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長南年恵3 [心霊広場]

     附  記

  ここで、最後に、神戸9 方裁判所の無罪判決の有力な、証拠物件
  として掲げて置きたいのは、当時この神戸地方裁判所に於ける公判
  廷の状況を記載した明治三十三年十二月十四日付の「大阪毎日新聞
  」の記事である。何といっても急忙の際に執筆編集する新聞記事の
  通弊として、事実の錯誤が可なりに多く見出されることで、実際は
  二分間であった電話室内の時間を"五分"としてあるりは些事ながら
  誤りである。叉実験後再び公判廷を開いて無罪を宣告した事実を
  反対に、無罪放免の後、弁護士連が好奇心から試験を行ったように
  書いてあるのは甚だしき誤謬である。が、此記事-他の新聞記事も
  多くはそうであるが・・においてもっとも苦々しいのは記者の態
  度の、いかにも浮薄な、何等の真実味をも有っていないことである
  どうせ、新聞記者が、専門の心霊学者ではないのだから、誰しも之
  に対し、余り多くを求めはしないが、知らないなら、知らないとか
  判らないなら判らないとか、何とか然るべき書き方がありそうなも
  のである。ところが、多くは兎に角歯の浮くようなキザな筆致を弄
  するのは、余りほめたヤリロではない。この大毎の記事なども、あ
  る意味では心霊現象に対する日本の新聞紙の三面記事の代表的傑作
  ?と称してよいもともいえよう。

  ○女生紳の試験(これが見出である)

  自から神変不可思議光如来を気取る、例の女生神長南年恵も末世
  なればにや、情なくも獄卒の手にかかり、異に大阪区裁判所にて拘
  留十日の処分となりしを不服とし、所々上告し廻りし結果、大阪控
  訴院の宣告により神戸他方裁判長中野岩栄、陪席判事野田文一郎、
  岸本市太郎、検事高木蔵吉、弁護士横山鉱太郎諸氏にてその公判を
  開きしが、詰り証拠不充分なりとて無罪放免の身となれり。これに
  就て弁護士詰所に居合せたる弁護士連が兎に角彼が神授と称する神
  水こそ世に不思議の限りなれば、試験を行うこそ上けれと、本人の
  生神に申込みたるに、それこそ望む所なりと、容易に承知したるに
  ぞ、先づ同詰所の電話室を仮の試験所に充て、本人の衣服身体を充
  分に改めしは更なり、電話皇をも塵一本だに残らざる様掃除せし上
  イザとて生神に小瓶を持たせたるままその中に閉込めしに、中にて
  何やらん呪文の如合を念唱する気合ありしが、僅かに五分間にして
  裡の戸をコトコトと叩きつつ出で来るを見れば、不思議や携えたる
  小瓶の中には濃黄色を帯びたる肉桂水の如きを一杯に盛りつつ、静
  々として顕れ出てたり。生神のいう所によれば。ただに一本の瓶の
  みならず、幾十本たりとも三方の上に載せ、祈念一唱すれば、その
  瓶の主なる病人の病症に応じたる神水を天より賜わるなりと厳かに
  語りたり。その真偽は暫く措さ、本人の身体及ぴ室内をもまのあた
  りあらためしに、五分間を待たずして神水を盛りつつ顕れ出るは兎
  に角不思議なり。或は口中より吐きたるならんというものもあれど
  その液体は色こそ少しく茶色を帯びたれ、透明液にして口中より吐
  きたるものとは認め難く、さりとて神授なんど世にあるぺしとも思
  われれば、更に確むるこそよかれとて、弁護士中の好事家は、日を
  期し更にその真相を探り極めんと、用意をさをさ怠りなしと聞く。
    (「大阪毎日新聞」明治三十三年十二月十四日第七頁所載)


  ルポ   長南年恵女の霊能を語る
              χ ・ Y ・ Z

  この資料はかって、本誌に掲載されたものである。当時(昭和7年)
  の会員山本寅一氏からの寄稿で、その内容は二人の年恵女の知人の
  談話が総合されたものと、又別に年恵女にお世話になった人の実話
  がその骨組みとなっているものである。

   原寅一氏の報告の要旨・・・
  長南家は、元鶴岡市般若寺裏(最上町)矢場小路にあり年恵女の父
  は早死、兄干代太郎氏が相続したが、同氏は産を治むることが拙で、
  やがて家屋敷を売払い、同じ般若寺裏の小竹という人の家に一時間
  借りして母、弟、妹達と共に住むこととなった。
 
   小竹氏の向側に、千葉寛敬という人が居て当時巡査を奉職してい
  た。職務の関係上、不在勝ちなことが多いので、長所一家の人達は
  やがてこの人の家に同居し、後、家族のものが主人の勤務先きに、
  全部移住するに及び、全家を借り受け、程経て、八日町に移転する
  時まで、干葉氏の家を根拠としていた。寛敬氏並にその妻女の初江
  という人達は共に七十一歳の高齢で、今尚健在であり(昭和七年)
  年恵女の事蹟を知るには、最も有力な生証文である訳だ。
  左記は、初江氏の実話による、年恵女の神がかりの発端を知るもの
  である。

      千葉初江さんの実話

  「年息さんが私の宅に来てから、凡そ一年間ほど、同居していまし
  たが、最初の頃は肉体が弱く碌に食物を摂らす、一日に鶏卵一個
  乃至二個位を食べるのみでした。その後、食物は一切摂らなくなっ
  たとききましたが、それは自分達と別れてからの事であります。

  「年恵さんは、睡眠中に他界へでも行くものか、覚めてから、よく
  死んだ人達の状況を物語ったものです。従って、誰かが死んだ場合
  には、よく、年恵さんに依って、その人の死後の模様をさぐらせた
  ものです。

  「年恵さんは、叉よく神のお告げを受けました。最初は格別信仰が
  あるようにも思まへなかったが、いっの間にか竪い信心家になりま
  した。

  「ある夜、年恵さん。は私に向い、今夜般若寺の木仏様から、お授
  け物があるから一共に行きましよう、と誘いますので、同行しまし
  たところ、一銭銅貨を紙に包んだのが、二包ほど置いてあって、そ
  れを戴いて帰りました。
  伜の直操はその頃幼い子供でしたが、これも年恵さんに誘われて、
  山王様(日技神社)に参詣した時に、筆を一本授けられました。そ
  の筆は、お宮の奥の方から投げるようにして戴いたということです。
  年恵さんは時々善宝寺の池などにも、真夜中にたった一人で参詣に
  出掛けたりしたものです。」

   小竹繁井さんの実話

  小竹繁井さん。この人は年恵女より十歳あまり若く、最初長南一家
  との人達と同居した関係もあり、長南家が八日町に移ってからも、
、 再々泊りかけて遊びに行き、年恵女から非常に可愛がられた人だと
  かいうから、その談話も甚だ貴重な参考資料である。この繁井さん
  の直話。

  「年恵さんは、最初は鶏卵位食べたか知りませんが、私の知ってい
  る限りでは、水の外一切飲食物を摂らず、又、便通も大小とも全然
  ありませんでした。私はよく一共に歩きましたが、年恵さんは躯が
  軽いのか、足か迅く追いつけないで困りました。

  「年恵さんは、自分の部屋に他人の出入を一切厳禁していましたが、
  私丈は例外で、よく遊びに行きました。平生は別にこれと言って変
  ったこともないが、やがて田圃の方から(干葉氏の裏は北向きの田
  圃)風鈴の音のような音楽が聞えて来ると、今、何の神様がお出で
  になられるから、と言って私は室から出されたものです。神様によ
  って、音楽の音色が異るのだそうですが、私には、その区別がつき
  ませんでした。室の中では、神様と年恵さんとが、何やら談話を交
  えて居られたが、それは、一切きき取れませんでした。
  ある時は大黒様がお出でになり、縁側で大黒舞を舞われました。
  姿は見ることができなかったが、さらさらという衣擦れの音は、手
  に取るように聞えました。時とすれば、叉、障子の孔から金米糖な
  どが部屋の内へパラパラと投げ込まれ、私はそれを載いて、食ぺた
  ことがあります。

  「年恵さん達が八日町に移ってからのことある日善宝寺へ参詣する
  と言って、酒田の人と、私と、年恵さんと三人連れで出掛けたこと
  があります。池の奥の方に行くと、そこには、三なの小さいお宮が
  ある。年恵さんは、私達を、お宮の側に待たせて置き自分だけ一番
  奥の宮へ入りましたが、やがてお宮の内部でドタンバタンという大
  きな音がつづいた、不図、気がついて見ると縁の下から、大きな茶
  盆大の崎形の頭に金色の眼のっいた、不思議な姿のものが、チョコ
  チョコと二三度顔を出しました。少時の後、年恵さんがお宮から出
  て来て、今、何か見なかったかと申しますから、これこれの姿のも
  のを見たと話しますと、それは神様がお歓びのあまり、あなたに姿
  を見せたのだ。内部でドタンバタン大きな音を立てたのは、矢張り
  神様がお歓びになり私と相撲をとったのだ、と話されました。
  ただ不思議なことには、私の眼に、あんなにはっきり見えた神様の
  姿が、酒田の人には少しも見えなかったことです。神のお姿という
  ものは、見える人にのみ、見えるものだと思われます。

  「年恵さんとは、井岡の観音様にも、一緒に参詣したことがありま
  す。その時も矢張り私どもを、お堂の前面に待たせて置き、自分一
  人で内部に入り、何やら賑かそうな話声だけ聞えました。出て来て
  から年恵さんは、神様がお歓びだったと話されました。

  「私が勝手元で働いている時、不意に、今洗嗜たばかりのドンプリ
   が見えなくなったりします。私が困っていると、年恵さんか勝手へ
   出て来て、何か困ったことがないか、と訊ねますから、これこれだ
   と言いますと、それはそこにあると、上の方を指します。見ると
   チヤーンと棚の上にドン、ブジが載っていますこれに類した事は、
   他にもちよいちよいありました。

  「年恵さんの神通力には、いつも驚かされました。部屋の内に坐っ
   たままで何でも判るのです。親戚に不幸があるにも係らず、神様に
  参詣するものでもあると、すぐにそれを指摘して追いかえします。
  又経水のある婦人なども、即坐にとがめられました。その外何も
  彼も見通しのようでした。
  「不思議なのは、年恵さんのやられたお手かざすという行法です。
  風呂に水を汲み込んで、お手かざすをやると、少しも薪炭を用い
  ずに、風呂の水が忽ち熱くなりました。私はよく、このお手かざす
  の風呂に入ったものです。

  叉甘酒などもこのお手かざすで、すぐに出来ました。空瓶二本あれ
  ぱ、美味しい甘酒がいくらでも戴けるのです。その結構な味は今で
  も忘れられません。そのくせ、御自分は飲食物の不用な方です。
  そんなものは一切他人に施すだけでした。
  「神様の音楽は、最初は遠方に聞えますがだんだん接近し遂に年恵
  さんの部屋の内部に聞えます。部屋へは他人の出入を禁じてあるの
  で、どんな風にやつているものかは誰にも判りません。信者達はそ
  んな場合部屋の方に向つて礼拝したものです。」

  なお、これら干葉初江さんと小竹繁井さんの談話の要旨は、直結で
  ある丈け、その点は確実である。また患者の求めに応じて、空瓶に
  神水を授かる話、監獄に投ぜられたこと等の話も述べられてあるが、
  重復するのでここにかかげない。

  「年恵様の身体に異常現象を起したのは自分にははつきり申兼ねま
  すが、たしか明治二十五年頃最上町の干葉家に同居していられた頃
  かと記憶します。最初食物加胃に収まらぬので年恵様の母上は心痛
  のあまり星川医師の診療を乞うたというような市を耳にして居りま
  す。その頃から夜間睡眠中に同家の祖先の霊が年恵様に憑り、その
  口をかりて、丁度寝言のように、いろいろ物語をするので母人は大
  へん驚かれたそうです。その話をきき伝えて次第に神仏のお告を乞
  うものが増加し、後には睡眠中でなくとも丁むに念ずれば容易にお
  告を受けるようになったそうです。

  私が長南家に同居することになったのは明治三十年頃であります。
  私は他の信者達と共に、よく年恵様のお供をして、市内では三日
  町の本部皇太神宮、荒町の日技神社、井岡の観音堂又は下川の善
  宝寺池畔の竜神社等に参詣しました。いつも徒歩でしたが、年恵
  様は身軽で足早で、誰でも遅れ勝ちで弱りました。
  下川の池には鯉を放したこともあります。
  年恵様が神社に参拝される時には、私共は社の後方で拝していま
  したか、いつも竜神様その他の神様の姿がお現われになったらしく
  私どもの耳にも笛、しよう等の楽声が、はっきりと社の上方と思わ
  れる所に聞えました。
  
  私はお供しなかったが、鳥海山、湯殿山等の高山にも数回参詣され、
  その都度同行者の話によれば、年恵様の足の迅いには驚いたと申し
  て居りました。
  私が長南家に居りましたのは明治三十年から同三十四年までですが、
  その間近郷近在の難病者で救を求むるものは隨分沢山参り、母人は
  その応対にいっも忙殺されていました。

  病人が来ると、年恵様の躯には病人の病苦そのままのの苦痛が起り
  ましたので、実に並大低の苦労ではなかったのです。又物忌がきび
  しく年恵様はこれにも絶えず苦まれました。心なき人達が汚れた躯
  でお願いに来ると、その咎を年恵様が引受けて了うのです。
  それでも一心に助けを乞う人達を不憫に思われ、厭な顔一つせず、
  神様に願ってあげるので、いつとはなしに依頼者が集まり少い時も
  数人、多い時は二三十人に及ぶことがありました。

  私は十四歳の頃胃腸が悪く、母はいろいろと手当をしてくれました
  が治りません。当時私どもは酒田に住んでいましたが、不図年恵様
  の話をきき、母は身浄め、物忌を厳守して鶴岡八日町の長南家に参
  り、例の神授の薬水を戴いて帰りました。これが私どもと年恵様と
  の関係の初まりです。数回之を服用している中に胃病がすっかり全
  快して了いました。
 
  右の神授の薬水というのは、御承知の通り、こちらから瓶を持参し、
  栓のまま年恵様にお渡しするのです、すると年恵様は十本でも二十
  本でも神前にそれ等の瓶を並べてしばらく御祈願をすると、一度に
  御神水が瓶の中に出現するので、薬水の色は患者毎に皆異います
  私の持参した瓶は約三合入のもので、私自身戴きに上ったこともあ
  りました。年恵様は一人づつ患者を呼んで瓶を渡し、心得等につき
  てくわしくお話し下さるのでした。心掛の悪しきものは神水が下り
  ませんでした。

  年恵様が祈念さる時に出現されるのは神様と仏様と両方でした。
  その際聞える音楽は、天照大神はショウ、古峰ヶ原金鋼山様は、笛
  大日如来様は大きな音の鈴、弘法大師様は風鈴で、この風鈴が一ば
  ん頻繁に現われました。
  年恵様はよく突然姿を隠しました。今まで神前にいたのが、いつの
  間にか見えなくなるしばらくすると又いっの間にか帰って居られる
  のです。

  食事をせぬこと、便通のないことは事実ですが、ただ極めて稀に梨
  林檎などを少量食べられることはありました。しかし信者の持参し
  たものは、あれもいけないこれもいけないで殆んど手をつけること
  はありませんでした
  私が実地目撃した中で、今でも不思議と思っているのは、茅葺の物
  置小屋の突然の怪火でした。これは酒田町鵜渡川原の一信者の火難
  を爰に引き取ったものだそうで、小屋の内部は一面の猛火で、私は
  小供心にブルブル慄えながらそれを見物していました。火は今にも
  屋根裏に燃え移りそうに見えながら、やがで何事もなく鑓火し、そ
  して小屋に格納された品物も何一つとして焼けなかつたということ
  です。

  年恵様は機嫌のよい時は、よく戯れに腕相撲をとられましたが、筋
  骨逞しい農夫も到底その敵ではありませんでした。叉よく負つこを
  して遊びました。年恵様はどんな大男でも軽々と負われます。
  叉自分は重くなるも軽くなるも自由自在、軽い時は小児でも楽に負
  えるが、重い時は大男でも腰が切れない。
  そんな際の賑かさと言つたらありませんでした
  どんな大暑の候でも年恵様は汗をかかれません。又どんな酷寒の時
  でも凍えるということを知らない。躯には常に清香薫り、漆黒の丈
  なす頭髪には一本の後れ毛も又一点の雲脂もない。肌の色は白く清
  く、掌など殆んど透きとおる位でした。

  年恵様の慈非深いのはまことに天凛で、あんな心の美しい方が現世
  に又とあろうかと思われる位でした。貧しい者には金品を与え、
  病める者には、御自分の躯をささげて病苦を引受け、毎日のように
  死ぬほどの苦みをつづけられました。
  衆生済度という言葉はよく耳にしますが、年恵様のように如実に之
  を実践躬行された方はめつたにないのでないかと思われます。
  若い者に向つてよく言葉短かに学問をすすめ、不心得を戒められま
  したが、それが不思議にも深く聴く人を動かしました。

  私自身の身の上話をするのも心苦しい次第でございますが、実は私
  が鶴岡の高等女学校に入学しましたのも偏に年恵様の賜なのでござ
  います。明治二十七年私が十二歳の時酒田地方大震災の為めに私の
  家は全焼の厄に逢い赤貧の中を辛くも小学校に通学するのが関の山
  でした。しかるに明治三十年鶴岡に高等女学校が開設されますと、
  年恵様は私の母に向い、「自分は食事をせぬ身であるから、自分
  の代りにあなたのお子さんを預かり、女学校に通学させます」と言
  われ、私の母は感泣してその厚情に甘えたのでした。年恵様が他界
  されましたのは明治四十年十月二十九日のことでした。信者その他
  の集まりまして後片附をし、家財全部を売却しましたが、すべてを
  他人に施して了ってあるので売上金額は僅々数十円にしか上らなか
  ったそうです。

  雄吉氏の兄板倉寅蔵氏がそれと位牌とを預って祀っているときいて
  居ります。般若寺内の石は後に雄吉氏が建てられたものでございま
  す。 因みに年恵様の母君(美恵子)も一通りならぬ、立派な心懸
  の人でした。女の手一つで顛苦の裡に数人の子供を育てあげ、年恵
  様があのような身の上になられてからは、信者の収次やら、神仙の
  奉仕やら、食事の世話やら一切4 御自分の手一つに引受けられ、
  明治三十八年四月八日帰幽の前日まで忠実に立ち働き、一同の敬慕
  の標的となっていました。
  美恵子刀自の墓ぼ般若寺内の年恵様の墓と並んで建っています。」

   八尋さんの調査

  筆者の友入で故人になったが八尋加蔵君かかって(昭和十四年八月か)
  年恵氏の郷里鶴岡市へ出かけて、この世界的霊媒の生前の事蹟を調査
  したことがあった。その時の聞書きの一節を、次にかかげることにし
  よう。

   この年恵女の霊能について、いろい訓べて見たが、別にこれという
   霊能発揮にっいての修行のあとはなく、どうも先天的の霊能者であっ
   たことを同氏は断定していたが、その他彼女を知る周囲の人の話を綜
   合してもやはりどうもそうらしい。
  こういった先天的霊能者は、しらず、信仰をもっているもので、――
   もちろんそれが正しい信仰か、或はご利益信仰かは別であるかどうも、
  自身のやること、させられることが普通でないので、心霊科学を知ら
  ない、またそういった学問も、うっかりすると、否定されやすいのか、
  今日であることから考えてみても無理からなことで、つい、一般の信
  仰、その霊能者の教養と環境とによって、なにか信仰に進まされるら
  しい。これらの霊能者には哲学的とか、心理学方面に向うものもある
  がさて、そういった方面へ進んでしまえば自から修めた学問で自から
  の霊能を亡ろぼしてしまうらしい。

  年恵女も、やはり、信仰的な方面に生活か向いたことは、彼女は常に
  敬神尊仏の心持ちがあったらしく、彼女の家から一里前後離れた大泉
  村のお寺、同市外にある善宝寺、ことにそのお寺の内にあるお堂には、
  毎月何回かは、定期的にお参りしていた。お宮では、やはり、一里位
  離れた貴船神社に参詣していたようだ。

  この調査をした八尋氏も、われわれ同様に心霊研究を科学的によって
  やろうとした人であるだけ、年恵女の霊言にも、亦、霊聴の音楽に叉、
  直接吹奏現象にしても[あれは神様が下りられたしるしである]とか、
  「しようは天照大神である」の、「笛は金鋼さん」だとか「大きな鈴
  の音は大日如来、小さいのは弘法大師さんだ」といったことが語られ
  ているが、このことについて、はたして、そのことが真か疑か、大神
  位が、そんなことをされるものかについて、その記録に疑門をもって
  いたので、このことについては、いろいろの方面、角度から調査研究
  していたので、その出張時にも、彼女を知る人から、何か得るところ
  はないかと、われわれにとって重大問題でもある、このことについで
  尋ねてみたり、その研究の資料になるものはないかを、さがしたよう
  だ。が、それが何れの場合もその霊の或は神の系統に属するところの
  霊であったか叉は同一の霊の芝居か、各社系統の霊の通訳をしたもの
  か、これを知ることができなかった。

  訪問した方々のうち、八日町の須田藤次郎さんからまとまった話を聞
  いたといってこの須田さんの話を、次のように語っていた。
  もちろん、須田さんは年恵女の帰幽された日まで、彼女と往復されて
  いた方である。
  年恵さんは三十四・五才に霊能が初まり四十才から四十六才までが、
  その最高潮で、四十七才の現象はまことに驚くことが多かった。
  それは、四十七才で始めて月経があったそして、それから帰幽まで毎
  月キチキチあった。これと同時に、食事も普通人と同じように摂取す
  るようになったが、霊能は全く失つてしまった。
  このことから考え、年恵女の霊能発揮は、全然、背後の支配霊が肉体
  もろ  とも使っていたことといえる。

   先天的の霊能者には、よくこんな例を見る肉体の全部を霊に任せき
  ったと言うことは、いわゆる、霊肉一致に近い行動である。
  こうなると、多くの場合、入神せず、平常のままで、そのまま、霊能
  を発揮していることになりここまで行けば、精神統一は完成されたこ
  ととも言える状態である。
   例えば学者モーゼスが、最初は疑問をもって、いつも研究的態度を
  とっていたが、もちろん、それがため、心霊現象の研究には苦心した、
  その努力の賜として、彼は33才の年に自らの持っていた霊能を発揮
  しどんな現象も彼の背後霊が彼の使命を達成させるためにやらせた。
  しかも、彼は多くの場合は、入神せず、普通意識のままで現象を発揮
  している。(終)


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