした。 彼女はほ五十歳で死にましたが、その時尚お二十歳位の若々しい容貌 の所有者でした。 彼女は何の教養もないのに、一たん入神状態に入ると書に画に非凡の 手腕を発揮しました。 彼女は詐術の嫌疑で何度か投獄されましたが、奇跡的現象は監獄の内 部でも供然として続出しました。又裁判官の眼前で壜の中に霊薬を引 き寄せたこともありました。

 彼女の半生に起つた主なる事件のみを掻いつまんで見ると大体右のやうな事になりますが、普通の常識で考へたら、到底そんな馬鹿馬鹿しい事実が有りそうには思われません。『冗談仰ってはこまります。御維新後の日本にそんなバケモノが居てたまりすか!』多くの人はさう言われるでせう。所が、一々証拠物件によりて精査して行くと其処に一点の法螺も掛値もない正真正銘の事実なのだから驚嘆されるのでります。 私は不幸にして彼女の生時に於て直接相見るの機会を有しませんでしだ。彼女の能力が最高潮に達したのは蓋し明治三十三年から同四十年頃のやうですが、当時の私にはまだ少しも心霊問題に触れるべき機運が熟せず、涼しい顔をして弊英文学などをひねくつていました。今日から顧みると残念至極に堪へない次第であります。明治時代に現れた霊能力者は他にもいろいろありますが、私が今日特に相見ることの機会がなかつたのを遺憾に感ずるのは実に長南年恵その人であります。 が、幸にして私は彼女の実弟長南雄吉氏に面曾して、その人のロから詳しい話をきゝ、又その人の秘蔵してあつた参考資料や証拠物件を閲覧する機会を獲ました。比較的まとまったこの記事が作製されたのは実にその賜であります。 忘れもせぬ私達の会合したのは実に大正十二年六月二十二日午前の事でした。当時氏は大阪市天正寺茶臼町三七〇番地に閑居して居られましたが、病臥中にもかゝはらず歓んで私を迎え、初対面の挨拶もそこそこに、直ちに問題の中心-同氏の姉年恵女の事跡-に突入しました。外にはしばしの小止みもなくしとゞに降りしきる雨の音、内には病後の衰弱をも打忘れ、精神をこめて亡姉半生の奇跡を物語る老紳士、いつしか四辺には俗悪なる現代とかけ離れた神秘的気分が豊かに漲りました。当時の光景は今も尚おありありと私の眼前に浮び出でます。 が、惜しいことにこの長南雄吉氏も最早現世の人ではなくなりました。今日氏の談話を整理発表するにつけて殊に感慨が深いものがあり主す。(昭和五年七月十日しるす)

     1奇跡の発端

「私の郷堅は山形県西田郡鶴岡町であります。私は明治元年生まれの本年が五十六歳(大正十二年)姉の年恵は丁歴十歳の年上でした。この姉に破天荒の奇跡的事実が起るやうになりましたのは、明治二十五年から同四十年に至る前後十五年間の事であります。」 長岡氏は蒲団の上に跪座したまま、時々眼をつぶつて、遠い過去の光景を追懐しつゝ物語りをすゝめるのでした。・・『私は元来早く郷里を出て居りましたから、姉と同居した小供の時の事なよくは記憶して居りませぬ。たゞ姉が人並み外れて寡黙の性質であつたこと、母や目上に対して極めて従順で、未だ曾てその命令に背くやうなこと無かったこと、体質が優れて強健であつたこと、それから無欲も無慾、殆んど愚物に近いほど無欲で、人が欲しいといへば、羽織りでも簪でも、さツさと与れて了つて惜まなかつたこてと、位を夢のやうに覚えて居るだけです。私の柿に対する正確なる智識は明治二十五年の帰郷を境界として始まります。『当時私は存京中でした。たまたま祖母が、東京で歿しましたので、私は其遺骨を奉じて郷里鶴岡町に帰る事に成りました。父は私の幼時に歿しまして、当時郷里の生家には母と姉とが二人で寂びしく留守を守つて屈ました。私が姉に就いて初めて不思議な話を母からきかされましたのはその時の事であります。年恵にも困ったものだと、母は涙ながらに私に向いてかき口説くのでした。今年三十五歳にもなるのに、年恵はまだ経水(月経)もなく、身体は大人でも気分はまるで十三四の小娘そつくり、しかも近頃は煮たり焼いたりしたものは一切食べず、ホンの少量の生水と生の甘藷(さつまいも)とを食べるばかり…、そして家の内には時々不思議が起・・・・・。何事もないのに家鳴り振動したり、叉神様から品物を授かったり・・・・。この先きどうなる事かと心配でならない…。『当時私は二十五歳の血気の青年で、一通り浮世の波に揉まれ、又学問ほ端くれも噛つて居りましたから、母の話しをきゝましても先づ半信半疑で、私は、まあ阿母(おっか)さん、心配なさいますな。あるべきものがないというなら姉さん一生独身で暮らしさへすりア可いぢやありせんか。斯んな気休めを申しまして、其場を繕って置きましたが、しかしつらつら姉の様子を見ると、母の心配されるのも成程無理はないと思わるゝ節々がないではありませんでした。第一驚かるゝのは姉の容貌の若々しさ。三十五歳の老嬢のくせにドー見ましても十五か十六の小娘の顔なのです。・・イヤ姉の顔の若い事に就きましては、私も飛んだ迷慈を受けて居ります。姉が私の宅に同居して居たのは-四十二三の時分でしたが、余り若く見えるので、私の友達どもが長南は怪しからん奴だ!近頃若い妾を引っ張り込んで居る。-さう言つて私を攻撃したものです。』- 斯く述べて長南氏はカラカラと打笑いました。私も覚えず筆をさし置いて共に笑いながら、『時にその貴下の姉さんのお写真はお手許にありませんか。若しお在りなら拝借したいものですが…。』『ある事は一枚在ります。しかし丸出しの田舎者が、田舎の写真屋撮ったものですから、實物よりは大変老けて見えます。』

    二 湯冷ましを飲みて吐血

 やがて長南氏は再び物語のつゞきを始めました。-『兎に角姉の身につきては私の腑に落ち兼ねる事柄ばかりですから、私は生家に滞在した数日間有らん限りの注意を払い、又能ふ限りの実験を試みたのであります。ところが事実は却つて母の物語以上、叉私の想像以上であつたから驚きました。 『私には姉か煮炊きしたものを食べられないという事が第一に信じ難い事柄でした。-食べられないのではあるまい。自分の気儘で、そんな事を言つて居るのだらう。・・私はそれ位に考へ、眞先きにその眞偽を確かめて見ようと決心しました。 『試験は極めて簡単でした。私ほ素知ぬ顔をして湯冷しを造つて、それを生水だと称して、姉に侑(すすめる)めたのであります。無邪気な姉はそんな計略のあることは夢にも知らす、何気なくそれを飲みましたが間もなく非常な苦痛で、飲んだ湯冷しを吐いたばかりでなくその後で血を吐いたのです! 『それがたゞ一回の吐血なら、偶然という事もありますが、試験の都度必らずさうなのですからさすがに頑固な私もこの事実丈は承認せざるを得なくなりました。いかに自己の経験や知識を標準としてそんな事資は到底有り得べき筈がないと結論して見ても、事実は飽くまでも事実で、理屈を以てそれを取消す訳には参りませんでした。 『尚お私が帰宅したその当夜から、母の述べた家鳴り震動、その他数多くの怪異が起つたことも事実でした。--が.私はそれ等の事柄は余り詳しくお話し致し度くはありません。そんな話ほ在来の有り触れた妖怪譚などにもよくあることで、よしそれが事実であるにしても、別に特筆大書する程の貴重な材料とも考へられませぬ。 『が、これまでの所は私の姉の身に起つた神秘的事実のホンの発端で、もっともっと不思議な事が其後に於て追々発展して行つたのであります。惜しい事に姉の事実に対する私の知識が、ともすれば間歇的、断片的になることがありますが、しかしそれは姉の生涯の前半期と終末期とにに悶する丈で、幸にも私は姉の奇跡的生活の花というべき時代を一緒に大阪で送りましたから、その点は誠に好都合でした。』

     三 竹 に 栗 鼠

 明治二十五年の帰省に際し、長南氏が郷里に滞在した日数はたつた五六日でしたが、それでもこの人の胸底に心霊現象に対する興味と理解を植へつくるには充分であつたやうであります。 実地の体験となると不思議に根強い印象を与へるもので、それが水久にその人の精神の糧になる場合が多いのであります。長南氏の場合の如きは確かにさうらしいのでした。同氏がその後の姉の動静に対する注意のいかに締密に、いかに真剣になつたかを見ればよく判ります。同氏は熱心に物語をつゞけました。- 『私の郷里滞在の時日は甚だ短いもので、祖母の葬式が済むや否や、私は母と姉をを郷里に残して叉大阪に出てまゐり、柑変らず世間の俗事に奔走して居りましたが、明治二十七年に至り、郷里の親戚縁者また村の役人、学校の教員等から、頻々として姉に関する通報が私の許に舞ひ込んで来るやうになりました。・・・ヤレ姉の日清戦争に関する予言は一分一厘の誤差なく皆的中した・・・・。ヤレ不思議に病気が治のか、北海道辺でらるも依頼者が雲集する・・・・。まあ斯う云った種類の事柄で、兎に角郷里の方では大騒ぎであるから一度都合をつけて是非私に帰って来いというのです。 『これが唐突の話しなら恐らく私ば一笑に附し去つたかと思われますが、明治二十五年の帰省のお陰で多少の興味は私の胸にも湧いて居ましたから、帰心は真に矢の如きものがありましたが、何を申しても当時の私は俗界に縛られて居る身でドーする事も能きず、心ならすも空しく数年を送りました。『が、明治三十一二年となりますと、郷里の方ではモー承知しなくなりました。近頃は不思議な現象がいよいよ顕著であるに連れて官憲の圧迫が劇甚である。早く帰国の上何とか処理をつけてくれ。愚図々々して居るべき問題でない、というのです。官憲の圧迫ごいうことを耳にしては私其儘放任して置けなく感じまして、百忙中に一閑を割き、急いで帰国したのは、たしか明治三十二年の七月の事でした。『ところが、帰って見ると今更私は吃驚しました。婦女二人の閑寂なるべき筈の私の生家は、まるで黒山のやうな人だかりで、それを出張の警官達が追ひ払って居るという騒ぎです。『段々落付いて調べて見ると、斯様な人だかりがするのも決して無理ではないと思わるゝ奇現象が続出して居るのでした。姉の身体に神様がいざ御降臨となると、先づ驚かるゝのは空中に種々の音楽が聞こゆる事で、それは笛、篳篥、篳、錫、鈴等の合奏であります。それまで私は風評にはきいて居たが、心の中ではよもやて思っておりました。所が、いよいよ現場に臨んで見ると実際嚠喨たる楽声が虚空に起り、しかもそれが分明(はっきり)と其場に居合わせる数十百人・・・警戒の巡査達の耳にまで聞こゆるのです。数日滞在の間にも私も五六回それを聞きました。『それから親しく実況を目撃していよいよ呆れましたのは、姉の生理状態の以前よりも一層極端に変調を呈して居ることでした。私か参りました時には絶食正に六ケ月、従つて用便全く不通、生水なら少しは嘗めるが、その外のものは一切口に入れないといふ現状でした。-その癖、当人の健康状態は頑強無比、肉附もよく一斗や二斗の水桶を平気で提げて歩くのです。『モ一つ驚きましたのは、姉の身体に神様が憑依(のりうつ)ったとなると、態度も音声もまるで別人格となり、そして衆人環視の前で一気呵成的に立派な文字を書いたり、絵を描いたりすることでした。申上る迄もなく姉は全く無学で、そして平常はよくよく無邪気な、殆んどバカ見たいな資質の女なのです。所が、其神懸かりの製作品となると斯の通り素晴らしいものです。』斯く述べて長崗氏は古色を帯びた半切の掛物を繰り広げて私達に見せました。それは竹に栗鼠の図で墨色といい、筆勢といい、又構図と良い、正に一流の大家の作品です。『イヤーまるで狩野だ!神懸りの絵と称するものも多山あるが、これほどのは、全く見たことがない!』私達は右の絵画に対して、覚えず感歎の辞を漏らさずには居られませんでした。長南氏は此絵を描いた二十余年前の実況を思い浮ぶるやうな面持ちで、『あの時私は姉が什麻(どんな)様子をして描くか、その一挙一動にまでも注目して居ました。するとその両眼はガラスの球のやうに、キュツと据(す)わって、心持ち目尻が釣りあがつて、有り合わせの筆を執るより早く、差し展べた紙にこれを描いてのけたのでした…。』

    四 鶴岡監獄支署の事実証明

 いかに場所は裏日本の一隅に僻在せりとはいえ、これほどの心霊現象が起つて居るならば、せめて東京の学界位には伝わりさうなものに思われますが、きいて見ると事実はqなかなかそれ所でなく、当時の日本の官憲は、いかにして此心霊現象を撲滅し、此無邪気なる婦人を抑圧すべきかに全力を挙げたのでした。西洋の物質文明に中毒した日本の官憲は恐らく国内にかる心霊現象の起こるを国家の恥辱とでも考えたのでしょう。象の起るのを国家の馳璧-でも考へたのでせう。兎に角当時の官憲の長南恵女に封して執れる態度方針は無茶と言おうか、乱暴と云おうか、醜劣と言おうか、全く以て箸にも棒にもかからぬ性質のものでした。官憲は事質の有無、真偽等には何等の顧慮なく、『妄に吉凶禍福を説き、愚民を惑はし世を茶毒する詐欺行為』と認定して、此憐れむべき女性を引続き二回--即ち明治二十八年七月より六十日間、及び同二十九年十月十日より七日問、山形県監獄鶴岡支署に監禁したのであります。由来官憲の圧迫は何れの邦土でも破天荒の心霊現象又は蓋世的宗教運動には附随物で、格別珍らしい事柄ではありませんが、年恵女の場合の如きは就中気の毒なものでした。郷黨の間に『極楽娘』と綽名される無邪気な婦人ををつかまへ、その身遍に不思議な現象が起るからと言つてボンポン監獄へ放り込むこ…。何う考えからとで、正気の沙汰とは申されません。 此官憲の無理解と圧迫とは明治三十二年に至りても、減少するどころか、却つて熾烈の度を加へました。そこで郷黨から長南氏への帰郷要請ともなつたのでした。 『巨細の実状を知らぬ間こそ黙って見て居ましたが』と、長南氏は當時を追懐しつ、物語をつづけました。『一旦帰郷上で数日の間実情を調査して見ますと、私は、こりアこのままに放任する訳には行かぬという気になりました。事実無根を事実無根として真相を曝露し、詐欺行為を詐欺行為として懲罰を加へるのならば元より正常でありますが、正直一方、眞心一方で行つて居るものを捕まえその身遍に起る所の現象が自分達の貧弱な頭脳と浅薄な智識で説明することが能ないからと云つて監獄に入れるとは何事か。・・・彼等といへども、姉の身遍に起る現象が決し虚偽の片影すら混らぬことは、姉の二度の監獄生活で知り切って居る。それにも係わず尚お強いて人為的に此確実なる事実を撲滅すべくカ瘤を入れるとは余りといへば片腹痛い。曲学阿世か、科学迷信か。何してもこの儘には棄て置き難い……  『とうとう私も憤慨の余り、明治三十二年九月二十一日附を以て、山形県監獄鶴岡支署長渡邊吉雄という人に、姉年恵の在獄中の生活実情にに就きての証明願を提出する事になりました。証明の項目は(一)両便の不通なりし事、(二)絶食の事(前の六十日問拘禁の時は、監獄規則上何か食と強ひられ、一日に生芋二十目づゝを食したるも。後の七日問は一物だも食物を口にせず、一度葡萄を口中に入るゝや忽ち吐血したる事実、(三)拘禁中前署有村實禮の需に応じ、監獄内にて神に願い、霊水一壜、お守一個、経文一部、散薬一服を授けられて之を署長に贈りたる事(四)同囚の需めにより、散薬を神より授かり之を与えたるに、身体検査に際し右の事実が発覚せる事、(五)監房内に神々ご降臨の場合には、掛係の人々が空中に於いて笛声其他の鳴物を聞きたる事、(六)監房生活中姉の蝶々髪は常に結ひ立ての如く艶々して居り、姉は神様が結つて呉れるのであると言いたる事、(七)一斗五升の水を大桶に入れ、それを容易に運搬し居たる事(八)夏期蚊軍来襲するも、年恵の身体には一疋もたからず、遂に在監中姉一人のみ蚊帳の外に寝臥した事、等の八ケ條でありました。『右の証明願はやがて附箋附で却下されました。共附箋の文句は斯うです・・・明治三十二年九月二十一日附を以て長南年恵在監中の儀に付願出の件は、証明を輿ふるの限りにあらざるを以て却下す--何ど面白い文句ではありませんか。事実は事実だが、証明を輿へる限りでないから却下すというのですから確かなものです。斯んな結構な証拠物件はムいません。私もこりア大事な品物だと考へましたから斯の通り立派に保存して置いてあります。』 さう言つて長南氏は半紙五枚綴の所謂御証明願いを出して私達に示してくれました。それは相當に時代色を帯び、そして附箋には『山形県鶴岡支署印』なる長方形の印版が鮮やかに捺印してありました。『イヤーすてきな証拠物件が残つて居たものですなー」私はそれを一見すると同時に思わず感歎の声を漏らさずには居られませんでした。 『是非写真にも撮り、又文句も写し取つて置きたいと思いますから暫時拝借を願いたいですが・・・・。』『承知致しました、お持ちかへりになられても構ひません。』長南氏は言下に快諾を与えて呉れました。右の『御証明願』の原文は私の手許に写し取つてあります。

    五 年恵女の大阪入り

 監獄署に差出した証明願いは空しく却下され、それによりて姉年恵の奇跡を天下に公表せんとした長南氏の計画は爰に一頓挫を来たしましたが、しかし一旦心霊に目覚めたる同氏は、それしきの事でその計画を抛棄しようとはしませんでした。氏は考えました、姉の神懸かりは別としても、単に両便普通、絶食絶飲等の生理的現象だけで優に学会の研究材料とするに充分である。それには不取敢(とりあえず)姉を帝国大学に提供して見るのが順当であろう・・・そう思いまして、東京の井上圓了博士などとも相談の上、其手続きを執ろうとしたのでしたが、事情ありてその計画も亦実行されずに過ぎて了いました。長南氏は語りつゞけました。・・・         .『私の姉というのは、前に申上げました通り至って無邪気な、まるで赤児のようなもので、何とでも他の言いなり次第になります。所が斯んな霊覚者の周囲には、一方に正直な善人も集まりますが、他方には又物の道理の判らない、頑固な有り難連中やら、神をダシに使おうとする宗教策士達やらが兎角集まつて来たがるもので、それ等は研究とか実験とかいう事には常に極力不賛成を唱へます。姉の場合に於ても矢張りさうで、取巻連が無邪気な姉を動かして、什うしても東京へ出ることを承諾しないのには弱りました。『で、私はがつかりして一旦大阪へ引返しましたが、姉の不思議な身体を学問研究の対象としたいという念慮は抑へんとして抑うるに由なく、何とかして素志を貫徹しようと脳漿を絞つた結果、とうとう私は伊勢神宮を口實に一と先姉を大阪に呼び寄せ、その上で京都大学に連れ込む計劃を樹てました。『この計劃は私の思ふ壷に嵌りました。姉も伊勢参宮は年来の希望でありますし、叉周囲のものどもも之に封して不服な唱ふべき理由を発見しません。とうとう明治三十三年の春、姉は山形を立ち出で梅田の停車場へ姿を現はしたのですが、姉を取巻いて居る三四の頑固連はどうしてに其身辺をを離れず、御苦労にも大阪まで踉(つ)いて来たのには驚きました。『兎も角も、首尾よく大阪へ出て来るには来ましたが、姉がまだ到着せぬ先から、不忠議な神女が来るという風評が私の友人からその友人の、その又友人にも伝わるという有様、私の空堀町の住居は、忽ち病気直しを頼む人やら、伺ひを立てる人やらで、朝から晩まで雑踏するやうになって了ひました。斯うなりましてはなかなか予定通り京都大学へ連れて行く隙とてもムいませんでした。イヤ何うもむ心霊方面の仕事となると騒ぎが大きくなり勝ちで困つたものです・・・・。』

     六 霊水忽ち壜中に湧く

 長南氏は息をもつかず談話を続けました。--『当時空堀町の私の寓居は二階建で、階上には両便所も付属して居ました。私はこの二階を姉の居室と定め、第一にその両便所を密封して了いました。姉が翌年帰国するまで一年有余の間、両便所がそつくり密封のまゝ残ったの申すまでもムいません。そして病気の治療其他姉に関する一切の什事は皆この二隋で執行されました。『私は姉が什麻(どんな)ことをしてをして病気を治すか、一通り其実況を述べて置きたいと思います。先ず驚かれるのは其感応の強烈なことで、患者が玄関に入つたか入らぬ時にモー二階の姉の肉体に当人の病気ば感応するのです。その際姉に病気治療を頼む人々は薬瓶なり、ビー瓶なり各自思い思いに空壜を携えて来るのですが、姉はこの空壜を十本でも二十本でも一つに固めて御三方の上に載せて神前に供へます。無論壜には栓を施したまゝで、一々依頼者の姓名が書きつけてあります。『姉が神前に跪坐して祈願する時間は通例十分問内外です。すると右の密閉されたる十本なり二十本なりの壜の中にパツーと霊水が同時同刻にに一ぱいになる--それが赤いのやら、青いのやら、黄いのやら、樺色なのやら、疾病に應じてそれぞれ色合ひが違います。イヤ実況を見て居りますと、まるで手品のやうで.ただただ不思議で感歎するより外に致し方がムいません。一通り貴下方にも其實況をお目に掛けたいものでした……。』『全く残念なことをしました』と、私は答へました。『ブラバツキイ夫人などの記録を読むと、それに類似の奇跡的事実がいろいろ書いてありますが、不幸にしてまだ一度も賓地を目撃したことがムいません。-それはそうと其神授の霊水は病気にはよく効きましたか?』『イヤその効験と言ったら誠に願著なもので、什麻(どんな)病気でもズンズン治りました。・・・尤も神から不治と鑑定された人、又試しに一つ行らして見ようなどとした者の壜には霊水が授からないのは不思議でした。十本か二十本の中には斯様なのが一本位は混じるやうでした。斯んな塩梅で、壜の敷は何本までという制限はなかつたやうに思はれますが、私の知つて居る所では、一時に空壜がズラリ四十本ほどお三方の上に並んだのがレコードでムいました。あの調子で考へると百本でも二百本でも一時にぱっと霊水か入つたらうと思われます。『兎に角この通りの騒ぎすから、約束の伊勢参宮だけは済ませましたが、なかなか以て京都大学に連れて行く遑(いとま)がムいません。こりや手取早く寧ろ一應此事實を新聞紙に掲載さした方がよいかも知れぬと私は思いました。幸い当時大阪朝日の社会部長を勤めて居る渡邊霞亭君とは懇意であるから、此人に依んで実験に立会って貰い、正確な記事を書いて貰はうと思いまして、私は自身新聞社に出頭し同氏に面會してその快諾を得たのでした。然るに実験の当日に至りまして霞亭氏に差支が出で、代理として角田浩々歌客及び他に一名の記者が大潮社から特派されました。『當日の光景は尚おはつきいりと私の眼底に残って居ります。御神前-といっても床の間に天照大御神のお掛軸が掛かって居る丈の簡単なものですが、其処には御三方に載せた約二十本の空壜が供えてあり、姉は其前に拝跪して頻りに祈願を籠めて居る。次ぎの問には前記二名の新聞記者を始めとし、十数名の友人知己が様子やいかにと眸を凝らして居る。・・・・・と、約十分の時刻が経過した思わるゝ途端に、今迄三方の上に並列してあつた不景気きわまる空壜が、さっと虹でも現われたように、千紫万紅とりどりの麗しい色彩に急変しました。各種の霊水か壜中に充満したのであります。・・・この実験の模様は当時の大朝紙上に数日続き物として連載されましたから、関西の読者の中には記憶されて居る方が少くないと存じます。尤も例の新聞記者の常として自分の腑に落ちない事があると出鱈日な憶説やら、藪から棒式の邪推を振り廻すのが常で、大朝の記事にも随分下らぬ個所が多いやうでしたり何んでも胃袋の中にゴム管を通して胃液か何んかを壜の中に入れるのだらうなどと書いてあつたやうに記憶します…。』『そいつは随分滑稽ですな。當時の大朝のお持合はせはムいませんか?』『生憎紛失して了ひました。たしか三十三年の八月頃と記憶しますから、何処かでお捜しを願います。--所で、右の大朝の記事が原因で、大坂に於て叉々姉の身遍に裁判沙汰が持ち上り、飛んだ大騒ぎをやりました。あんな無邪気な姉が一生に三度までも訴訟問題に引掛つたのですから驚きます。尤も其お蔭で心霊現象に対する証拠物件が豊富となり、今日貴下方が姉の記事を作成されるには何れ丈便利だか知れません。一面から見れば私どもは貴下方の心霊研究の為に二十幾年も前からせつせと材料を募集して居たと観れば観られぬこごもムいませんな。イヤドーも御苦労な話でハゝゝゝ・・・・・。』『イヤ全く其局に当たった方々の御苦労はお察し致します。-時にその裁判沙汰というのは什座して起こったのでムいますか?』

    七 大阪に於ける拘留沙汰

『それは斯うです』と長南さんは物語りを続けました。『大朝の記事が出てからたしか三日目位でした、私の寓居は突然多数の警官に包囲され、家宅捜査を執行されたのでした。折から私は外出中でしたが、家人の談によると、それはなかなか厳密な大捜査で、何か薬品様のものを隠して居はせぬかと言って床下までも捜したさうです。--無論いくら捜索されたとて薬品などの有らう筈がありませんから、警官隊は手を空しうしてスゴスゴと引き上けたのでありますが、即夜姉を呼び出して拘留十日に処分しました。『縦令(たとえ)五日でも十日でも人を拘留処分に附するには、それ相当の理由がなければならぬ筈です。所が私の姉の場合にはいかなる理由があるのか更に私には判らない。姉は何処までも従順で、拘留すると云へば甘んじて拘留され、監禁するといえば歓んで監禁される性質の婦女でしたが、苟も其監督者の地位に立てる私としてはそうは参りません。遂に私は右の言渡しを不當として正式の裁判を仰ぎ控訴上告にまで及んだのでした。『私が一方に於て斯く訴訟問題に気を揉んで居るにも係らず、御當人は至極暢気なもので.八月下旬従者数名を引具し、富士登山にに出掛けて了いました。そしてそのまゝ山上に籠もり、九月、十月、十一月と幾度び月が変わっても下山しないのには弱りました。神霊の守護を受けて居る以上、其身体についての心配ほ殆んど無いとしても、裁判の問題は本人なしには進行させる訳に参りません。正式裁判を仰ぎ乍ら、延期又延期では、私の名誉上の問題でもありますから、屡々人を富士山に派し、いろいろ手を尽くした上で、十一月の下旬に至り、ヤツとの事で姉を大阪まで連れ戻ることが能き、それで私もほつと安心したやうな次第でした。』

     八 法廷に於ける霊水湧出

 話題が裁判問題に入るに及び、長南氏の談話にはいよいよ熱度が加はりました。同氏は語りつづけました。- 『裁判問題は、右の様な次第で大変手間どれましたが、其問に大阪控訴院に於ける控訴上告は破棄されまして、神戸地方裁判所で再審理を受ける事になりました。當時この事件に関係した判検事をはじめ、弁護士に至るまで今でも殆んど全部行方が判って居るのは、資料の権威を加へる点につき甚だ好耶合であります。此事件の裁判長は中野という判事で、私が現在どうなったか存じませんのはこの方だけです。陪席判事は岸本さんで現在は大阪で弁護士を開業して居られます。 又検事の高木さんも矢張り只今老松町で弁護士、それから私の方で依頼した弁護士が、御承知の横山鑛太郎氏・・・・現在では東京控訴院の検事部長を勤めて居られます。お閑かお在りなら一応此等の関係者に就きて當時の実情の調査をなされたら又何等かの新材料が手に入らねものでもなく、又私の談話の裏書ともなる訳です。是非機会を見てさうなさる事を希望教します。 『さていよいよ十二月十二日を以て神戸地方裁判所に於ける公判の開廷という段取に進みました。爰で法廷の模様を一々述べる必要はムいますまい。裁判長、陪席判事、立会いの検事をばじめ、弁護士、被告等すべて型の如く座席を占め、型の如き訊問が一と通り済みました。やがて中野裁判長から、被告はこの法廷に於ても霊水を出すことが能(でき)るかとの質問でした。姉は平気で、それはお易いことでムいますが、ただ一寸身を隠す場所を貸して戴きたいと答へました。そこでいよいよ適当の場所に於て実験執行ろいうこのになり、一旦公判廷は閉ぢられました。 『裁判官達は其実験の場所につきて暫時合議を遂げた上で、結局弁護士詰所をそれに宛てる事にきめました。御承知かも知りませんが、当時神戸の裁判所は新築中で、弁護士詰所の加きは、やっと電話室か出来上つたばかりで、電話の取附はまだしてありませんでした。この電話室を塵一つ留めぬまでに掃拭し、姉を其中に入れることになつたのであります。『いよいよ実験となると、姉は裸体にされ、着衣その他につきて厳重なる検査を施行されたことは申す迄もありません。そして裁判長自から封印せる二合入りの空壜一本を手づから姉に渡し、係の判検事は申す迄もなく、弁護土やら官史やら多数環視の裡に、姉は静かに右の電話室に入って行つたのであります。『姉が電話室に入ると同時に、私は携帯の時計を取り出して時間を計りました。すると正に二分時を経過せる時に、電話室の内部からコツコツと合図が聞こえます。そして扉が開かれて立ち出でたる姉の片手には、茶褐色の水を以て充たされたる二合壜が元の通り密栓封印のまゝで、携へられて居たのであります。『公判廷は再び開任せられ、茶褐色の水の充ちたる二合壜は判官の机上に安置されました。裁判長と被告との問には次の如き奇問奇答が交換されました。問「この水は何病に利くのか」答「万病に利きます。特に何病に利くと薬と神様にお願いした訳でムりませぬから・・・・」問「この薬は貰って置いて宜しいか」答「宜しうムります」 此(かく)の如くにして訊問は終り、即無罪の宣告が下りました。』

     九 大阪毎日新聞の記事

 長南氏の談話は前後約二時間に亘り、右に揚げた外にも珍談奇聞が数々ありましたが以上で長南年恵女の奇蹟的半生の一班は窺われると考えますから、一と先づこの辺で打ち切りと致し、余は補遺的に略述して此一篇を終わるこに致します。 爰で先づ有力なる証拠物件として掲げて置きたいのは、神戸地方裁判所に於ける公判廷の状況を記載せる明治三十三年十二月十四日の『大阪毎日新聞』の記事であります。急忙の際に成れる新開記事の通弊として事実の錯誤が可なり沢山あります。実際は二分問であつた電話室内の時間を五分としてあるのは些事乍ら誤りです。又実験後再び公判延を開いて無罪を宣告した事実を顛倒(てんとう)し、無罪放免の後、弁護士連が好奇心から試験を行ったように書いてあるのは甚だしき誤謬です。が、此記事-他の新聞記事も多くはさうですが・・に於て尤も苦々しいのは記者の態度のいかにも軽佻浮薄、何等の真剣味をも有って居ないことであります。どうせ新聞記者諸君が、専門の心霊学者ではないのですから、誰しも之に対して余り多くを求めはしませぬが、知らないなら知らないやう、判らないなら判らないやう、何とか然るべき書き方がありさうなものです。ところが多くは兎角歯の浮くやうなキザな筆致を弄するのは、余り讃めたヤリロではないかと存じます。この大毎の記事なども、或る意味に於ては心霊現象に対する日本の新聞紙の三面記事の代表的傑作?と称してよいかと存じます。 ●女生神の試験 自から神変不可思議光如来を気取る、例の女生神長南年恵も、末世なればにや、情なくも獄卒の手にかゝり、曩に大阪区裁判所にて拘留十日の処分なりしを不服とし、所々上告し廻りし結果、大阪控訴院の宜告により神戸地方裁判所に移され、一昨日裁判長中野岩栄、陪審判事野田文一郎、岸本市太郎、検事高木蔵吉、弁護士横山鉱太郎諸氏にてその公判を開きしが、詰り証拠不充分なりとて無罪放免の身となれり。これに就て弁護士詰所に居合せたる弁護士連が兎に角彼が神授と称する神水こそ世に不思議の限りなれば、試験を行うこそよけれと、本人に申込たるに、それこそ望む祈なりと、容易に承知したるにぞ、先づ同詰所の電話室を仮の試験所に充て、本人の衣服身体を充分に改めしは更なり、電話室をも塵一本だに残らざる様掃除せし上、イザとて生神に小瓶を持たせたるまゝその中に閉込めしに、中にて何やらん呪文の如きを念唱する気合いありしが、僅かに五分問にして裡の戸をコトコト叩きつゝ出で来るを見れば、不思議や携へたる小瓶の中には濃黄色を帯びたる肉桂水の如きを一杯に盛りつゝ静々として顕れ出でたり、生神のいう所によれば、たゞに一本の瓶のみならず幾十本たりとも三方の上に載せ、祈念一唱すれば、その瓶の主なる病人の病症に応じたる神水を天より賜わるなりと厳かに語りたり。その眞偽は暫く惜き、本人の身体及び室内をも眼前あらためしに、五分間を待たずして神水を盛りつゝ顕れ出るは兎に角不思議なり。或は口中より吐きたるならんというものあれど、その液体は色こそ少しく茶色を帯びたれ、透明液にして口中より吐きたるものとは認め難く、さりとて神授なんど世にあるべしとも思われねば、更に確かむるこそよけれとて、弁護士中の好事家は、日を期し、更にその真相を探り極めんと、用意さらさら怠りなしと聞く。(大阪毎日新聞、明治三十三年十二月十四日第七頁)

    十 其の晩年そ逸話

 神戸で無罪の宣告を受けはしましたが、重ね重ねの裁判沙汰は余程無邪気な年恵女の精神に癒すべからず瘡痍(そうい)を蒙らせたようです。『大阪などに居るのは厭だ』・・そう言つては彼女は翌三十四年にさつさと郷里の鶴岡に帰って了いました。従って京都大学に依んで実験させようとした長南氏は、止むなく従来の計画を放棄し、郷里の信徒達の望みに任せて惟神大道教会と称する一の教会を設立しやり、叔父の某をして其守をさせて置くことになりました。さうする中に明治三十八年に至り、老母が死んで可燐な年恵女はいよいよ心細い身の上となりました。その際帰国した長南氏は、モ一度是非大阪へ来るがよいと姉にすすめ、当人はその気になつたのでしたが、不相変その時も身辺の頑固連やら策士連やらに阻止されて、とうとう其決心を実行するに至らなかったのでした。 明治四十年の十一月長南氏が朝鮮に行つて不在中、年恵女は郷里で急に歿しました。死期に先立つ二た月ばかり前から、年恵女に憑れる神は『お前は近い中あの世に連れて行く』と時々囁くいたさうです。で、親戚の相田良孝という人が大変心配して-長南氏に急いで帰国して呉れと言って来たのでしたが、長南氏は何うしても手離し難い用事の為めに、心ならずも朝鮮に出張し、その為に姉の臨終にも逢われなかったということです。 年恵女の没後、親戚やら信徒やらが集まりて郷里の邸内の一のさゝやかなるお宮を建て、此無垢の女性の霊を祀り、今でも参拝者の影は耐えぬということです。 年恵女の神懸かりに関する実話・・・例えば日清戦争中の預言、社会に対する予告、紛失物の捜索、病気の治療等・・・に関しては、到底爰に其全部を紹介するの余地がありませぬ。それ等の記録は後日之を整頓することとし、最後に六月二十八日附で長南氏から私の許に報告された左記書簡の一部を紹介して一先ず擱筆することに致します。 『・・・・姉の奇跡的な事実に至りては数限りも無之候えども、不取敢左に二三む摘出して御参考に供し候。 一、明治三十二年二月小生帰郷中、在る夜午後九時頃本人が突然影を失い、家の中の何所を捜しても見当りません。当時雪は三尺以上も積り居り、若し外出したとすれば足跡がある筈だと、信者共が半ばは心配、半ばほ好奇心で、夜の更くるも知らず話し合つて居りりました。すると午前三時頃に至り、掾側にドシンと奇異の物音がしましたので、一同駈けつけて見なすと、姉が四方囲いした掾側・・雪國では皆囲いします・・・に立って居て、おゝ寒い寒い神様が妙な山へ連れて行ったものだから、中々寒かった、と言い乍ら座敷へ入って来ました。乃で吾々は念の為めに足跡の有無を査べて見ましたが、それらしい痕跡は露ほども見当たりませんでした。二、神懸かりのなき際は、姉は十四五歳の子供の如き遊戯を好み、例えば綱引きをするとか腕相撲を試るとか、重い物の持ち競をするとか、そんな事ばかりして笑い興じて居るのでした。綱引きとか手拭い引きとかの場合に、大の男が真剣になって三四人で掛かっても姉の怪力には及びませんでした。たゞ不思議なことに人が姉の背後に廻ると、その怪力は忽ち消失するのでした。三、姉はよく登山をしました。富士登山の際の如き、自分で蒲団を背負い、一行の先頭に立って飛ぶが如くに進み、同行の七八人は弱ったという話しです。私が同行したのは、羽後の鳥海山と羽前の金峰山のみですが、いつもその健脚には驚かされました。途中姉は地上に平伏することがありましたが、そんな際には空中に必ず笛其他の楽聲を耳にしました・・・・・・・・・。』  以上で付録長南年恵物語を含んだ続幽魂問答は終わりです。科学的に判断できなくて、困る問題もその裏面は色々と思われますが、少なくとも、霊的と考えられる場合の判断の基礎として、この様な事実をそのまま記録されたものは、判断の基準として、また研究資料として第一級だと考えます。内外の批判を物ともせず事実として、残して頂いた浅野和三郎先生始め先達に感謝です。

なお、長南年恵霊堂のある南岳寺(なんがくじ)の所在地等は下記の通りです。
所在地 : 山形県鶴岡市砂田町3-6
電話  : 0235-23-5054
交通  : 鶴岡駅から温海温泉方面バス10分
時間  : 午前9時~午後6時


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:旅行

続幽魂問答(2) [旅人]

                              続
                      幽 魂 問 答
                      長南年恵 物語
                                           浅野和三郎著
                                           心霊科学研究会


     六 黄金十一枚

 今迄宮崎氏は泉氏が生前通過したと称する博多付近の地理に就きて根掘り葉堀り問いたゞして居りましたが、爰に至りて話題を転じて、一層肝腎な所持品の問題に移りました。
宮崎。御切腹の砌(みぎり)御所持の品は大小ばかりにて、外には何物 もなかりしか。
幽魂。一枚の莫莝ありしが、外にはさしたるものなかりし。
山本。旅中の用金等も定めて有りしなるべし。
 かく言はれて幽魂は暫く考へて居ましたが-
幽魂。イヤさしたる物もありませなんだ・・・。
 さうは答へましたが、何やら意味ありげに見えました。
宮崎。前の御話によりて、御切腹の時に所持されし御刀は拙者方の所蔵 なる事は知れたるが、御指添は今何所にありや。それとも早く錆び腐 りたるにや。
幽魂。され死後現界の事はなかなか明かに知り難きものにて、ただ魂を 凝らしし、事のみ知らるゝものなるは、既に述べたる所の如し。今貴 家に伝わる御剣は、われ父母の教訓を破り、私かに取り出でて旅中に 帶したるものにて、父だに家に遺し置きたる程の大切なる一振りなれ ば、申すまでなく余は絶えず之に心を注ぎたり。
 尤も切腹の際はホンの暫時の間打忘れて居たりしも、霊魂となりては益々其刀慕わしく、 余は幽界より其所在をつきとめ置きたり。貴所の所有となる前には、此所より南に当た る、島の如き山の尾に一叢ある家の内の一軒に所蔵されたり。指添の方は高金のものな れど、わが為にはさしたるものにあらざれば、露ほども心に係りませなんだ。されば今 何処にあるかもしれませぬ。
山本。旅中の手荷物、又路用の金子なきも少しは所持されしならむ。
 と側から更に問いつめに係りました。
吉富。旅宿もあり、渡しもあれば、路用の金子も無くては叶はぬ筈なり。
宮崎。只今両人の申す如く、金子なごも定めて所持せられしならむ。
幽魂。それは申したむなき旨もムる。
山本。霊魂となりては金子の事は卑しきものと思われて、然か云わるゝや。
幽魂。左楼の次第ではムらぬ。
宮崎。所持された金子の員数は覚え居らるゝや。
幽魂。國を出る時黄金十一枚所持せしが、六年の内に半ば使いて、切腹 の時半額は所持し居たり。
 かく述べて険しい眼光(まなざし)しで家の中を見まはしましたが、 再び思いかえした様に「あゝ惑えり」と言つて、元の穏かな顔になつ て言葉をつづけました。
幽魂。すでにかく吾を神霊として祀り下さる上は、仮令(たとい)以前 われに対して無法の所為ありとて、今更何を怨みとせむ。過ぎつる事 を繰りかへすは武士たるものゝ為すまじき業なり。大刀だに貴家に伝 えへ下らば、われに取りてこの上の悦びはなし。又当家の者も、吾を 神として、怠らす祭りくれなば、つとめて家運守護の任に当たるべし。
吉富。貴殿すでに神霊となられし上は、何事にても祈願の旨をきゝ届け くださるや。
幽魂。イヤ衆民が丹精を凝らしての祈願を成就せしめ玉ふは朝廷より重 く御祭祀あらせらるゝ神々の成就せしめ玉う所にして、我等如き凡霊 の與(あづか)るべき事にあらず。四時の順逆、五穀の成熟、万民の安 楽等の大事の成就するには、量り難き深淵なる道理のあるものにて、 世に吉事(よごと)と凶事(まがごと)とのある条理は、今御達に述 べたりとて耳には得入らざるべし。されば今後若し我に向つて祈願を さゝぐる者あらば、必らず差し止めてくだされよ。今迄故ありて当家 に祟りたる罪深き身の、神と祀られしばかりに、その報いとして当家 を守護するまでの拙き霊なれば、広く世の人を救わんとことなどは思 いも寄らず。

     七 幽魂の揮毫
宮崎。其許が切腹せられし年号は深く包まるゝに由り重ねて尋ねまじき が、御存生の時の帝都は大和か山城か、将(は)た近江なりしか。
幽魂。すでに山城に定りての後なり。延暦よりは遙かに後綾なり。
吉富。家康公治世の後か?
幽魂。家康公?その様な事はまだきゝ申さず。
吉富。頼朗公前後か?
幽魂。それ等は答へませぬ。前にも約束せし通り年号と君父の上は語れ ませぬ。
宮崎。先日其許の揮毫拝見するに、なかなかの名筆でムる。然るにその 時の書はたゞ姓名のみにて人に見せるに適せねば、別に人にも見せて よき字を五字にても三字にても書き残し玉われよ。是非にゝ。
 かく云う間にも傳四郎は墨を擦りて揮毫の用意をしました。すると大工の所から、霊魂の鎮まるべき霊璽の箱が出来たれば検査して貰いたいとの通知があしましたので、山本神職が大工の許へ出張し、其後で、宮崎氏がしきりに揮毫を迫ったでした。しかし霊魂はなかなか承諾を輿へようとはしませんでした。
幽魂。霊魂が、何の必要ありて筆跡を顕櫛界に遺すべきぞ。をかしくも 面白くもなき事なれば、そ儀は平にお断り申すなり。先月は書かねば 疑惑を解き難き為め、止むを得ず書きもしたれ、今更それを望まるゝ は飴りに物ずきに候はずや。
 老巧の士吉富医師が傍から加勢に出ました。
吉富。イヤ共許の御剣が久我揃なる宮崎家に伝わり、その剣にて加持を 受けられしさへあるに、今叉その人より神号をも授けらるゝとは、よ くよく探き幽緑のあればなるベし。されば是非一字なりと筆を染めら れよ。それこそ宮崎家にとりて、こよなき記念物なるべし。
宮崎。枉(ま)げて『剣』一字なりと書き玉へ。その他何事にても、御 心のまゝ筆を染められよ。
幽魂。イヤ強い理責めぢゃ。さらば是非に及ばず。一字なりと書き遺す ことに致すでムらう。
 さう言つて彼は筆を執りて、その尖を熟視しましたが、少しく毫(け) の脱け出でたるを発見して指で摘み取りて紙に移しました。それから
指を拭い姿勢を正しくして『楽』の一字を書きました。折から山本神職は大工の所から帰り、此書を見て感歎しました。
  山本。さてもさても見事でムる。まだ墨痕の乾かざる四五百年前の古筆を拝覧するとは、世にも稀れなる事柄でムる。
 と言えば居合わせた他の人々も『成程その通りでムる』と口々に囃しし立てたのでした。その書は今も宮崎家に秘蔵されてあるさうです。
                      
    八 蹄幽後の状況
山本。さて先刻の霊璽の箱もいよいよ出来したれば、それがし海水にて 浄め置きたり。追々に遷り玉へ。
幽魂。その儀はまことに御苦労に存ずる。一御法通り、万端の準備出来 たる上は、印刻遷り申すべし。
宮崎。しばらく待たれよ、承り落とせることあり。すべて人霊帰幽すれ ば、多くの霊一所に集まり、一塊となりて萬代同様に残るものか、そ れともそれぞれ別の形を備へて居るものか。又其形はいかなる形か。
幽魂。先月も申しゝ如く、幽界の秘事を白地に顕世の人に漏らし難き事 情あり。問われて益なく又語りても耳に入るべきにあらす。耳に入ら ぬことは却て疑いの心を誘いて、害となるべし。
宮崎。予は幽事を疑ふ者の疑念を解かんか為めに質問は仕らず。たゞ天 地の眞理を知るの一助にもと思ふばかりなり。縦令耳に入らぬまでも 一應誨へ玉へ。
幽魂。さらば一通り語り申すべし。尋常に帰幽したる同気の者に限りて 一所に集まり居れど、そわたゞ居所が同一というまでにて、多くの人 々の霊が一つに成るにはあらず。各人皆別々なり。尤も志の同じき者 は、幾人にても集合して一つになることあれど、そは一時の事にて、 萬代までも一つになるにはあらず。要は離合自在というまでなり。又 霊魂の形は、顕世の人の若き時と老いたる時とに変わりあるが如く、 折にふれて少しづつ、変わることもあり。されど此理は今述べ難し。 又現世にありし時、忠孝その外の善事を努め、誠実に心を尽くし乍ら 其誉れ世に現れずして帰幽したるものは、幽界にて賞与を受け、其霊 魂は太く、徳高くなり、又顕世に功績ありて、その功績だけの賞与を を顕世にて受けたる者は、幽界にて人並の取扱いを受くるに過ぎず。 又帰幽後新たに功を立てゝ高く貴くなる霊もあれば、現世にて善人なりしものが、帰幽後怒に駆られて其地位の引き下げらるゝもあり。総じて生前死後ともに、これで安定ということはなき也。又人の霊魂中には主宰の神の御計らいにて再び人世に生まれかわるもあり。それ等の事は、永く幽界に居れば次第々々に解るなれど、われ等の如き霊魂が幽界の事情に就きて知り得る範囲は極めて僅かなり。之を要するに顕幽ともに大本の道理は一つなれど、事物の上に現るゝ趣きは大に異なるものにて、幽に在りては容易に顕の事を知り難く、又顕より幽の事理は容易に辨へ難し。現世の諸宗門又儒道などが、兎や角幽界の事を説けど、そは真実と思うは惑いなり。


    九 霊遷しの式
 この時作次郎霊璽を収むべき白木の箱持来り、又杜氏は海水で浄めた 注連(しめ)を運び入れ、何れも机上に並べました。幽魂の物語りはまだ尽きませぬが、夜半も余程過ぎましたので、いよいよ霊遷しの式を執行することに衆議一決しました。
宮崎。御箱も出来、その外の用意も調いたれは霊遷しの式法に取りかゝ るでムらう。
山本神職は三方に神酒や神饌を載せて恭しく運び入れますと、病人の市治郎は忽ち威儀を正し三尺ばかりしざりて一礼しました。病人の左右には宮崎、山本の両氏が祭服をつけて座に着き三四十人の人々は程よき所に陣取りました。
幽魂。さてさて時を得て願望悉く成就し、此上の悦ばしさはムらぬ…。
 病人は机上に安置されたる霊璽の前に拝伏し、涙を流し乍ら箱の内部を熟視してしみじみとした調子でかく述べるのでした。
宮崎。尚お御心に残ることあらば、何事にて申置かれよ。兎も角も計ら い申さむ。
幽魂。イヤ別に心残しの儀もムらぬ・・・。
作治郎。今後当家に凶事の兆(しるし)もあらば、必らず誨(おし)え 下されよ。
幽魂。当家に代々不具者の生れたるは、わが怒りに触れての事なれば、 今後はさる類の事は決してなかるべし。その外些末(いささか)の不 浄災厄は免れぬかも知れねど、そは世の常の事なれば、深く思い煩う にも及ばじ。尚お以後この家に変事もあらば、我力の及ぶ限りは必ず 守護に当たるものと心得られよ。
傳四郎。毎年七月四日には宮崎、山本御両人の御苦労を願い、一家近縁 の者共を集めて貴殿の祭祀を営むことに致したし。
幽魂。そは願うてもなき儀、何分御法の通りに依み入る。さて更めて申 すまでもなけれど、わが霊魂の鎮まる場所設定の件、何卒世問に包み、 別して公邊の御厄介にならぬやう取計らひ下さるべし。
 さう言つて拝伏したまゝしばらく頭を上げませんでした。乃で燈火を 消して霊遷り重遽りの式を終り、柏手を打つと同時に病人の躰が左の 方に静かに転ぶ音がしました。再び微かに点燈し、箱の釘を緊(し) めさせてから式の通り送り出し、仮に設けたる場所にそれを鎮めまし た。

    十 後  記

 これで幽魂問答はいよいよ終結であります。
 翌十三日になりて病人を見ると、全く元の通りの平々凡々の市治郎に 復(かえ)つて了ひました。彼は宮崎氏に向ひ.苦しげに次ぎのやう な事を述べました。
『先月来私の病気は追々平癒に赴き、悦んで居りましたところ、一昨日 から又々私の知らぬ間に例の武士の幽魂が取り憑いたさうで、今は手 も足も痛んで耐り兼ねます。』
 余程痛いと見えして、彼は顔をしかめ乍ら語るのでした。
「一体人も多いのに、何故私のことばかり斯く苦しい目に達はせるのでムりましょう。貴下がたは彼を神に祭ると申されたそうにムりますが、私には左様のは毛頭もムりませぬ。寧ろこの躰が癒(なお)り次第彼様ものゝ墓を発(あば)きて恥をかゝせてやりたい位でムります・・・。」 そう言って、歯がみしりをして口惜しがりましたが、一応尤もな点もないではありませんでした。
 十三日の昼頃迄には諸事皆形づきましたので、宮崎氏は七ツ前に帰宅してそれより問答の手控えを取出し、原稿の整理に着手しましたか、翌くる十四日には又使者が来て、病人甚だ痛み強く且つ昨日以来余りに腹を立て過ぎたので疲労甚だしく危き由を告げますので、宮崎氏は久我浦の医師濱地玄央という人と共に妓岐志浦に赴きました。
 岡崎家には例の三木、吉富の両医師が己に病人の側につめて居りまし た。両人口を揃へて
『憑物は最早居りますまいが、いかにも大病でムるから、今一応平癒の 御加持をして戴きとうムる。」際平癒の御加持をして戴きたうム
と申しますので、宮崎氏は早速加持を行ひましたが、別に怪しき事もなく、たゞ病勢がますます募り、危篤に陥るのみでした。
 十四日以後十九日項迄の病状並に其間に起れる出来事は医師吉富養貞 氏の記録が要領を得て居りますから、これをそのまゝ左に掲げます。『爰一両日は病人の痛み殊に強し。よりて櫻井の医師美和鶏麿をも招ぎ て五六輩の医家種々に心を尽くせどもその験なし。十七日の夜には看病人も皆疲れて、前後不覚に眠り、病人の市治郎独りつくねんとして心細きこと限りなく、何れこの度の病気はとても癒るまじと観念し、腸を絞りてありたるに、不図そのまゝ眠気づき、ウトウトとなりし暗、何処よりとなく、いとすゞやかなる声にて、市治郎起きよ起きよという声聞ゆ。誰なるか、と思いて臥ねたるま、後方を見れば、年齢二十歳余りにて色白く、髪は総髪にて眼光鋭く、身には黒羽二重の袷ようのものを一枚着してる人品卑しからざるぬ一人の武士佇み居たり。市治郎別に怪しとも思わず、其許は何人にやと問うに、頭を打ち振りて返事はなし。依りて市治郎は床の上に起き上り、右の武士に向ひて坐れば、月一ぱいなるぞとの言葉なり。やがて件の武士は市治郎か背後にまわり、乱れたる市治郎の髪を掻き上げ、頭から肩先き、それから腰までも段々に揉み和げつゝ撫でて呉れる心地よさ、総身自づと汗ばみて、ツイうつらうつらとする程に、又も起きよと言う。眼を開きて見れば、其人行灯の火にて莨を吸み居りしが、つと立ちて、此度は前の方に廻りて胸より腹、それから両腋下(わきした)までも撫で和ぐることや、久しく、市治郎いよいよ心地よきまま、不出その人の背後を見るに、其所には①の形の紋所附き居たり。其人、長らくの間汝を悩ましたるは甚だ気の毒なり。されどこれにて身体は次第に本復すべしと、述べると同時に忽ち煙の如く消え失せたり。こゝに市治郎初めて今見し姿が人間にてはなかりし事を悟り、余りに恐ろしくありしかば、妻を喚び起こして薬を温めさせて飲みたる頃、夜ははほのぼのと明け亘りぬ。翌十八日の朝市治郎は父傳四郎、医師吉富養貞を呼び手夜中に起こり氏事を具さに語る。其朝より心地甚だ穏やかなり。同人は頭痛が持病にて八月以来これのみは止まざりしに、今朝は洗い上げたるように気分宜しいという。養貞脈を診るに、病殆んど平癒し居れり。九月十九日。吉富養貞』
 其後市治郎の病勢ほ日を追いて軽快に赴き、九月二十九日頓には平常じ復し、十月一日には産土神に参籠し、同四日には下僕一人を召し連れて宮崎氏の所へお礼にまいりました。其時宮崎氏はかの『楽』の字の書を取り出して市治郎に見せますと、市治郎は驚嘆し『一昨日は父の不在為めに私か礼状を写そうとしましたが、手が震えて字が書けませんでした。これは私の手を借りられたことゝは言ひ乍ら、さても見事に書かれたものでムる』と言うたのでした。
 その後岡崎家には何の凶事も起りませんでしたが、翌天保十一年正月霊前に元旦の供物を捧げることを失念したので、一寸気障りの事がありました。しかし後に改めてお祭りを行い、無事に治まったそうです。
  同年六月に至り、岡崎家では石工に命じて高さ二尺二寸の石碑を造らしめ、碑面には市治郎が見た紋所と『高峰天神』の四文字を刻し、尚お墓石の表には吉富医師の書いた年号と銘とを刻みつけました。又裏面には幽魂の自筆にかゝる『七月四日』を刻し、全部落成したのは同年七月四日でありました。
不思議な事には泉熊太郎の幽魂の予言は悉く皆的中し、七年の内に傳四郎は下浦の大庄屋役、又市治郎は浦庄屋役となり、家族が殖えて二十八人となつたさうであります。

                       (終わり)

 


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:旅行

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。