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長南年恵3 [心霊広場]

     附  記

  ここで、最後に、神戸9 方裁判所の無罪判決の有力な、証拠物件
  として掲げて置きたいのは、当時この神戸地方裁判所に於ける公判
  廷の状況を記載した明治三十三年十二月十四日付の「大阪毎日新聞
  」の記事である。何といっても急忙の際に執筆編集する新聞記事の
  通弊として、事実の錯誤が可なりに多く見出されることで、実際は
  二分間であった電話室内の時間を"五分"としてあるりは些事ながら
  誤りである。叉実験後再び公判廷を開いて無罪を宣告した事実を
  反対に、無罪放免の後、弁護士連が好奇心から試験を行ったように
  書いてあるのは甚だしき誤謬である。が、此記事-他の新聞記事も
  多くはそうであるが・・においてもっとも苦々しいのは記者の態
  度の、いかにも浮薄な、何等の真実味をも有っていないことである
  どうせ、新聞記者が、専門の心霊学者ではないのだから、誰しも之
  に対し、余り多くを求めはしないが、知らないなら、知らないとか
  判らないなら判らないとか、何とか然るべき書き方がありそうなも
  のである。ところが、多くは兎に角歯の浮くようなキザな筆致を弄
  するのは、余りほめたヤリロではない。この大毎の記事なども、あ
  る意味では心霊現象に対する日本の新聞紙の三面記事の代表的傑作
  ?と称してよいもともいえよう。

  ○女生紳の試験(これが見出である)

  自から神変不可思議光如来を気取る、例の女生神長南年恵も末世
  なればにや、情なくも獄卒の手にかかり、異に大阪区裁判所にて拘
  留十日の処分となりしを不服とし、所々上告し廻りし結果、大阪控
  訴院の宣告により神戸他方裁判長中野岩栄、陪席判事野田文一郎、
  岸本市太郎、検事高木蔵吉、弁護士横山鉱太郎諸氏にてその公判を
  開きしが、詰り証拠不充分なりとて無罪放免の身となれり。これに
  就て弁護士詰所に居合せたる弁護士連が兎に角彼が神授と称する神
  水こそ世に不思議の限りなれば、試験を行うこそ上けれと、本人の
  生神に申込みたるに、それこそ望む所なりと、容易に承知したるに
  ぞ、先づ同詰所の電話室を仮の試験所に充て、本人の衣服身体を充
  分に改めしは更なり、電話皇をも塵一本だに残らざる様掃除せし上
  イザとて生神に小瓶を持たせたるままその中に閉込めしに、中にて
  何やらん呪文の如合を念唱する気合ありしが、僅かに五分間にして
  裡の戸をコトコトと叩きつつ出で来るを見れば、不思議や携えたる
  小瓶の中には濃黄色を帯びたる肉桂水の如きを一杯に盛りつつ、静
  々として顕れ出てたり。生神のいう所によれば。ただに一本の瓶の
  みならず、幾十本たりとも三方の上に載せ、祈念一唱すれば、その
  瓶の主なる病人の病症に応じたる神水を天より賜わるなりと厳かに
  語りたり。その真偽は暫く措さ、本人の身体及ぴ室内をもまのあた
  りあらためしに、五分間を待たずして神水を盛りつつ顕れ出るは兎
  に角不思議なり。或は口中より吐きたるならんというものもあれど
  その液体は色こそ少しく茶色を帯びたれ、透明液にして口中より吐
  きたるものとは認め難く、さりとて神授なんど世にあるぺしとも思
  われれば、更に確むるこそよかれとて、弁護士中の好事家は、日を
  期し更にその真相を探り極めんと、用意をさをさ怠りなしと聞く。
    (「大阪毎日新聞」明治三十三年十二月十四日第七頁所載)


  ルポ   長南年恵女の霊能を語る
              χ ・ Y ・ Z

  この資料はかって、本誌に掲載されたものである。当時(昭和7年)
  の会員山本寅一氏からの寄稿で、その内容は二人の年恵女の知人の
  談話が総合されたものと、又別に年恵女にお世話になった人の実話
  がその骨組みとなっているものである。

   原寅一氏の報告の要旨・・・
  長南家は、元鶴岡市般若寺裏(最上町)矢場小路にあり年恵女の父
  は早死、兄干代太郎氏が相続したが、同氏は産を治むることが拙で、
  やがて家屋敷を売払い、同じ般若寺裏の小竹という人の家に一時間
  借りして母、弟、妹達と共に住むこととなった。
 
   小竹氏の向側に、千葉寛敬という人が居て当時巡査を奉職してい
  た。職務の関係上、不在勝ちなことが多いので、長所一家の人達は
  やがてこの人の家に同居し、後、家族のものが主人の勤務先きに、
  全部移住するに及び、全家を借り受け、程経て、八日町に移転する
  時まで、干葉氏の家を根拠としていた。寛敬氏並にその妻女の初江
  という人達は共に七十一歳の高齢で、今尚健在であり(昭和七年)
  年恵女の事蹟を知るには、最も有力な生証文である訳だ。
  左記は、初江氏の実話による、年恵女の神がかりの発端を知るもの
  である。

      千葉初江さんの実話

  「年息さんが私の宅に来てから、凡そ一年間ほど、同居していまし
  たが、最初の頃は肉体が弱く碌に食物を摂らす、一日に鶏卵一個
  乃至二個位を食べるのみでした。その後、食物は一切摂らなくなっ
  たとききましたが、それは自分達と別れてからの事であります。

  「年恵さんは、睡眠中に他界へでも行くものか、覚めてから、よく
  死んだ人達の状況を物語ったものです。従って、誰かが死んだ場合
  には、よく、年恵さんに依って、その人の死後の模様をさぐらせた
  ものです。

  「年恵さんは、叉よく神のお告げを受けました。最初は格別信仰が
  あるようにも思まへなかったが、いっの間にか竪い信心家になりま
  した。

  「ある夜、年恵さん。は私に向い、今夜般若寺の木仏様から、お授
  け物があるから一共に行きましよう、と誘いますので、同行しまし
  たところ、一銭銅貨を紙に包んだのが、二包ほど置いてあって、そ
  れを戴いて帰りました。
  伜の直操はその頃幼い子供でしたが、これも年恵さんに誘われて、
  山王様(日技神社)に参詣した時に、筆を一本授けられました。そ
  の筆は、お宮の奥の方から投げるようにして戴いたということです。
  年恵さんは時々善宝寺の池などにも、真夜中にたった一人で参詣に
  出掛けたりしたものです。」

   小竹繁井さんの実話

  小竹繁井さん。この人は年恵女より十歳あまり若く、最初長南一家
  との人達と同居した関係もあり、長南家が八日町に移ってからも、
、 再々泊りかけて遊びに行き、年恵女から非常に可愛がられた人だと
  かいうから、その談話も甚だ貴重な参考資料である。この繁井さん
  の直話。

  「年恵さんは、最初は鶏卵位食べたか知りませんが、私の知ってい
  る限りでは、水の外一切飲食物を摂らず、又、便通も大小とも全然
  ありませんでした。私はよく一共に歩きましたが、年恵さんは躯が
  軽いのか、足か迅く追いつけないで困りました。

  「年恵さんは、自分の部屋に他人の出入を一切厳禁していましたが、
  私丈は例外で、よく遊びに行きました。平生は別にこれと言って変
  ったこともないが、やがて田圃の方から(干葉氏の裏は北向きの田
  圃)風鈴の音のような音楽が聞えて来ると、今、何の神様がお出で
  になられるから、と言って私は室から出されたものです。神様によ
  って、音楽の音色が異るのだそうですが、私には、その区別がつき
  ませんでした。室の中では、神様と年恵さんとが、何やら談話を交
  えて居られたが、それは、一切きき取れませんでした。
  ある時は大黒様がお出でになり、縁側で大黒舞を舞われました。
  姿は見ることができなかったが、さらさらという衣擦れの音は、手
  に取るように聞えました。時とすれば、叉、障子の孔から金米糖な
  どが部屋の内へパラパラと投げ込まれ、私はそれを載いて、食ぺた
  ことがあります。

  「年恵さん達が八日町に移ってからのことある日善宝寺へ参詣する
  と言って、酒田の人と、私と、年恵さんと三人連れで出掛けたこと
  があります。池の奥の方に行くと、そこには、三なの小さいお宮が
  ある。年恵さんは、私達を、お宮の側に待たせて置き自分だけ一番
  奥の宮へ入りましたが、やがてお宮の内部でドタンバタンという大
  きな音がつづいた、不図、気がついて見ると縁の下から、大きな茶
  盆大の崎形の頭に金色の眼のっいた、不思議な姿のものが、チョコ
  チョコと二三度顔を出しました。少時の後、年恵さんがお宮から出
  て来て、今、何か見なかったかと申しますから、これこれの姿のも
  のを見たと話しますと、それは神様がお歓びのあまり、あなたに姿
  を見せたのだ。内部でドタンバタン大きな音を立てたのは、矢張り
  神様がお歓びになり私と相撲をとったのだ、と話されました。
  ただ不思議なことには、私の眼に、あんなにはっきり見えた神様の
  姿が、酒田の人には少しも見えなかったことです。神のお姿という
  ものは、見える人にのみ、見えるものだと思われます。

  「年恵さんとは、井岡の観音様にも、一緒に参詣したことがありま
  す。その時も矢張り私どもを、お堂の前面に待たせて置き、自分一
  人で内部に入り、何やら賑かそうな話声だけ聞えました。出て来て
  から年恵さんは、神様がお歓びだったと話されました。

  「私が勝手元で働いている時、不意に、今洗嗜たばかりのドンプリ
   が見えなくなったりします。私が困っていると、年恵さんか勝手へ
   出て来て、何か困ったことがないか、と訊ねますから、これこれだ
   と言いますと、それはそこにあると、上の方を指します。見ると
   チヤーンと棚の上にドン、ブジが載っていますこれに類した事は、
   他にもちよいちよいありました。

  「年恵さんの神通力には、いつも驚かされました。部屋の内に坐っ
   たままで何でも判るのです。親戚に不幸があるにも係らず、神様に
  参詣するものでもあると、すぐにそれを指摘して追いかえします。
  又経水のある婦人なども、即坐にとがめられました。その外何も
  彼も見通しのようでした。
  「不思議なのは、年恵さんのやられたお手かざすという行法です。
  風呂に水を汲み込んで、お手かざすをやると、少しも薪炭を用い
  ずに、風呂の水が忽ち熱くなりました。私はよく、このお手かざす
  の風呂に入ったものです。

  叉甘酒などもこのお手かざすで、すぐに出来ました。空瓶二本あれ
  ぱ、美味しい甘酒がいくらでも戴けるのです。その結構な味は今で
  も忘れられません。そのくせ、御自分は飲食物の不用な方です。
  そんなものは一切他人に施すだけでした。
  「神様の音楽は、最初は遠方に聞えますがだんだん接近し遂に年恵
  さんの部屋の内部に聞えます。部屋へは他人の出入を禁じてあるの
  で、どんな風にやつているものかは誰にも判りません。信者達はそ
  んな場合部屋の方に向つて礼拝したものです。」

  なお、これら干葉初江さんと小竹繁井さんの談話の要旨は、直結で
  ある丈け、その点は確実である。また患者の求めに応じて、空瓶に
  神水を授かる話、監獄に投ぜられたこと等の話も述べられてあるが、
  重復するのでここにかかげない。

  「年恵様の身体に異常現象を起したのは自分にははつきり申兼ねま
  すが、たしか明治二十五年頃最上町の干葉家に同居していられた頃
  かと記憶します。最初食物加胃に収まらぬので年恵様の母上は心痛
  のあまり星川医師の診療を乞うたというような市を耳にして居りま
  す。その頃から夜間睡眠中に同家の祖先の霊が年恵様に憑り、その
  口をかりて、丁度寝言のように、いろいろ物語をするので母人は大
  へん驚かれたそうです。その話をきき伝えて次第に神仏のお告を乞
  うものが増加し、後には睡眠中でなくとも丁むに念ずれば容易にお
  告を受けるようになったそうです。

  私が長南家に同居することになったのは明治三十年頃であります。
  私は他の信者達と共に、よく年恵様のお供をして、市内では三日
  町の本部皇太神宮、荒町の日技神社、井岡の観音堂又は下川の善
  宝寺池畔の竜神社等に参詣しました。いつも徒歩でしたが、年恵
  様は身軽で足早で、誰でも遅れ勝ちで弱りました。
  下川の池には鯉を放したこともあります。
  年恵様が神社に参拝される時には、私共は社の後方で拝していま
  したか、いつも竜神様その他の神様の姿がお現われになったらしく
  私どもの耳にも笛、しよう等の楽声が、はっきりと社の上方と思わ
  れる所に聞えました。
  
  私はお供しなかったが、鳥海山、湯殿山等の高山にも数回参詣され、
  その都度同行者の話によれば、年恵様の足の迅いには驚いたと申し
  て居りました。
  私が長南家に居りましたのは明治三十年から同三十四年までですが、
  その間近郷近在の難病者で救を求むるものは隨分沢山参り、母人は
  その応対にいっも忙殺されていました。

  病人が来ると、年恵様の躯には病人の病苦そのままのの苦痛が起り
  ましたので、実に並大低の苦労ではなかったのです。又物忌がきび
  しく年恵様はこれにも絶えず苦まれました。心なき人達が汚れた躯
  でお願いに来ると、その咎を年恵様が引受けて了うのです。
  それでも一心に助けを乞う人達を不憫に思われ、厭な顔一つせず、
  神様に願ってあげるので、いつとはなしに依頼者が集まり少い時も
  数人、多い時は二三十人に及ぶことがありました。

  私は十四歳の頃胃腸が悪く、母はいろいろと手当をしてくれました
  が治りません。当時私どもは酒田に住んでいましたが、不図年恵様
  の話をきき、母は身浄め、物忌を厳守して鶴岡八日町の長南家に参
  り、例の神授の薬水を戴いて帰りました。これが私どもと年恵様と
  の関係の初まりです。数回之を服用している中に胃病がすっかり全
  快して了いました。
 
  右の神授の薬水というのは、御承知の通り、こちらから瓶を持参し、
  栓のまま年恵様にお渡しするのです、すると年恵様は十本でも二十
  本でも神前にそれ等の瓶を並べてしばらく御祈願をすると、一度に
  御神水が瓶の中に出現するので、薬水の色は患者毎に皆異います
  私の持参した瓶は約三合入のもので、私自身戴きに上ったこともあ
  りました。年恵様は一人づつ患者を呼んで瓶を渡し、心得等につき
  てくわしくお話し下さるのでした。心掛の悪しきものは神水が下り
  ませんでした。

  年恵様が祈念さる時に出現されるのは神様と仏様と両方でした。
  その際聞える音楽は、天照大神はショウ、古峰ヶ原金鋼山様は、笛
  大日如来様は大きな音の鈴、弘法大師様は風鈴で、この風鈴が一ば
  ん頻繁に現われました。
  年恵様はよく突然姿を隠しました。今まで神前にいたのが、いつの
  間にか見えなくなるしばらくすると又いっの間にか帰って居られる
  のです。

  食事をせぬこと、便通のないことは事実ですが、ただ極めて稀に梨
  林檎などを少量食べられることはありました。しかし信者の持参し
  たものは、あれもいけないこれもいけないで殆んど手をつけること
  はありませんでした
  私が実地目撃した中で、今でも不思議と思っているのは、茅葺の物
  置小屋の突然の怪火でした。これは酒田町鵜渡川原の一信者の火難
  を爰に引き取ったものだそうで、小屋の内部は一面の猛火で、私は
  小供心にブルブル慄えながらそれを見物していました。火は今にも
  屋根裏に燃え移りそうに見えながら、やがで何事もなく鑓火し、そ
  して小屋に格納された品物も何一つとして焼けなかつたということ
  です。

  年恵様は機嫌のよい時は、よく戯れに腕相撲をとられましたが、筋
  骨逞しい農夫も到底その敵ではありませんでした。叉よく負つこを
  して遊びました。年恵様はどんな大男でも軽々と負われます。
  叉自分は重くなるも軽くなるも自由自在、軽い時は小児でも楽に負
  えるが、重い時は大男でも腰が切れない。
  そんな際の賑かさと言つたらありませんでした
  どんな大暑の候でも年恵様は汗をかかれません。又どんな酷寒の時
  でも凍えるということを知らない。躯には常に清香薫り、漆黒の丈
  なす頭髪には一本の後れ毛も又一点の雲脂もない。肌の色は白く清
  く、掌など殆んど透きとおる位でした。

  年恵様の慈非深いのはまことに天凛で、あんな心の美しい方が現世
  に又とあろうかと思われる位でした。貧しい者には金品を与え、
  病める者には、御自分の躯をささげて病苦を引受け、毎日のように
  死ぬほどの苦みをつづけられました。
  衆生済度という言葉はよく耳にしますが、年恵様のように如実に之
  を実践躬行された方はめつたにないのでないかと思われます。
  若い者に向つてよく言葉短かに学問をすすめ、不心得を戒められま
  したが、それが不思議にも深く聴く人を動かしました。

  私自身の身の上話をするのも心苦しい次第でございますが、実は私
  が鶴岡の高等女学校に入学しましたのも偏に年恵様の賜なのでござ
  います。明治二十七年私が十二歳の時酒田地方大震災の為めに私の
  家は全焼の厄に逢い赤貧の中を辛くも小学校に通学するのが関の山
  でした。しかるに明治三十年鶴岡に高等女学校が開設されますと、
  年恵様は私の母に向い、「自分は食事をせぬ身であるから、自分
  の代りにあなたのお子さんを預かり、女学校に通学させます」と言
  われ、私の母は感泣してその厚情に甘えたのでした。年恵様が他界
  されましたのは明治四十年十月二十九日のことでした。信者その他
  の集まりまして後片附をし、家財全部を売却しましたが、すべてを
  他人に施して了ってあるので売上金額は僅々数十円にしか上らなか
  ったそうです。

  雄吉氏の兄板倉寅蔵氏がそれと位牌とを預って祀っているときいて
  居ります。般若寺内の石は後に雄吉氏が建てられたものでございま
  す。 因みに年恵様の母君(美恵子)も一通りならぬ、立派な心懸
  の人でした。女の手一つで顛苦の裡に数人の子供を育てあげ、年恵
  様があのような身の上になられてからは、信者の収次やら、神仙の
  奉仕やら、食事の世話やら一切4 御自分の手一つに引受けられ、
  明治三十八年四月八日帰幽の前日まで忠実に立ち働き、一同の敬慕
  の標的となっていました。
  美恵子刀自の墓ぼ般若寺内の年恵様の墓と並んで建っています。」

   八尋さんの調査

  筆者の友入で故人になったが八尋加蔵君かかって(昭和十四年八月か)
  年恵氏の郷里鶴岡市へ出かけて、この世界的霊媒の生前の事蹟を調査
  したことがあった。その時の聞書きの一節を、次にかかげることにし
  よう。

   この年恵女の霊能について、いろい訓べて見たが、別にこれという
   霊能発揮にっいての修行のあとはなく、どうも先天的の霊能者であっ
   たことを同氏は断定していたが、その他彼女を知る周囲の人の話を綜
   合してもやはりどうもそうらしい。
  こういった先天的霊能者は、しらず、信仰をもっているもので、――
   もちろんそれが正しい信仰か、或はご利益信仰かは別であるかどうも、
  自身のやること、させられることが普通でないので、心霊科学を知ら
  ない、またそういった学問も、うっかりすると、否定されやすいのか、
  今日であることから考えてみても無理からなことで、つい、一般の信
  仰、その霊能者の教養と環境とによって、なにか信仰に進まされるら
  しい。これらの霊能者には哲学的とか、心理学方面に向うものもある
  がさて、そういった方面へ進んでしまえば自から修めた学問で自から
  の霊能を亡ろぼしてしまうらしい。

  年恵女も、やはり、信仰的な方面に生活か向いたことは、彼女は常に
  敬神尊仏の心持ちがあったらしく、彼女の家から一里前後離れた大泉
  村のお寺、同市外にある善宝寺、ことにそのお寺の内にあるお堂には、
  毎月何回かは、定期的にお参りしていた。お宮では、やはり、一里位
  離れた貴船神社に参詣していたようだ。

  この調査をした八尋氏も、われわれ同様に心霊研究を科学的によって
  やろうとした人であるだけ、年恵女の霊言にも、亦、霊聴の音楽に叉、
  直接吹奏現象にしても[あれは神様が下りられたしるしである]とか、
  「しようは天照大神である」の、「笛は金鋼さん」だとか「大きな鈴
  の音は大日如来、小さいのは弘法大師さんだ」といったことが語られ
  ているが、このことについて、はたして、そのことが真か疑か、大神
  位が、そんなことをされるものかについて、その記録に疑門をもって
  いたので、このことについては、いろいろの方面、角度から調査研究
  していたので、その出張時にも、彼女を知る人から、何か得るところ
  はないかと、われわれにとって重大問題でもある、このことについで
  尋ねてみたり、その研究の資料になるものはないかを、さがしたよう
  だ。が、それが何れの場合もその霊の或は神の系統に属するところの
  霊であったか叉は同一の霊の芝居か、各社系統の霊の通訳をしたもの
  か、これを知ることができなかった。

  訪問した方々のうち、八日町の須田藤次郎さんからまとまった話を聞
  いたといってこの須田さんの話を、次のように語っていた。
  もちろん、須田さんは年恵女の帰幽された日まで、彼女と往復されて
  いた方である。
  年恵さんは三十四・五才に霊能が初まり四十才から四十六才までが、
  その最高潮で、四十七才の現象はまことに驚くことが多かった。
  それは、四十七才で始めて月経があったそして、それから帰幽まで毎
  月キチキチあった。これと同時に、食事も普通人と同じように摂取す
  るようになったが、霊能は全く失つてしまった。
  このことから考え、年恵女の霊能発揮は、全然、背後の支配霊が肉体
  もろ  とも使っていたことといえる。

   先天的の霊能者には、よくこんな例を見る肉体の全部を霊に任せき
  ったと言うことは、いわゆる、霊肉一致に近い行動である。
  こうなると、多くの場合、入神せず、平常のままで、そのまま、霊能
  を発揮していることになりここまで行けば、精神統一は完成されたこ
  ととも言える状態である。
   例えば学者モーゼスが、最初は疑問をもって、いつも研究的態度を
  とっていたが、もちろん、それがため、心霊現象の研究には苦心した、
  その努力の賜として、彼は33才の年に自らの持っていた霊能を発揮
  しどんな現象も彼の背後霊が彼の使命を達成させるためにやらせた。
  しかも、彼は多くの場合は、入神せず、普通意識のままで現象を発揮
  している。(終)


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長南年恵2 [心霊広場]

      霊水湧出と同時に無罪

   話題が裁判問題に入るにおよび、長南氏の談話にはいよいよ熱度
  が加わりました。そして同氏は語りつづける。――
   「裁判問題は、右の様な次第で大変手間がとれましたが、其間に
  大阪控訴院においての控訴上告は破棄されまして、神戸地方裁判所
  で再審査を受けることになりました。当時この事件に関係した判検
  事をはじめ、弁護士に至るまで、今でもほとんど全部行方がわかっ
  ているのは、資料の権威を加える点につき甚だ好都合であります。
  この事件の裁判長は中野という判事で、私が現在どうなったか存じ
  ませすのはこの方だけです。陪席判事は岸本さんで現在は大阪で弁
  護士を開業しておられます。又検事の高木さんも矢張り只今老松町
  で辨護土、それから私のほうで依頼した辨護士が、御承知の横山鉱
  太郎氏…・現在では東京控訴院の検事部長を勤めて居られます。お
  閑がお在りなら一応此等の関係者に就きて当時の実状の調査をなさ
  れたらまた何かの新材料が手に入らぬものでもなく、また私の談話
  の裏書ともなるわけです。是非機会を見てそうなさることを希望致
  します。


  〔編者註〕 この記事の資料は1 九年十一月当時のもの
   「さていよいよ十二月十二日をもって神戸地方裁判所において公
  判の開廷という段取りに進みました。ここ?。法廷の模様を一々述
  べる必要はございますまい。裁判長、陪席判事、立会の検事をけじ
  め辨護士、被告等すべて型の如き訊問が一通り済みました。やがて
  中野裁判長から「被告はこの法廷においても霊水を出すことができ
  るか」の質問でした。姉は平然と「それはお易いことでございます。
  が、ただちよっと身4 隠す場所を貸して戴きたい」と答えました。
  そこでいよいよ適当の場所に於て実験執行ということになり、一旦
  法廷は閉ぢられました。

  「裁判官はその実験の場所について暫時会議を遂げた上で、結局
  弁護士詰所が選定されることになりました。ご承知かも知りません
  が、当時神戸の裁判所は新築中で、弁護士詰所の如きも、やっと電
  話室が出来上ったばかりで、電話の取附はまだしてありませんでし
  た。この電話室を塵一つ留めぬまでに掃除し、姉をその中に入れる
  ことになったのであります。
  「いよいよ実験となると、姉は裸体にされ、着衣その他につき厳
  重なる検査を施行されたことは申すまでもありません。そして裁判
  長自ら封印した二合入りの空珊一を、手づから姉に渡し、係りの判
  検事は申す迄もなく、弁護士やら官吏やら多数環視の裡に、姉は静
  かに右の電話室にはいって行ったのであります。

  「姉が電話室に入ると同時に、私は携帯の時計を取り出して時間を
  計りました 0すると正に二分、時を経過した時、電話室の内から
  コツコツと合図が聞えます。そして、扉が開かれて立ちでた姉の片
  手には、茶褐色の水で以て充たされた二合壜が元の通り封印のまま
  で、携えられていたのであります。
  「公判廷は再び開廷せられ、茶褐色の水の充ちたる二合壜は判官の
  机上に置かれました。裁判長と被告との間には次ぎのような奇問奇
  答が交換されました。

  問「この水は何病に利くのか」
  答「万病に利きます。特に何病に利く薬と神様にお願いした訳では
    ございませぬから……」
  問「この薬を貰って置いて宜しいか」
  答「宜しうござります」

  このようにして訊問は終り、即刻無罪の宜告が下りました。
  「神戸の裁判所でこのように無罪の宜告を受けはしましたが、重ね
  重ねの裁判沙汰は無邪気な年恵女の精神に余程の苦悩を蒙らせたよ
  うです。「大阪などにいるのは厭だ!」1-そう言って、彼女は、
  翌年三十四年にさっさと郷里の鶴岡に帰ってしまいました。従って
  京都大学にたのんで実験させようとした最初`の計画はこの時にも
  実行されずに終っでしまいました。
  「それに彼女を学問研究の対象とするには彼の周囲の状況がまだ
  これを許すまでに進歩していないことも痛感しまして止むなく従来
  の志望を棄てて、郷里の信徒達の望みに任せて惟神大道教会と称す
  る一つの教会を設立してやり、叔父をその守りにさせて置くことに
  いたしました。そうする中に、明治三十八年になり、老母が死んで
  可燦な年恵女はいよいよ心細い身の上となりました。その時帰国し
  ましたので「もう一度ぜひ大阪へ来るがよい」とすすめ、当人もそ
  の気になってたのでしたが、あい変らず、その時も身辺の頑固連や
  ら策士連やらに阻止されて、とうとう其決心を実行するに至らなか
  ったのです。
   「明治四十年の十一月に社用で朝鮮に行ったその不在中に彼女は
  郷里で急に歿しました。しかし死期に先立つ二た月ばかり前から、
  彼に憑っている神様は「お前は近い中に、あの世に連れて行く」と
  時々ささやいたそうです。で親戚の相田良孝という人が大変心配し
  て、私に急いで帰国して呉れと言って来たのでしたが、当時何うし
  ても手離し難い用事の為めに、心ならずも朝鮮に出張し、その為め
  に姉の臨終にも逢い得なかったのです。」
  前後二時間にわたった長南雄吉氏の、年恵女に関しての談話はこれ
  で終るのであるが、外にも珍談の数々があるが省略することにする。

  かくて、年恵女の帰幽後、親戚やら信徒やらが集まり、郷里の邸
  内に一つのささやかなるお宮を建て、この無垢の女性の霊を祀った
  のである。今でも参拝者の影は絶えぬということである。
  なお、年恵息女の神懸りに関する実話‐--例えば、当時日露戦争
  の予言、社会に対する警告、紛失物の捜索、病気の治療等-に関し
  ては、到底ここにその全部を紹介するスペースのないことを遺感に
  恩うのであるが。その当時の六月二十八日附で長南氏から記者の許
  に心霊事実を報告された書簡の一部を左記に紹介してひとまず鯛筆
  することにする。

   「……姉の奇蹟的事実に至り萄ぽ数限りも無之候へども、不取敢
  左に二三を摘出して御参考に供し候。
  (1)明治三十三年二月小生帰郷中、或る夜、午後九時頃本人が突然
  影を失い、家の中の何所を捜しても見当りません。当時雪は三尺以
  上も積り居り、若し外出したとすれば足跡がある筈だと、信者共が
  半ばは心配、半ばは好奇心で、夜の更くるも知らず話し合って居り
  ました。すると午前三時頃に至り、縁側にドシンと奇異の物音がし
  ましたので、一同かけっけて見ますと、姉が四方囲いをした縁側
  -雪国では皆囲いをします-に立って居て、おお寒い寒い神様が
  妙な山へ連れて行ったものだから、中々側ヽかった、と言いながら
  座敷へはいってきました。そこで我々は念の為めに足跡の有無を査
  べて見ましたが、それらしい痕跡は露ほども見当りませんでした。
  (2)神懸りのなき際は、姉は十四五才の子供の如き遊戯を好み、例
  えば綱引きをするとか、腕相撲を試るとか、重い物の持ち競をする
  とか、そんな事ぽかりして笑い興じて居るのでした。綱引きとか手
  拭引きとかの場合に、大の男が真剣になって三四人で掛っても姉の
  怪力には及びませんでした。ただ不思議なことには、人が姉の背後
  に廻ると、その怪力は忽ち消失するのでした。
  (3)姉はよく登山をしました。富士登山の際の如き、自分で蒲団を
  背負い、一行の先頭に立って飛ぶが如くに進み、同行の七八入は弱
  ったという話です。私が同行したのは、羽後の鳥海山と羽前の金峰
  山のみですが、いつも、その健脚には驚かされました。途中姉は地
  上に平伏することがありましたが、そんな際には空中に必らず笛其
  他の楽声を耳にしました……。」 (完)


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長南年恵 [心霊広場]

心霊広場

 長南年恵(オサナミトシエ)
 浅野和三郎先生が調査され、別に出版もありますがここでは
「心霊と人生」に掲載された特集を記載します。

  霊能者長南年惠の生涯とその心霊現象+承前+
      桑田吉三郎 (1957年4号)抜粋
  
     ++前号のあらまし
  判汰汰が持ち上り、飛んだ大騒ぎをやりました。二度あることは三
  霊能者長南年恵に生起した常識で判断のできぬ諸現象は次のようで
  あった。
   (1)彼女は文字通り、絶食絶飲の状態を14カ年続けた。
   (2)彼女は大小便などの生理作用は全くなく、またその生涯にただ
        の一度も月経はなかった。
   (3)彼女は数分間、神に祈願すると、何十本の瓶の中に一時に霊水
       が充満する。しかも、いろいろと着色されてもいた。
   (4)彼女は50歳で死んだがその時の容貌は若々しく20才位とよ
       り見えなった
   (5)彼女は何の教養もないのに、一たん精神を統一する書に画に非
       凡の手腕を発揮した。
   (6)彼女は詐欺の嫌疑で何度も入獄させられたが、入獄中、獄舎の
       内部で、依然として心霊現象は続出した。
   (7)投獄の最後、神戸地方裁判所では裁判官の眼前で裁判官提出の
       ビンに一パイの霊水を引き寄せた。
  このうち(1)~(6)について、その大要が前月号に述べられた、本号で
  は、そのことに関して、また(3)(4)(7)について詳述することにする。
  これらはしべて大阪においての生起したもので、前月号での生起は郷
  里鶴岡での現象とも言える。

  令兄の長南雄吉氏は、姉年恵のこれら奇現象を学界は言うまでもなく、
  天下に公表して、識者の批判を求めんとして、山形監獄鶴岡支所に入
  獄中の生活につての詳細に対しての証明を得んとしたのであったが、
  前号に述べたとおり"証明を与うる限りにあらず"として却下されたの
  である。

      下阪させたことはよかったが・・・・

  監獄所に提出した証明願いは空しく却下され、それによって姉年恵の
  奇跡を天下に公表せんとした長南氏の計画はここに一頓挫を来したが、
  しかし、一旦心霊に目覚めたる同氏は、それしきのことで計画を抛棄
  しようとはしなかった。
  氏は考えたのである。姉の神懸かりは別としても、単に両便不通、絶
   食絶飲等の生理現象だけで優に学界の研究材料とするに十分である。
  それにはとりあえず、姉を帝国大学に提供して見るのが順当であろう。
  ・・・とそう思い、東京の井上円博士などとも相談の上、その手続き
  をとろうとしたのであったが姉の身辺の取りまき連の猛烈の反抗によ
  り惜しい哉、その計画もまた実行されずに過ぎてしまったのである。
     
  長南氏は語りつづける。
  「私の姉というのは、前にも申し上げました通り、至って無邪気なま
  るで赤児のようなもので、何でもひとの言いなり次第になります。
  ところが、こんな霊覚者の周囲には、一方に正直な善人も集まります
  が、他方にはまた物の道理の判らない頑固な、有り難連中やら、神を
  ダシに使おうとする宗教策士達やらが兎角集まって来たがるもので、
  それらは研究とか実験とかいうことには常に極力不賛成を唱えます。
  姉の場合においても矢張りそうで取巻連が姉を動かして、どうしても
  東京へ出すことを承諾させないのには弱りました。

  「で、私はがっかりして、一旦大阪へ引き返しましたが、姉の不思議
  なからだを学問研究の対象としたいという念願は抑えんとして抑える
  に由なく、何とかして素志を貫徹しようと知恵を絞ったあげくの果、
  とうとう伊勢参宮を口実に、一まず姉を大阪に呼び寄せ、その上で京
  都大学に連れ込む計画を立てました。

  「この計画は私の思う壺にはまりました。姉も伊勢参宮は年来の希望
  でもありますし、又周囲のもどももこれには不服を唱える理由もあり
  ません。
  とうとう明治33年の春、姉は山形を出発、はるばる東海道を経て梅
  田の停留場へ姿を現したのですが、姉を取巻いて居る三四の頑固連は
  どうしても其身辺を離れず、御苦労にも大阪までついて来たのには驚
  きました。

  「兎に角も、とうとう大阪へ出て来た。これでこちらの計画は七八分
  成功と思ったのはホンの一時の糠喜び、姉がまだ到着せぬ先から、
  不思議な神女が来るといううわさが私の友人からその友人の、そのま
  た友人にも伝わるという有様、私の空堀町の住居は、忽ち病気直しを
  頼む人やら、伺いをたてる人やらで、朝から晩まで雑踏するようにな
  ってしまいました。
  こうなりましては、なかなか予定通り京都大学へつれて行くひまとて
  もございません。イヤどうも心霊方面の仕事となると、騒ぎばかり大
  きくなり勝ちで困ったものです・・・・」

      霊水たちまち壜中に湧く

   長南氏は息もつかず、談話を続けるのである・・
  「当時、空堀町の私の寓居は二階建てで、階上には両便所も付属して
  おりました。
  私はこの二階を姉の居室と定め、第一にその両便所を密封して了いま
  した。
  姉が翌年帰国するまで一年有余の間、両便所がそっくり密封のまま残
  ったのは申すまでもございません。
  そして、病気の治療其他姉に関する一切の仕事は皆この二階で執行さ
  せました。

  「わたしはあねがどんなことをして病気を治すか、一と通り其実況を
  述べておきたいと思いました。まず驚かされるはその感応の強烈なこ
  とで、患者が玄関に入ったか入らぬ時に、もう二階の姉の肉体に当人
  の病気が感応するのです。
  その際、姉に病気治療を頼む人々は薬瓶なり、ビール壜なり、各自、
  思い思いに空壜を携えて来るのですが姉はこの空壜を十本でも二十本
  でも、一つにかためて御三方の上に載せて神前に供えます。無論、壜
  には栓をを施したままで一々依頼者の姓名が書きつけてあります。

  「姉が神前で祈祷する時間は、通例十分間内外です。すると右の密閉
  された、十本なり二十本なりの壜の中にパッと霊水が同時同刻に一杯
  になる。・
  それが赤いのやら、青いのやら、黄いのやら、樺色なのやら疫病に応
  じてそれぞれ色合いが違います。いや、実況を見ておりますと、まる
  で手品のようで、ただただ不思議と感嘆するより外に致し方がござい
  ません。一通り貴下方にも其実況をお目に掛けたいものでした。・・」

  「全く残念なことをしました。ブラバッキイ夫人などの記録を読むと、
  それに類似の奇跡的事実がいろいろ書いてありますが、不幸にしてま
  だ一度も実地を目撃したことがございません。・・それはそうとその
  神授の霊水は病気にはよく効きましたか?」

  「いやその効験と言ったらまことに顕著なもので、どんな病気でもズ
  ンズンなおりました。もっとも神から不治と鑑定された人やらためし
  に、一つやらして見ようなどと思う者の壜には霊水が授かりませんの
  は不思議でした。十本か二十本の中にはそんなのが一本ぐらいはまじ
  るようでしたこんなあんばいで、壜の数は何本までという制限はなか
  ったように思われますが、私の知っているところでは、一時に空壜が
  ズラリ四十本ほどお三方の上に並んだのがレコードでございました。
  あの調子で考えると百本でも二百本でも一時にパッと霊水が入ったろ
  うと思われます。

  「兎に角こお通りの騒ぎですから、約束の伊勢参宮だけは済ませまし
  たが、なかなか姉を京都大学に連れて行く、いとまがございません。
  こりャ手っ取早く寧ろ一応この事実を新聞紙に掲載さした方がよいか
  も知れぬと私は思いました。
  幸い、当時大阪朝日の社会部長を務めて居る渡辺霞呈君とは懇意であ
  るから、此人にたのんで実験に立会って貰い、正確な記事を書いて貰
  おうと思いまして、私は自身新聞社に出頭し、同氏に面会してその快
  諾得たのでした。
  しかるに実験の当日に至りまして、霞呈氏に差支えが出来、代理とし
  て角田浩々歌客と他に一名の記者が大朝社から特派されました。
  「当日の光景は、なおはっきりと私の眼底に残って居ります。御神前
  ・・と言っても床の間に天照大御神様のお掛軸が掛かっているだけの
  簡単なものですが、そこに御三方に載せた約二十本の空壜が供えてあ
  り姉はその前でしきりに祈願をこめている。次の間には前記、二名の
  新聞記者を始め、十数名の友人、知己がようすいかにとひとみをこら
  している。・・と、約十分の時刻が経過したと思われる途端に、今迄
  三方の上に並列してあった不景気きわまる空壜がサッと虹でも現れた
  ように、千紫万紅とりどりの麗しい色彩に急変しました。各種の霊水
  が壜中に充満したのであります。
   この実験の模様は、当時の大朝紙上に数日、続き物として連載され
  ましたから、関西の読者の中には記憶されている方も少なくないと存
  じます。」

      大朝の記事から拘留処分

   長南氏の物語りをきいて居た浅野会長はこの長南氏の談話に引き込
  まれて、「当日の光景が眼前に浮び出るかの如く感じた。」とこの談
  話に附記している。
  この大朝の記事は相当正確に書いてありましたがどうも当時は現在よ
  りも心霊現象に対する知識が一層どぼしかった時代ですから例の新聞
  記者の癖で、自分の附に落ちない事があると出鱈目な憶測やら、藪か
  ら棒式の邪推を振り回すのには困りました大朝の記事にも随分下らぬ
  箇所が多いようでした。
  例えば、その中の一例として何でも胃袋の中にゴム管を通して胃液か
  何んかを壜の中に入れるのだろうなどと書いてあったように記憶しま
  す・・・。」
   
   ・所で、この大朝の記事が原因で、大阪に於て叉々姉の身辺に裁判
  汰汰が持ち上り、飛んだ大騒ぎをやりました。二度あることは三度と
  やら、この無邪気な姉が一生に三度まで訴訟問題に引掛ったのですか
  らおどろきます。
  もっともそのお蔭で心霊現象に対する証拠物件が豊富となり、今日あ
  なたがたが姉の記事を作成されるにはどれだけ便利だか知れません。
  全く世の中の事は何がしあわせになるか判りません。一面から見れば、
  私どもはあなたがたの心霊研究会のために、二十幾年も前からせっせ
  と材料を蒐集していたと観れば観られぬこともございませんナ。
  イヤドーも御苦労な話でハハハハハハ……。」
  「イヤ全く其局に当った方々の御苦労はお察し致します。」――
  と浅野会長は、次でその裁判沙汰というのはどうして起ったかについ
  て質問された。

  「それはこうです」 「大朝の記事が出てからたしか三日目位でした、
  私の寓居が突然多数の警官に包囲され、家宅捜索を執行されたのでし
  た。折から、私は外出中でしたが、家人の談によると、それはなかな
  か厳密な大捜査で、何が薬品様のものを隠しておりはせぬかと言って
  床下までも捜したそうであります。
  ――無論いくら捜査されたとて薬品などのあろう筈がありませんから、
  警官隊は手を空しうして、スゴスゴ引き上げたのでありますが、即夜、
  姉を呼び出して拘留十日に処分しました。

 「たとい、五日でも十日でも、人を拘留処分に附するには、それ相当の
  理由がなければならぬ筈です。ところが、私の姉の場合にはいかなる
  理由があるのか更に私には判らない。姉はどこまでも従順で、拘留す
  ると言えぱ甘んじて拘留され、監禁するといえば喜んで監禁されるた
  ちのをんなでしたが、いやしくも、その監督者の地位に立っている私
  としては、そう参りません。遂に私は右の言渡しを不当として正式の
  裁判を仰ぎ、控訴上告にまで及んだのでした。

  「私が一方で、一生懸命訴訟問題に気をもんでいるにもかかわら
  ず、ご当人は至極のんきなもので、八月下旬、従者数名を引き具し
  富士登山に出掛けてしまいました。そして、そのまま山上に寵り、
  九月、十月、十一月と幾度び月が変っても下山しないのには弱り切
  りました。神霊の守護を受けている以上、そのからだについての心
  配はほとんど無いとしても、裁判の問題は本人なしには進行させる
  わけには参りません。正式裁判を仰ぎながら、延期又延期では、私
  の名誉上の問題でもありますから、そのまま捨て置き難い立場とな
  り、しばしば人を富士山に出し、いろいろ手を尽した上で、十一月
  下旬になり、ヤツとのことで姉を大阪まで連れ戻ることができ、そ
  れで私もほツと安心したような次第でした。」


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