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長南年恵2 [心霊広場]

      霊水湧出と同時に無罪

   話題が裁判問題に入るにおよび、長南氏の談話にはいよいよ熱度
  が加わりました。そして同氏は語りつづける。――
   「裁判問題は、右の様な次第で大変手間がとれましたが、其間に
  大阪控訴院においての控訴上告は破棄されまして、神戸地方裁判所
  で再審査を受けることになりました。当時この事件に関係した判検
  事をはじめ、弁護士に至るまで、今でもほとんど全部行方がわかっ
  ているのは、資料の権威を加える点につき甚だ好都合であります。
  この事件の裁判長は中野という判事で、私が現在どうなったか存じ
  ませすのはこの方だけです。陪席判事は岸本さんで現在は大阪で弁
  護士を開業しておられます。又検事の高木さんも矢張り只今老松町
  で辨護土、それから私のほうで依頼した辨護士が、御承知の横山鉱
  太郎氏…・現在では東京控訴院の検事部長を勤めて居られます。お
  閑がお在りなら一応此等の関係者に就きて当時の実状の調査をなさ
  れたらまた何かの新材料が手に入らぬものでもなく、また私の談話
  の裏書ともなるわけです。是非機会を見てそうなさることを希望致
  します。


  〔編者註〕 この記事の資料は1 九年十一月当時のもの
   「さていよいよ十二月十二日をもって神戸地方裁判所において公
  判の開廷という段取りに進みました。ここ?。法廷の模様を一々述
  べる必要はございますまい。裁判長、陪席判事、立会の検事をけじ
  め辨護士、被告等すべて型の如き訊問が一通り済みました。やがて
  中野裁判長から「被告はこの法廷においても霊水を出すことができ
  るか」の質問でした。姉は平然と「それはお易いことでございます。
  が、ただちよっと身4 隠す場所を貸して戴きたい」と答えました。
  そこでいよいよ適当の場所に於て実験執行ということになり、一旦
  法廷は閉ぢられました。

  「裁判官はその実験の場所について暫時会議を遂げた上で、結局
  弁護士詰所が選定されることになりました。ご承知かも知りません
  が、当時神戸の裁判所は新築中で、弁護士詰所の如きも、やっと電
  話室が出来上ったばかりで、電話の取附はまだしてありませんでし
  た。この電話室を塵一つ留めぬまでに掃除し、姉をその中に入れる
  ことになったのであります。
  「いよいよ実験となると、姉は裸体にされ、着衣その他につき厳
  重なる検査を施行されたことは申すまでもありません。そして裁判
  長自ら封印した二合入りの空珊一を、手づから姉に渡し、係りの判
  検事は申す迄もなく、弁護士やら官吏やら多数環視の裡に、姉は静
  かに右の電話室にはいって行ったのであります。

  「姉が電話室に入ると同時に、私は携帯の時計を取り出して時間を
  計りました 0すると正に二分、時を経過した時、電話室の内から
  コツコツと合図が聞えます。そして、扉が開かれて立ちでた姉の片
  手には、茶褐色の水で以て充たされた二合壜が元の通り封印のまま
  で、携えられていたのであります。
  「公判廷は再び開廷せられ、茶褐色の水の充ちたる二合壜は判官の
  机上に置かれました。裁判長と被告との間には次ぎのような奇問奇
  答が交換されました。

  問「この水は何病に利くのか」
  答「万病に利きます。特に何病に利く薬と神様にお願いした訳では
    ございませぬから……」
  問「この薬を貰って置いて宜しいか」
  答「宜しうござります」

  このようにして訊問は終り、即刻無罪の宜告が下りました。
  「神戸の裁判所でこのように無罪の宜告を受けはしましたが、重ね
  重ねの裁判沙汰は無邪気な年恵女の精神に余程の苦悩を蒙らせたよ
  うです。「大阪などにいるのは厭だ!」1-そう言って、彼女は、
  翌年三十四年にさっさと郷里の鶴岡に帰ってしまいました。従って
  京都大学にたのんで実験させようとした最初`の計画はこの時にも
  実行されずに終っでしまいました。
  「それに彼女を学問研究の対象とするには彼の周囲の状況がまだ
  これを許すまでに進歩していないことも痛感しまして止むなく従来
  の志望を棄てて、郷里の信徒達の望みに任せて惟神大道教会と称す
  る一つの教会を設立してやり、叔父をその守りにさせて置くことに
  いたしました。そうする中に、明治三十八年になり、老母が死んで
  可燦な年恵女はいよいよ心細い身の上となりました。その時帰国し
  ましたので「もう一度ぜひ大阪へ来るがよい」とすすめ、当人もそ
  の気になってたのでしたが、あい変らず、その時も身辺の頑固連や
  ら策士連やらに阻止されて、とうとう其決心を実行するに至らなか
  ったのです。
   「明治四十年の十一月に社用で朝鮮に行ったその不在中に彼女は
  郷里で急に歿しました。しかし死期に先立つ二た月ばかり前から、
  彼に憑っている神様は「お前は近い中に、あの世に連れて行く」と
  時々ささやいたそうです。で親戚の相田良孝という人が大変心配し
  て、私に急いで帰国して呉れと言って来たのでしたが、当時何うし
  ても手離し難い用事の為めに、心ならずも朝鮮に出張し、その為め
  に姉の臨終にも逢い得なかったのです。」
  前後二時間にわたった長南雄吉氏の、年恵女に関しての談話はこれ
  で終るのであるが、外にも珍談の数々があるが省略することにする。

  かくて、年恵女の帰幽後、親戚やら信徒やらが集まり、郷里の邸
  内に一つのささやかなるお宮を建て、この無垢の女性の霊を祀った
  のである。今でも参拝者の影は絶えぬということである。
  なお、年恵息女の神懸りに関する実話‐--例えば、当時日露戦争
  の予言、社会に対する警告、紛失物の捜索、病気の治療等-に関し
  ては、到底ここにその全部を紹介するスペースのないことを遺感に
  恩うのであるが。その当時の六月二十八日附で長南氏から記者の許
  に心霊事実を報告された書簡の一部を左記に紹介してひとまず鯛筆
  することにする。

   「……姉の奇蹟的事実に至り萄ぽ数限りも無之候へども、不取敢
  左に二三を摘出して御参考に供し候。
  (1)明治三十三年二月小生帰郷中、或る夜、午後九時頃本人が突然
  影を失い、家の中の何所を捜しても見当りません。当時雪は三尺以
  上も積り居り、若し外出したとすれば足跡がある筈だと、信者共が
  半ばは心配、半ばは好奇心で、夜の更くるも知らず話し合って居り
  ました。すると午前三時頃に至り、縁側にドシンと奇異の物音がし
  ましたので、一同かけっけて見ますと、姉が四方囲いをした縁側
  -雪国では皆囲いをします-に立って居て、おお寒い寒い神様が
  妙な山へ連れて行ったものだから、中々側ヽかった、と言いながら
  座敷へはいってきました。そこで我々は念の為めに足跡の有無を査
  べて見ましたが、それらしい痕跡は露ほども見当りませんでした。
  (2)神懸りのなき際は、姉は十四五才の子供の如き遊戯を好み、例
  えば綱引きをするとか、腕相撲を試るとか、重い物の持ち競をする
  とか、そんな事ぽかりして笑い興じて居るのでした。綱引きとか手
  拭引きとかの場合に、大の男が真剣になって三四人で掛っても姉の
  怪力には及びませんでした。ただ不思議なことには、人が姉の背後
  に廻ると、その怪力は忽ち消失するのでした。
  (3)姉はよく登山をしました。富士登山の際の如き、自分で蒲団を
  背負い、一行の先頭に立って飛ぶが如くに進み、同行の七八入は弱
  ったという話です。私が同行したのは、羽後の鳥海山と羽前の金峰
  山のみですが、いつも、その健脚には驚かされました。途中姉は地
  上に平伏することがありましたが、そんな際には空中に必らず笛其
  他の楽声を耳にしました……。」 (完)


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