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食事と健康について [健康]

心霊と人生誌 特集号 ガイドブック 佐々木静
の書籍の一部抜粋の文です。
食事と健康について
       脇 長生
〇小麦胚芽のビタミンEは、公害とその影響を防ぎ、体質が変わる。
〇ビタミンEの摂取は、サプリメント(栄養補助食品)では役に立たない。
〇ビタミンEは怪我やヤケドにも効く。
〇野草の灰汁には生命素がある。
〇小児喘息は青汁・胚芽で治る。
〇リュウマチ神経痛には甘い物がいけない。一切やめて小麦胚芽と青汁を飲め。
〇体の使い過ぎ、利己的な心、酸性の食べ物、肉食全般、卵・牛乳すべて悪い。
〇アルカリ性の食べ物を摂取すれば、守護霊が働きやすくなる。
〇肉食の害は度重なると蓄積されるので、平素から菜食の信念でいれば、
 やむを得ず肉を食べた場合でも、小麦胚芽、青汁や、下痢により外に出してくれる。
 日頃の心構えが大切。
〇肉食から癌になる。
〇癌は薬では治らない。薬の副作用で悪化して死ぬ。
〇盲腸は癌を治す作用があるので、70パーセントの確立で切除しなくてよい。
〇肉食、薬の飲用によりサリマイド児が生まれるが、ここに来ている人には、絶対にサリマイド児は生まれぬ。
 こういう子どもでも、甘やかさねば何でもできるようになる。
〇同情心は良くない、激励してあげよ。
〇心配、取り越し、ストレス、イライラなどの不統制の心の時は、自然治癒力が働かない。
〇病気の心配をした時は、自分の心で病をつくる。
〇病気は二晩で治る。
〇ほうれん草は酒とは相性がよくない。
〇氷り豆腐は体によい。アンモニアは水につけて洗っているうちに溶けてなくなる。
〇料理は緑色のもの一色では足りない。五種類(赤・白・黄・緑・黒)の色を使え。
〇ニンジン・ユキノシタは首から上の病気に効く。
〇食べ物によって性格が変わる。
〇意念の統制が大切である。食べ物によって意念の統制ができやすくなる。
〇結核の人は、薬や肉食をやめて運動せよ。
〇身体は出来るだけ動かせ。
〇肉体も大切にせよ。肉体を使うのは霊魂である。
〇痛みは現在の状態を変えようとしているシルシである。
〇水を飲んでから入浴すれば、汗をかいて毒素が出る。
〇中気の人は入浴時に掌の中央をよく揉み、関節、足の土踏まずをよく揉め。
〇汗は寝汗でもよい。寝汗は疲れているとかく。
〇牛乳を飲むと子供の性格が変わる。
〇生れたて赤ちゃんの頭のおできは、毒素が外部に出るので有り難いことである。しかし医師が薬を体の中に入れて、脳に行かせてしまう。
〇因縁霊の働かぬ家でも、薬を引用したり、肉食をすると、病気になる。
〇アレルギーは霊的な面と、肉食でおきる。
〇因縁霊は、家族みんなで精神統一しないと、家族の弱い者に憑く。(意念の統制が大事)
〇因縁霊は結婚問題、男女関係、お産の時に、隙を見て働きかける。
〇地縛霊も因縁霊である。
〇因縁霊と波長が合えば、憎しみを持った霊が働きかける。
〇祖先霊は向上するように祈らなければならない。しかし、未発達霊は難しい。
〇結婚すると、祖先は嫁家先になる。
〇精神統一とは祖先と良い連絡えを取ることである。
〇精神統一とは背後を整理することである。
〇最近に亡くなった母子、先妻、近親者等の霊が原因で、問題となることがある。これらを未発達霊という。
〇事故によって轢き殺された霊は地縛霊となって人に取り憑き、殺す。
〇今、戦死した霊が目覚め、事故死させている。(地縛霊のいるところに多い)
〇悪霊とは、大雑把な言い方である。(未発達霊のこと)
〇悪霊の働きかけにより、悪心を持たされる。
〇悪霊と波長を合わさないかぎり、その人はやられぬ。
〇霊にも善悪の霊がいるが、自惚れ、増上慢の心の隙に悪霊が入り込む。
〇心霊の学問は裏付けの必要がある。裏付けを確認しつつ進める。
〇真の人間観の上に立ち、真の人間の話を聞いて理解する。
〇唯物的人間で、物質的(肉体)な観念を持っていると、悪霊はその人を使いやすい。
〇真の人を理解した、応用して実験するのが神霊主義。
〇真の人間とは霊的なものである。
〇肉体も認め、心霊の意味を理解して、霊魂を認めよ。
〇人間は霊の上に立って生活している。
〇私達は霊魂で生きている(因縁)
〇死ぬまで心を大切に。
〇恐れ、心配は良くない。特に恐怖心を持つな。
〇自分で自立しようとする心が大切。
〇信念に燃えよ。そして自覚せよ。
〇恐ろしいことは何もない。恐ろしいのは自分の背後である。
〇不調和の心(憎しみ等)は幽界に届く。
〇子供を甘やかすと他力を頼むようになり、底力のない子どもになる。
〇我が強く、自惚れが強く、感謝が足らないで、自分の考えで判断して行動することはいけない。有頂点になるな。
〇自覚して感謝すること。神霊主義の心を忘れるな。
〇神霊主義、即、精神修養である。真の人間を認めた道徳を持て。
〇神霊主義を理解し、霊魂によって、人は生かされていることを自覚し、守護霊に感謝して、心配はやめよ。
〇守護霊が働いた天才は、自分も幸せ。
〇守護霊が働いていない人は、一家を破滅する天才である。
〇守護霊に守られるような生活をするには、先ず感謝から出発することが第一である。
〇除霊や向上に捕らわれるな。しかし、第三者に話す時は必要である。
〇正しい心霊常識を持って、相手に応じて話すこと。
〇心霊の理解力、心の持ち方いかんにより霊が働く。霊は絶対である。欲を出してはならぬ。奉仕の精神で行け。
〇死後の世界とは、地上で肉体を念で生きていた、代々の霊魂が永久に滅びないで住んでいる所である。
〇肉体に終末はあるが、霊魂にはない。
〇学問や科学は宇宙の真理を説く。
〇真理探究、即、幸せの道。
〇日本政府は何でも後手になって、慌てる。(薬、病気、食べ物)
〇仏教は唯物論、唯物は物。
〇新霊魂論の上に立った人生観が常識の基礎。
〇精神的に疲れているときに、雑夢を見る。雑夢は自分が呼んだものである。
〇意念の不統制
  怒り、嫉妬、争い、怨み、邪推、偏狭心(これらが憎しみの派生です)
  うそ、偽り、虚栄心、利己心、不調和、自惚れ、依頼心、良心に背反する心
  (これらが肉体的欲望であり、我執的のものといえます)
  心配、気がね、あせり、いらいら、ひがみ、引っ込み思案
  (これらを取り越し苦労といえるでしょう)
 これらを除けば意念の統制ができていると言ってよいと思います。

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模型ヨット帆走 [旅人]

自作ヨット(紙、木、布)の帆走


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旅行 [旅人]

世界遺産旅行のリンクを貼ります。

是非ご覧下さい。



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長南年恵3 [心霊広場]

     附  記

  ここで、最後に、神戸9 方裁判所の無罪判決の有力な、証拠物件
  として掲げて置きたいのは、当時この神戸地方裁判所に於ける公判
  廷の状況を記載した明治三十三年十二月十四日付の「大阪毎日新聞
  」の記事である。何といっても急忙の際に執筆編集する新聞記事の
  通弊として、事実の錯誤が可なりに多く見出されることで、実際は
  二分間であった電話室内の時間を"五分"としてあるりは些事ながら
  誤りである。叉実験後再び公判廷を開いて無罪を宣告した事実を
  反対に、無罪放免の後、弁護士連が好奇心から試験を行ったように
  書いてあるのは甚だしき誤謬である。が、此記事-他の新聞記事も
  多くはそうであるが・・においてもっとも苦々しいのは記者の態
  度の、いかにも浮薄な、何等の真実味をも有っていないことである
  どうせ、新聞記者が、専門の心霊学者ではないのだから、誰しも之
  に対し、余り多くを求めはしないが、知らないなら、知らないとか
  判らないなら判らないとか、何とか然るべき書き方がありそうなも
  のである。ところが、多くは兎に角歯の浮くようなキザな筆致を弄
  するのは、余りほめたヤリロではない。この大毎の記事なども、あ
  る意味では心霊現象に対する日本の新聞紙の三面記事の代表的傑作
  ?と称してよいもともいえよう。

  ○女生紳の試験(これが見出である)

  自から神変不可思議光如来を気取る、例の女生神長南年恵も末世
  なればにや、情なくも獄卒の手にかかり、異に大阪区裁判所にて拘
  留十日の処分となりしを不服とし、所々上告し廻りし結果、大阪控
  訴院の宣告により神戸他方裁判長中野岩栄、陪席判事野田文一郎、
  岸本市太郎、検事高木蔵吉、弁護士横山鉱太郎諸氏にてその公判を
  開きしが、詰り証拠不充分なりとて無罪放免の身となれり。これに
  就て弁護士詰所に居合せたる弁護士連が兎に角彼が神授と称する神
  水こそ世に不思議の限りなれば、試験を行うこそ上けれと、本人の
  生神に申込みたるに、それこそ望む所なりと、容易に承知したるに
  ぞ、先づ同詰所の電話室を仮の試験所に充て、本人の衣服身体を充
  分に改めしは更なり、電話皇をも塵一本だに残らざる様掃除せし上
  イザとて生神に小瓶を持たせたるままその中に閉込めしに、中にて
  何やらん呪文の如合を念唱する気合ありしが、僅かに五分間にして
  裡の戸をコトコトと叩きつつ出で来るを見れば、不思議や携えたる
  小瓶の中には濃黄色を帯びたる肉桂水の如きを一杯に盛りつつ、静
  々として顕れ出てたり。生神のいう所によれば。ただに一本の瓶の
  みならず、幾十本たりとも三方の上に載せ、祈念一唱すれば、その
  瓶の主なる病人の病症に応じたる神水を天より賜わるなりと厳かに
  語りたり。その真偽は暫く措さ、本人の身体及ぴ室内をもまのあた
  りあらためしに、五分間を待たずして神水を盛りつつ顕れ出るは兎
  に角不思議なり。或は口中より吐きたるならんというものもあれど
  その液体は色こそ少しく茶色を帯びたれ、透明液にして口中より吐
  きたるものとは認め難く、さりとて神授なんど世にあるぺしとも思
  われれば、更に確むるこそよかれとて、弁護士中の好事家は、日を
  期し更にその真相を探り極めんと、用意をさをさ怠りなしと聞く。
    (「大阪毎日新聞」明治三十三年十二月十四日第七頁所載)


  ルポ   長南年恵女の霊能を語る
              χ ・ Y ・ Z

  この資料はかって、本誌に掲載されたものである。当時(昭和7年)
  の会員山本寅一氏からの寄稿で、その内容は二人の年恵女の知人の
  談話が総合されたものと、又別に年恵女にお世話になった人の実話
  がその骨組みとなっているものである。

   原寅一氏の報告の要旨・・・
  長南家は、元鶴岡市般若寺裏(最上町)矢場小路にあり年恵女の父
  は早死、兄干代太郎氏が相続したが、同氏は産を治むることが拙で、
  やがて家屋敷を売払い、同じ般若寺裏の小竹という人の家に一時間
  借りして母、弟、妹達と共に住むこととなった。
 
   小竹氏の向側に、千葉寛敬という人が居て当時巡査を奉職してい
  た。職務の関係上、不在勝ちなことが多いので、長所一家の人達は
  やがてこの人の家に同居し、後、家族のものが主人の勤務先きに、
  全部移住するに及び、全家を借り受け、程経て、八日町に移転する
  時まで、干葉氏の家を根拠としていた。寛敬氏並にその妻女の初江
  という人達は共に七十一歳の高齢で、今尚健在であり(昭和七年)
  年恵女の事蹟を知るには、最も有力な生証文である訳だ。
  左記は、初江氏の実話による、年恵女の神がかりの発端を知るもの
  である。

      千葉初江さんの実話

  「年息さんが私の宅に来てから、凡そ一年間ほど、同居していまし
  たが、最初の頃は肉体が弱く碌に食物を摂らす、一日に鶏卵一個
  乃至二個位を食べるのみでした。その後、食物は一切摂らなくなっ
  たとききましたが、それは自分達と別れてからの事であります。

  「年恵さんは、睡眠中に他界へでも行くものか、覚めてから、よく
  死んだ人達の状況を物語ったものです。従って、誰かが死んだ場合
  には、よく、年恵さんに依って、その人の死後の模様をさぐらせた
  ものです。

  「年恵さんは、叉よく神のお告げを受けました。最初は格別信仰が
  あるようにも思まへなかったが、いっの間にか竪い信心家になりま
  した。

  「ある夜、年恵さん。は私に向い、今夜般若寺の木仏様から、お授
  け物があるから一共に行きましよう、と誘いますので、同行しまし
  たところ、一銭銅貨を紙に包んだのが、二包ほど置いてあって、そ
  れを戴いて帰りました。
  伜の直操はその頃幼い子供でしたが、これも年恵さんに誘われて、
  山王様(日技神社)に参詣した時に、筆を一本授けられました。そ
  の筆は、お宮の奥の方から投げるようにして戴いたということです。
  年恵さんは時々善宝寺の池などにも、真夜中にたった一人で参詣に
  出掛けたりしたものです。」

   小竹繁井さんの実話

  小竹繁井さん。この人は年恵女より十歳あまり若く、最初長南一家
  との人達と同居した関係もあり、長南家が八日町に移ってからも、
、 再々泊りかけて遊びに行き、年恵女から非常に可愛がられた人だと
  かいうから、その談話も甚だ貴重な参考資料である。この繁井さん
  の直話。

  「年恵さんは、最初は鶏卵位食べたか知りませんが、私の知ってい
  る限りでは、水の外一切飲食物を摂らず、又、便通も大小とも全然
  ありませんでした。私はよく一共に歩きましたが、年恵さんは躯が
  軽いのか、足か迅く追いつけないで困りました。

  「年恵さんは、自分の部屋に他人の出入を一切厳禁していましたが、
  私丈は例外で、よく遊びに行きました。平生は別にこれと言って変
  ったこともないが、やがて田圃の方から(干葉氏の裏は北向きの田
  圃)風鈴の音のような音楽が聞えて来ると、今、何の神様がお出で
  になられるから、と言って私は室から出されたものです。神様によ
  って、音楽の音色が異るのだそうですが、私には、その区別がつき
  ませんでした。室の中では、神様と年恵さんとが、何やら談話を交
  えて居られたが、それは、一切きき取れませんでした。
  ある時は大黒様がお出でになり、縁側で大黒舞を舞われました。
  姿は見ることができなかったが、さらさらという衣擦れの音は、手
  に取るように聞えました。時とすれば、叉、障子の孔から金米糖な
  どが部屋の内へパラパラと投げ込まれ、私はそれを載いて、食ぺた
  ことがあります。

  「年恵さん達が八日町に移ってからのことある日善宝寺へ参詣する
  と言って、酒田の人と、私と、年恵さんと三人連れで出掛けたこと
  があります。池の奥の方に行くと、そこには、三なの小さいお宮が
  ある。年恵さんは、私達を、お宮の側に待たせて置き自分だけ一番
  奥の宮へ入りましたが、やがてお宮の内部でドタンバタンという大
  きな音がつづいた、不図、気がついて見ると縁の下から、大きな茶
  盆大の崎形の頭に金色の眼のっいた、不思議な姿のものが、チョコ
  チョコと二三度顔を出しました。少時の後、年恵さんがお宮から出
  て来て、今、何か見なかったかと申しますから、これこれの姿のも
  のを見たと話しますと、それは神様がお歓びのあまり、あなたに姿
  を見せたのだ。内部でドタンバタン大きな音を立てたのは、矢張り
  神様がお歓びになり私と相撲をとったのだ、と話されました。
  ただ不思議なことには、私の眼に、あんなにはっきり見えた神様の
  姿が、酒田の人には少しも見えなかったことです。神のお姿という
  ものは、見える人にのみ、見えるものだと思われます。

  「年恵さんとは、井岡の観音様にも、一緒に参詣したことがありま
  す。その時も矢張り私どもを、お堂の前面に待たせて置き、自分一
  人で内部に入り、何やら賑かそうな話声だけ聞えました。出て来て
  から年恵さんは、神様がお歓びだったと話されました。

  「私が勝手元で働いている時、不意に、今洗嗜たばかりのドンプリ
   が見えなくなったりします。私が困っていると、年恵さんか勝手へ
   出て来て、何か困ったことがないか、と訊ねますから、これこれだ
   と言いますと、それはそこにあると、上の方を指します。見ると
   チヤーンと棚の上にドン、ブジが載っていますこれに類した事は、
   他にもちよいちよいありました。

  「年恵さんの神通力には、いつも驚かされました。部屋の内に坐っ
   たままで何でも判るのです。親戚に不幸があるにも係らず、神様に
  参詣するものでもあると、すぐにそれを指摘して追いかえします。
  又経水のある婦人なども、即坐にとがめられました。その外何も
  彼も見通しのようでした。
  「不思議なのは、年恵さんのやられたお手かざすという行法です。
  風呂に水を汲み込んで、お手かざすをやると、少しも薪炭を用い
  ずに、風呂の水が忽ち熱くなりました。私はよく、このお手かざす
  の風呂に入ったものです。

  叉甘酒などもこのお手かざすで、すぐに出来ました。空瓶二本あれ
  ぱ、美味しい甘酒がいくらでも戴けるのです。その結構な味は今で
  も忘れられません。そのくせ、御自分は飲食物の不用な方です。
  そんなものは一切他人に施すだけでした。
  「神様の音楽は、最初は遠方に聞えますがだんだん接近し遂に年恵
  さんの部屋の内部に聞えます。部屋へは他人の出入を禁じてあるの
  で、どんな風にやつているものかは誰にも判りません。信者達はそ
  んな場合部屋の方に向つて礼拝したものです。」

  なお、これら干葉初江さんと小竹繁井さんの談話の要旨は、直結で
  ある丈け、その点は確実である。また患者の求めに応じて、空瓶に
  神水を授かる話、監獄に投ぜられたこと等の話も述べられてあるが、
  重復するのでここにかかげない。

  「年恵様の身体に異常現象を起したのは自分にははつきり申兼ねま
  すが、たしか明治二十五年頃最上町の干葉家に同居していられた頃
  かと記憶します。最初食物加胃に収まらぬので年恵様の母上は心痛
  のあまり星川医師の診療を乞うたというような市を耳にして居りま
  す。その頃から夜間睡眠中に同家の祖先の霊が年恵様に憑り、その
  口をかりて、丁度寝言のように、いろいろ物語をするので母人は大
  へん驚かれたそうです。その話をきき伝えて次第に神仏のお告を乞
  うものが増加し、後には睡眠中でなくとも丁むに念ずれば容易にお
  告を受けるようになったそうです。

  私が長南家に同居することになったのは明治三十年頃であります。
  私は他の信者達と共に、よく年恵様のお供をして、市内では三日
  町の本部皇太神宮、荒町の日技神社、井岡の観音堂又は下川の善
  宝寺池畔の竜神社等に参詣しました。いつも徒歩でしたが、年恵
  様は身軽で足早で、誰でも遅れ勝ちで弱りました。
  下川の池には鯉を放したこともあります。
  年恵様が神社に参拝される時には、私共は社の後方で拝していま
  したか、いつも竜神様その他の神様の姿がお現われになったらしく
  私どもの耳にも笛、しよう等の楽声が、はっきりと社の上方と思わ
  れる所に聞えました。
  
  私はお供しなかったが、鳥海山、湯殿山等の高山にも数回参詣され、
  その都度同行者の話によれば、年恵様の足の迅いには驚いたと申し
  て居りました。
  私が長南家に居りましたのは明治三十年から同三十四年までですが、
  その間近郷近在の難病者で救を求むるものは隨分沢山参り、母人は
  その応対にいっも忙殺されていました。

  病人が来ると、年恵様の躯には病人の病苦そのままのの苦痛が起り
  ましたので、実に並大低の苦労ではなかったのです。又物忌がきび
  しく年恵様はこれにも絶えず苦まれました。心なき人達が汚れた躯
  でお願いに来ると、その咎を年恵様が引受けて了うのです。
  それでも一心に助けを乞う人達を不憫に思われ、厭な顔一つせず、
  神様に願ってあげるので、いつとはなしに依頼者が集まり少い時も
  数人、多い時は二三十人に及ぶことがありました。

  私は十四歳の頃胃腸が悪く、母はいろいろと手当をしてくれました
  が治りません。当時私どもは酒田に住んでいましたが、不図年恵様
  の話をきき、母は身浄め、物忌を厳守して鶴岡八日町の長南家に参
  り、例の神授の薬水を戴いて帰りました。これが私どもと年恵様と
  の関係の初まりです。数回之を服用している中に胃病がすっかり全
  快して了いました。
 
  右の神授の薬水というのは、御承知の通り、こちらから瓶を持参し、
  栓のまま年恵様にお渡しするのです、すると年恵様は十本でも二十
  本でも神前にそれ等の瓶を並べてしばらく御祈願をすると、一度に
  御神水が瓶の中に出現するので、薬水の色は患者毎に皆異います
  私の持参した瓶は約三合入のもので、私自身戴きに上ったこともあ
  りました。年恵様は一人づつ患者を呼んで瓶を渡し、心得等につき
  てくわしくお話し下さるのでした。心掛の悪しきものは神水が下り
  ませんでした。

  年恵様が祈念さる時に出現されるのは神様と仏様と両方でした。
  その際聞える音楽は、天照大神はショウ、古峰ヶ原金鋼山様は、笛
  大日如来様は大きな音の鈴、弘法大師様は風鈴で、この風鈴が一ば
  ん頻繁に現われました。
  年恵様はよく突然姿を隠しました。今まで神前にいたのが、いつの
  間にか見えなくなるしばらくすると又いっの間にか帰って居られる
  のです。

  食事をせぬこと、便通のないことは事実ですが、ただ極めて稀に梨
  林檎などを少量食べられることはありました。しかし信者の持参し
  たものは、あれもいけないこれもいけないで殆んど手をつけること
  はありませんでした
  私が実地目撃した中で、今でも不思議と思っているのは、茅葺の物
  置小屋の突然の怪火でした。これは酒田町鵜渡川原の一信者の火難
  を爰に引き取ったものだそうで、小屋の内部は一面の猛火で、私は
  小供心にブルブル慄えながらそれを見物していました。火は今にも
  屋根裏に燃え移りそうに見えながら、やがで何事もなく鑓火し、そ
  して小屋に格納された品物も何一つとして焼けなかつたということ
  です。

  年恵様は機嫌のよい時は、よく戯れに腕相撲をとられましたが、筋
  骨逞しい農夫も到底その敵ではありませんでした。叉よく負つこを
  して遊びました。年恵様はどんな大男でも軽々と負われます。
  叉自分は重くなるも軽くなるも自由自在、軽い時は小児でも楽に負
  えるが、重い時は大男でも腰が切れない。
  そんな際の賑かさと言つたらありませんでした
  どんな大暑の候でも年恵様は汗をかかれません。又どんな酷寒の時
  でも凍えるということを知らない。躯には常に清香薫り、漆黒の丈
  なす頭髪には一本の後れ毛も又一点の雲脂もない。肌の色は白く清
  く、掌など殆んど透きとおる位でした。

  年恵様の慈非深いのはまことに天凛で、あんな心の美しい方が現世
  に又とあろうかと思われる位でした。貧しい者には金品を与え、
  病める者には、御自分の躯をささげて病苦を引受け、毎日のように
  死ぬほどの苦みをつづけられました。
  衆生済度という言葉はよく耳にしますが、年恵様のように如実に之
  を実践躬行された方はめつたにないのでないかと思われます。
  若い者に向つてよく言葉短かに学問をすすめ、不心得を戒められま
  したが、それが不思議にも深く聴く人を動かしました。

  私自身の身の上話をするのも心苦しい次第でございますが、実は私
  が鶴岡の高等女学校に入学しましたのも偏に年恵様の賜なのでござ
  います。明治二十七年私が十二歳の時酒田地方大震災の為めに私の
  家は全焼の厄に逢い赤貧の中を辛くも小学校に通学するのが関の山
  でした。しかるに明治三十年鶴岡に高等女学校が開設されますと、
  年恵様は私の母に向い、「自分は食事をせぬ身であるから、自分
  の代りにあなたのお子さんを預かり、女学校に通学させます」と言
  われ、私の母は感泣してその厚情に甘えたのでした。年恵様が他界
  されましたのは明治四十年十月二十九日のことでした。信者その他
  の集まりまして後片附をし、家財全部を売却しましたが、すべてを
  他人に施して了ってあるので売上金額は僅々数十円にしか上らなか
  ったそうです。

  雄吉氏の兄板倉寅蔵氏がそれと位牌とを預って祀っているときいて
  居ります。般若寺内の石は後に雄吉氏が建てられたものでございま
  す。 因みに年恵様の母君(美恵子)も一通りならぬ、立派な心懸
  の人でした。女の手一つで顛苦の裡に数人の子供を育てあげ、年恵
  様があのような身の上になられてからは、信者の収次やら、神仙の
  奉仕やら、食事の世話やら一切4 御自分の手一つに引受けられ、
  明治三十八年四月八日帰幽の前日まで忠実に立ち働き、一同の敬慕
  の標的となっていました。
  美恵子刀自の墓ぼ般若寺内の年恵様の墓と並んで建っています。」

   八尋さんの調査

  筆者の友入で故人になったが八尋加蔵君かかって(昭和十四年八月か)
  年恵氏の郷里鶴岡市へ出かけて、この世界的霊媒の生前の事蹟を調査
  したことがあった。その時の聞書きの一節を、次にかかげることにし
  よう。

   この年恵女の霊能について、いろい訓べて見たが、別にこれという
   霊能発揮にっいての修行のあとはなく、どうも先天的の霊能者であっ
   たことを同氏は断定していたが、その他彼女を知る周囲の人の話を綜
   合してもやはりどうもそうらしい。
  こういった先天的霊能者は、しらず、信仰をもっているもので、――
   もちろんそれが正しい信仰か、或はご利益信仰かは別であるかどうも、
  自身のやること、させられることが普通でないので、心霊科学を知ら
  ない、またそういった学問も、うっかりすると、否定されやすいのか、
  今日であることから考えてみても無理からなことで、つい、一般の信
  仰、その霊能者の教養と環境とによって、なにか信仰に進まされるら
  しい。これらの霊能者には哲学的とか、心理学方面に向うものもある
  がさて、そういった方面へ進んでしまえば自から修めた学問で自から
  の霊能を亡ろぼしてしまうらしい。

  年恵女も、やはり、信仰的な方面に生活か向いたことは、彼女は常に
  敬神尊仏の心持ちがあったらしく、彼女の家から一里前後離れた大泉
  村のお寺、同市外にある善宝寺、ことにそのお寺の内にあるお堂には、
  毎月何回かは、定期的にお参りしていた。お宮では、やはり、一里位
  離れた貴船神社に参詣していたようだ。

  この調査をした八尋氏も、われわれ同様に心霊研究を科学的によって
  やろうとした人であるだけ、年恵女の霊言にも、亦、霊聴の音楽に叉、
  直接吹奏現象にしても[あれは神様が下りられたしるしである]とか、
  「しようは天照大神である」の、「笛は金鋼さん」だとか「大きな鈴
  の音は大日如来、小さいのは弘法大師さんだ」といったことが語られ
  ているが、このことについて、はたして、そのことが真か疑か、大神
  位が、そんなことをされるものかについて、その記録に疑門をもって
  いたので、このことについては、いろいろの方面、角度から調査研究
  していたので、その出張時にも、彼女を知る人から、何か得るところ
  はないかと、われわれにとって重大問題でもある、このことについで
  尋ねてみたり、その研究の資料になるものはないかを、さがしたよう
  だ。が、それが何れの場合もその霊の或は神の系統に属するところの
  霊であったか叉は同一の霊の芝居か、各社系統の霊の通訳をしたもの
  か、これを知ることができなかった。

  訪問した方々のうち、八日町の須田藤次郎さんからまとまった話を聞
  いたといってこの須田さんの話を、次のように語っていた。
  もちろん、須田さんは年恵女の帰幽された日まで、彼女と往復されて
  いた方である。
  年恵さんは三十四・五才に霊能が初まり四十才から四十六才までが、
  その最高潮で、四十七才の現象はまことに驚くことが多かった。
  それは、四十七才で始めて月経があったそして、それから帰幽まで毎
  月キチキチあった。これと同時に、食事も普通人と同じように摂取す
  るようになったが、霊能は全く失つてしまった。
  このことから考え、年恵女の霊能発揮は、全然、背後の支配霊が肉体
  もろ  とも使っていたことといえる。

   先天的の霊能者には、よくこんな例を見る肉体の全部を霊に任せき
  ったと言うことは、いわゆる、霊肉一致に近い行動である。
  こうなると、多くの場合、入神せず、平常のままで、そのまま、霊能
  を発揮していることになりここまで行けば、精神統一は完成されたこ
  ととも言える状態である。
   例えば学者モーゼスが、最初は疑問をもって、いつも研究的態度を
  とっていたが、もちろん、それがため、心霊現象の研究には苦心した、
  その努力の賜として、彼は33才の年に自らの持っていた霊能を発揮
  しどんな現象も彼の背後霊が彼の使命を達成させるためにやらせた。
  しかも、彼は多くの場合は、入神せず、普通意識のままで現象を発揮
  している。(終)


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長南年恵2 [心霊広場]

      霊水湧出と同時に無罪

   話題が裁判問題に入るにおよび、長南氏の談話にはいよいよ熱度
  が加わりました。そして同氏は語りつづける。――
   「裁判問題は、右の様な次第で大変手間がとれましたが、其間に
  大阪控訴院においての控訴上告は破棄されまして、神戸地方裁判所
  で再審査を受けることになりました。当時この事件に関係した判検
  事をはじめ、弁護士に至るまで、今でもほとんど全部行方がわかっ
  ているのは、資料の権威を加える点につき甚だ好都合であります。
  この事件の裁判長は中野という判事で、私が現在どうなったか存じ
  ませすのはこの方だけです。陪席判事は岸本さんで現在は大阪で弁
  護士を開業しておられます。又検事の高木さんも矢張り只今老松町
  で辨護土、それから私のほうで依頼した辨護士が、御承知の横山鉱
  太郎氏…・現在では東京控訴院の検事部長を勤めて居られます。お
  閑がお在りなら一応此等の関係者に就きて当時の実状の調査をなさ
  れたらまた何かの新材料が手に入らぬものでもなく、また私の談話
  の裏書ともなるわけです。是非機会を見てそうなさることを希望致
  します。


  〔編者註〕 この記事の資料は1 九年十一月当時のもの
   「さていよいよ十二月十二日をもって神戸地方裁判所において公
  判の開廷という段取りに進みました。ここ?。法廷の模様を一々述
  べる必要はございますまい。裁判長、陪席判事、立会の検事をけじ
  め辨護士、被告等すべて型の如き訊問が一通り済みました。やがて
  中野裁判長から「被告はこの法廷においても霊水を出すことができ
  るか」の質問でした。姉は平然と「それはお易いことでございます。
  が、ただちよっと身4 隠す場所を貸して戴きたい」と答えました。
  そこでいよいよ適当の場所に於て実験執行ということになり、一旦
  法廷は閉ぢられました。

  「裁判官はその実験の場所について暫時会議を遂げた上で、結局
  弁護士詰所が選定されることになりました。ご承知かも知りません
  が、当時神戸の裁判所は新築中で、弁護士詰所の如きも、やっと電
  話室が出来上ったばかりで、電話の取附はまだしてありませんでし
  た。この電話室を塵一つ留めぬまでに掃除し、姉をその中に入れる
  ことになったのであります。
  「いよいよ実験となると、姉は裸体にされ、着衣その他につき厳
  重なる検査を施行されたことは申すまでもありません。そして裁判
  長自ら封印した二合入りの空珊一を、手づから姉に渡し、係りの判
  検事は申す迄もなく、弁護士やら官吏やら多数環視の裡に、姉は静
  かに右の電話室にはいって行ったのであります。

  「姉が電話室に入ると同時に、私は携帯の時計を取り出して時間を
  計りました 0すると正に二分、時を経過した時、電話室の内から
  コツコツと合図が聞えます。そして、扉が開かれて立ちでた姉の片
  手には、茶褐色の水で以て充たされた二合壜が元の通り封印のまま
  で、携えられていたのであります。
  「公判廷は再び開廷せられ、茶褐色の水の充ちたる二合壜は判官の
  机上に置かれました。裁判長と被告との間には次ぎのような奇問奇
  答が交換されました。

  問「この水は何病に利くのか」
  答「万病に利きます。特に何病に利く薬と神様にお願いした訳では
    ございませぬから……」
  問「この薬を貰って置いて宜しいか」
  答「宜しうござります」

  このようにして訊問は終り、即刻無罪の宜告が下りました。
  「神戸の裁判所でこのように無罪の宜告を受けはしましたが、重ね
  重ねの裁判沙汰は無邪気な年恵女の精神に余程の苦悩を蒙らせたよ
  うです。「大阪などにいるのは厭だ!」1-そう言って、彼女は、
  翌年三十四年にさっさと郷里の鶴岡に帰ってしまいました。従って
  京都大学にたのんで実験させようとした最初`の計画はこの時にも
  実行されずに終っでしまいました。
  「それに彼女を学問研究の対象とするには彼の周囲の状況がまだ
  これを許すまでに進歩していないことも痛感しまして止むなく従来
  の志望を棄てて、郷里の信徒達の望みに任せて惟神大道教会と称す
  る一つの教会を設立してやり、叔父をその守りにさせて置くことに
  いたしました。そうする中に、明治三十八年になり、老母が死んで
  可燦な年恵女はいよいよ心細い身の上となりました。その時帰国し
  ましたので「もう一度ぜひ大阪へ来るがよい」とすすめ、当人もそ
  の気になってたのでしたが、あい変らず、その時も身辺の頑固連や
  ら策士連やらに阻止されて、とうとう其決心を実行するに至らなか
  ったのです。
   「明治四十年の十一月に社用で朝鮮に行ったその不在中に彼女は
  郷里で急に歿しました。しかし死期に先立つ二た月ばかり前から、
  彼に憑っている神様は「お前は近い中に、あの世に連れて行く」と
  時々ささやいたそうです。で親戚の相田良孝という人が大変心配し
  て、私に急いで帰国して呉れと言って来たのでしたが、当時何うし
  ても手離し難い用事の為めに、心ならずも朝鮮に出張し、その為め
  に姉の臨終にも逢い得なかったのです。」
  前後二時間にわたった長南雄吉氏の、年恵女に関しての談話はこれ
  で終るのであるが、外にも珍談の数々があるが省略することにする。

  かくて、年恵女の帰幽後、親戚やら信徒やらが集まり、郷里の邸
  内に一つのささやかなるお宮を建て、この無垢の女性の霊を祀った
  のである。今でも参拝者の影は絶えぬということである。
  なお、年恵息女の神懸りに関する実話‐--例えば、当時日露戦争
  の予言、社会に対する警告、紛失物の捜索、病気の治療等-に関し
  ては、到底ここにその全部を紹介するスペースのないことを遺感に
  恩うのであるが。その当時の六月二十八日附で長南氏から記者の許
  に心霊事実を報告された書簡の一部を左記に紹介してひとまず鯛筆
  することにする。

   「……姉の奇蹟的事実に至り萄ぽ数限りも無之候へども、不取敢
  左に二三を摘出して御参考に供し候。
  (1)明治三十三年二月小生帰郷中、或る夜、午後九時頃本人が突然
  影を失い、家の中の何所を捜しても見当りません。当時雪は三尺以
  上も積り居り、若し外出したとすれば足跡がある筈だと、信者共が
  半ばは心配、半ばは好奇心で、夜の更くるも知らず話し合って居り
  ました。すると午前三時頃に至り、縁側にドシンと奇異の物音がし
  ましたので、一同かけっけて見ますと、姉が四方囲いをした縁側
  -雪国では皆囲いをします-に立って居て、おお寒い寒い神様が
  妙な山へ連れて行ったものだから、中々側ヽかった、と言いながら
  座敷へはいってきました。そこで我々は念の為めに足跡の有無を査
  べて見ましたが、それらしい痕跡は露ほども見当りませんでした。
  (2)神懸りのなき際は、姉は十四五才の子供の如き遊戯を好み、例
  えば綱引きをするとか、腕相撲を試るとか、重い物の持ち競をする
  とか、そんな事ぽかりして笑い興じて居るのでした。綱引きとか手
  拭引きとかの場合に、大の男が真剣になって三四人で掛っても姉の
  怪力には及びませんでした。ただ不思議なことには、人が姉の背後
  に廻ると、その怪力は忽ち消失するのでした。
  (3)姉はよく登山をしました。富士登山の際の如き、自分で蒲団を
  背負い、一行の先頭に立って飛ぶが如くに進み、同行の七八入は弱
  ったという話です。私が同行したのは、羽後の鳥海山と羽前の金峰
  山のみですが、いつも、その健脚には驚かされました。途中姉は地
  上に平伏することがありましたが、そんな際には空中に必らず笛其
  他の楽声を耳にしました……。」 (完)


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長南年恵 [心霊広場]

心霊広場

 長南年恵(オサナミトシエ)
 浅野和三郎先生が調査され、別に出版もありますがここでは
「心霊と人生」に掲載された特集を記載します。

  霊能者長南年惠の生涯とその心霊現象+承前+
      桑田吉三郎 (1957年4号)抜粋
  
     ++前号のあらまし
  判汰汰が持ち上り、飛んだ大騒ぎをやりました。二度あることは三
  霊能者長南年恵に生起した常識で判断のできぬ諸現象は次のようで
  あった。
   (1)彼女は文字通り、絶食絶飲の状態を14カ年続けた。
   (2)彼女は大小便などの生理作用は全くなく、またその生涯にただ
        の一度も月経はなかった。
   (3)彼女は数分間、神に祈願すると、何十本の瓶の中に一時に霊水
       が充満する。しかも、いろいろと着色されてもいた。
   (4)彼女は50歳で死んだがその時の容貌は若々しく20才位とよ
       り見えなった
   (5)彼女は何の教養もないのに、一たん精神を統一する書に画に非
       凡の手腕を発揮した。
   (6)彼女は詐欺の嫌疑で何度も入獄させられたが、入獄中、獄舎の
       内部で、依然として心霊現象は続出した。
   (7)投獄の最後、神戸地方裁判所では裁判官の眼前で裁判官提出の
       ビンに一パイの霊水を引き寄せた。
  このうち(1)~(6)について、その大要が前月号に述べられた、本号で
  は、そのことに関して、また(3)(4)(7)について詳述することにする。
  これらはしべて大阪においての生起したもので、前月号での生起は郷
  里鶴岡での現象とも言える。

  令兄の長南雄吉氏は、姉年恵のこれら奇現象を学界は言うまでもなく、
  天下に公表して、識者の批判を求めんとして、山形監獄鶴岡支所に入
  獄中の生活につての詳細に対しての証明を得んとしたのであったが、
  前号に述べたとおり"証明を与うる限りにあらず"として却下されたの
  である。

      下阪させたことはよかったが・・・・

  監獄所に提出した証明願いは空しく却下され、それによって姉年恵の
  奇跡を天下に公表せんとした長南氏の計画はここに一頓挫を来したが、
  しかし、一旦心霊に目覚めたる同氏は、それしきのことで計画を抛棄
  しようとはしなかった。
  氏は考えたのである。姉の神懸かりは別としても、単に両便不通、絶
   食絶飲等の生理現象だけで優に学界の研究材料とするに十分である。
  それにはとりあえず、姉を帝国大学に提供して見るのが順当であろう。
  ・・・とそう思い、東京の井上円博士などとも相談の上、その手続き
  をとろうとしたのであったが姉の身辺の取りまき連の猛烈の反抗によ
  り惜しい哉、その計画もまた実行されずに過ぎてしまったのである。
     
  長南氏は語りつづける。
  「私の姉というのは、前にも申し上げました通り、至って無邪気なま
  るで赤児のようなもので、何でもひとの言いなり次第になります。
  ところが、こんな霊覚者の周囲には、一方に正直な善人も集まります
  が、他方にはまた物の道理の判らない頑固な、有り難連中やら、神を
  ダシに使おうとする宗教策士達やらが兎角集まって来たがるもので、
  それらは研究とか実験とかいうことには常に極力不賛成を唱えます。
  姉の場合においても矢張りそうで取巻連が姉を動かして、どうしても
  東京へ出すことを承諾させないのには弱りました。

  「で、私はがっかりして、一旦大阪へ引き返しましたが、姉の不思議
  なからだを学問研究の対象としたいという念願は抑えんとして抑える
  に由なく、何とかして素志を貫徹しようと知恵を絞ったあげくの果、
  とうとう伊勢参宮を口実に、一まず姉を大阪に呼び寄せ、その上で京
  都大学に連れ込む計画を立てました。

  「この計画は私の思う壺にはまりました。姉も伊勢参宮は年来の希望
  でもありますし、又周囲のもどももこれには不服を唱える理由もあり
  ません。
  とうとう明治33年の春、姉は山形を出発、はるばる東海道を経て梅
  田の停留場へ姿を現したのですが、姉を取巻いて居る三四の頑固連は
  どうしても其身辺を離れず、御苦労にも大阪までついて来たのには驚
  きました。

  「兎に角も、とうとう大阪へ出て来た。これでこちらの計画は七八分
  成功と思ったのはホンの一時の糠喜び、姉がまだ到着せぬ先から、
  不思議な神女が来るといううわさが私の友人からその友人の、そのま
  た友人にも伝わるという有様、私の空堀町の住居は、忽ち病気直しを
  頼む人やら、伺いをたてる人やらで、朝から晩まで雑踏するようにな
  ってしまいました。
  こうなりましては、なかなか予定通り京都大学へつれて行くひまとて
  もございません。イヤどうも心霊方面の仕事となると、騒ぎばかり大
  きくなり勝ちで困ったものです・・・・」

      霊水たちまち壜中に湧く

   長南氏は息もつかず、談話を続けるのである・・
  「当時、空堀町の私の寓居は二階建てで、階上には両便所も付属して
  おりました。
  私はこの二階を姉の居室と定め、第一にその両便所を密封して了いま
  した。
  姉が翌年帰国するまで一年有余の間、両便所がそっくり密封のまま残
  ったのは申すまでもございません。
  そして、病気の治療其他姉に関する一切の仕事は皆この二階で執行さ
  せました。

  「わたしはあねがどんなことをして病気を治すか、一と通り其実況を
  述べておきたいと思いました。まず驚かされるはその感応の強烈なこ
  とで、患者が玄関に入ったか入らぬ時に、もう二階の姉の肉体に当人
  の病気が感応するのです。
  その際、姉に病気治療を頼む人々は薬瓶なり、ビール壜なり、各自、
  思い思いに空壜を携えて来るのですが姉はこの空壜を十本でも二十本
  でも、一つにかためて御三方の上に載せて神前に供えます。無論、壜
  には栓をを施したままで一々依頼者の姓名が書きつけてあります。

  「姉が神前で祈祷する時間は、通例十分間内外です。すると右の密閉
  された、十本なり二十本なりの壜の中にパッと霊水が同時同刻に一杯
  になる。・
  それが赤いのやら、青いのやら、黄いのやら、樺色なのやら疫病に応
  じてそれぞれ色合いが違います。いや、実況を見ておりますと、まる
  で手品のようで、ただただ不思議と感嘆するより外に致し方がござい
  ません。一通り貴下方にも其実況をお目に掛けたいものでした。・・」

  「全く残念なことをしました。ブラバッキイ夫人などの記録を読むと、
  それに類似の奇跡的事実がいろいろ書いてありますが、不幸にしてま
  だ一度も実地を目撃したことがございません。・・それはそうとその
  神授の霊水は病気にはよく効きましたか?」

  「いやその効験と言ったらまことに顕著なもので、どんな病気でもズ
  ンズンなおりました。もっとも神から不治と鑑定された人やらためし
  に、一つやらして見ようなどと思う者の壜には霊水が授かりませんの
  は不思議でした。十本か二十本の中にはそんなのが一本ぐらいはまじ
  るようでしたこんなあんばいで、壜の数は何本までという制限はなか
  ったように思われますが、私の知っているところでは、一時に空壜が
  ズラリ四十本ほどお三方の上に並んだのがレコードでございました。
  あの調子で考えると百本でも二百本でも一時にパッと霊水が入ったろ
  うと思われます。

  「兎に角こお通りの騒ぎですから、約束の伊勢参宮だけは済ませまし
  たが、なかなか姉を京都大学に連れて行く、いとまがございません。
  こりャ手っ取早く寧ろ一応この事実を新聞紙に掲載さした方がよいか
  も知れぬと私は思いました。
  幸い、当時大阪朝日の社会部長を務めて居る渡辺霞呈君とは懇意であ
  るから、此人にたのんで実験に立会って貰い、正確な記事を書いて貰
  おうと思いまして、私は自身新聞社に出頭し、同氏に面会してその快
  諾得たのでした。
  しかるに実験の当日に至りまして、霞呈氏に差支えが出来、代理とし
  て角田浩々歌客と他に一名の記者が大朝社から特派されました。
  「当日の光景は、なおはっきりと私の眼底に残って居ります。御神前
  ・・と言っても床の間に天照大御神様のお掛軸が掛かっているだけの
  簡単なものですが、そこに御三方に載せた約二十本の空壜が供えてあ
  り姉はその前でしきりに祈願をこめている。次の間には前記、二名の
  新聞記者を始め、十数名の友人、知己がようすいかにとひとみをこら
  している。・・と、約十分の時刻が経過したと思われる途端に、今迄
  三方の上に並列してあった不景気きわまる空壜がサッと虹でも現れた
  ように、千紫万紅とりどりの麗しい色彩に急変しました。各種の霊水
  が壜中に充満したのであります。
   この実験の模様は、当時の大朝紙上に数日、続き物として連載され
  ましたから、関西の読者の中には記憶されている方も少なくないと存
  じます。」

      大朝の記事から拘留処分

   長南氏の物語りをきいて居た浅野会長はこの長南氏の談話に引き込
  まれて、「当日の光景が眼前に浮び出るかの如く感じた。」とこの談
  話に附記している。
  この大朝の記事は相当正確に書いてありましたがどうも当時は現在よ
  りも心霊現象に対する知識が一層どぼしかった時代ですから例の新聞
  記者の癖で、自分の附に落ちない事があると出鱈目な憶測やら、藪か
  ら棒式の邪推を振り回すのには困りました大朝の記事にも随分下らぬ
  箇所が多いようでした。
  例えば、その中の一例として何でも胃袋の中にゴム管を通して胃液か
  何んかを壜の中に入れるのだろうなどと書いてあったように記憶しま
  す・・・。」
   
   ・所で、この大朝の記事が原因で、大阪に於て叉々姉の身辺に裁判
  汰汰が持ち上り、飛んだ大騒ぎをやりました。二度あることは三度と
  やら、この無邪気な姉が一生に三度まで訴訟問題に引掛ったのですか
  らおどろきます。
  もっともそのお蔭で心霊現象に対する証拠物件が豊富となり、今日あ
  なたがたが姉の記事を作成されるにはどれだけ便利だか知れません。
  全く世の中の事は何がしあわせになるか判りません。一面から見れば、
  私どもはあなたがたの心霊研究会のために、二十幾年も前からせっせ
  と材料を蒐集していたと観れば観られぬこともございませんナ。
  イヤドーも御苦労な話でハハハハハハ……。」
  「イヤ全く其局に当った方々の御苦労はお察し致します。」――
  と浅野会長は、次でその裁判沙汰というのはどうして起ったかについ
  て質問された。

  「それはこうです」 「大朝の記事が出てからたしか三日目位でした、
  私の寓居が突然多数の警官に包囲され、家宅捜索を執行されたのでし
  た。折から、私は外出中でしたが、家人の談によると、それはなかな
  か厳密な大捜査で、何が薬品様のものを隠しておりはせぬかと言って
  床下までも捜したそうであります。
  ――無論いくら捜査されたとて薬品などのあろう筈がありませんから、
  警官隊は手を空しうして、スゴスゴ引き上げたのでありますが、即夜、
  姉を呼び出して拘留十日に処分しました。

 「たとい、五日でも十日でも、人を拘留処分に附するには、それ相当の
  理由がなければならぬ筈です。ところが、私の姉の場合にはいかなる
  理由があるのか更に私には判らない。姉はどこまでも従順で、拘留す
  ると言えぱ甘んじて拘留され、監禁するといえば喜んで監禁されるた
  ちのをんなでしたが、いやしくも、その監督者の地位に立っている私
  としては、そう参りません。遂に私は右の言渡しを不当として正式の
  裁判を仰ぎ、控訴上告にまで及んだのでした。

  「私が一方で、一生懸命訴訟問題に気をもんでいるにもかかわら
  ず、ご当人は至極のんきなもので、八月下旬、従者数名を引き具し
  富士登山に出掛けてしまいました。そして、そのまま山上に寵り、
  九月、十月、十一月と幾度び月が変っても下山しないのには弱り切
  りました。神霊の守護を受けている以上、そのからだについての心
  配はほとんど無いとしても、裁判の問題は本人なしには進行させる
  わけには参りません。正式裁判を仰ぎながら、延期又延期では、私
  の名誉上の問題でもありますから、そのまま捨て置き難い立場とな
  り、しばしば人を富士山に出し、いろいろ手を尽した上で、十一月
  下旬になり、ヤツとのことで姉を大阪まで連れ戻ることができ、そ
  れで私もほツと安心したような次第でした。」


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ホンダグロムへウィンドシールド [バイク]

ホンダグロムへウィンドウシールドを取り付けました。
旭風防で対応していないので下記を流用して別図の様に
取り付けました。機体の振動は多少有りますが走行には
支障ないです。

ASAHI [ 旭風防 ] ウインドシールド [ BW'S125Fi ] [ 品番 ] BW-03

 DSCGROMBJ2.jpg

DSCGROMDJ2.jpgDSCGROMAJ2.jpg


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霊癒の科学(18) [心霊と人生]

                    霊癒の科学(18)


 学問として体系づけられた心霊研究ではあるが、その概要を
知るには現時点では先達の文献に依るしかないのが現状であり、
なんと云っても、浅野和三郎先生、脇長生先生の著作集による
のが一番である。今回からハリー・エドワーズ著山本 競訳の
「霊癒の科学」を載せます。・・・・

{注}パソコンでの入力の関係上JIS設定にもれている漢字の
   表示が困難な場合は現在の簡易表示体で代用するものも
   あるのでご理解ください。
            霊 癒 の 科 学
     
               ハリー・エドワーズ
               山 本   競 訳


 何か此の障害を起したか私にはわからないが戦争事情とは何んの問
係もなかった。戦争は治癒期問中も依然として続けられていた。
 第三例 此の患者は手のつけられぬ静脈瘤と長時続いた静脈怒張を
合併した皮膚病に悩されていた。それが医療に反応しなかったのでエ
ドワーズに霊癒が求められた。其の障害が相当永く存続していた問係
上多大の好果は期待出来なかった。数ヶ月問何の変化も起らなかった
が蔓延もしなかった。患者は四肢を休める事が出来なかったから多分
治療の徴候を示さなかったに止ろう。それから、約二週間前になって
突然に迅速に治り始めた。腫脹は消散して、今日、その瘡面は本来の
大きさの半分以下になっているので、進行が同し比率でつづいてゆけ
ば次の二週回以内に全治するに相辺ない。静脈瘤性潰瘍は安静就褥し
得る以外治癒の稀有な事はすべての医師の知ってる事実だ。
 第四例 此は長時問持統した静脈瘤の他の一例である。両脚が大に
腫脹して、一寸とした擦過傷は第三例のものと類似な頑固な潰瘍を起
す傾向かあった。患者は頗る多忙な女性で、戦時中此れ迄足を休める
暇が殆んどなかった。それにも係らずエドワーズ氏が霊癒を問始して
以来腫脹は消褪して、十年位若返ったと彼女自身で云っておる。
 すべて此等の症例は医学的見地から治癒の見込みの最も少いものだ
った点に注意す可きです。
             一六七頁


彼等の一人もそれ迄エドワーズ氏に面会した事はない。エドワーズ氏
は不在治療として知られた療法を彼等に施した。私はどうして療法が
作用するかにつき意見ば述べない。私の云へるのは、事情が上述の如
くであつたと云う事だけだ。

  私を驚かした事実は、吾々が毎日幾回も耳にする此の民主主義を、
自由を、かちとらんとしてる時代に、霊癒を施したり、受けたりする
のが違法で、一旦霊癒が成就した治療を記述する事も亦非合法的だと
云う語だ。戦が終つた時、全部の神霊主義者に、霊媒を迫害し得る嘲
笑す可き法律の撤回を成就するため必死に闘う義務が確かにある。
 此れ迄多数の病院の皮膚病専門家が冷療して軽快させられなかつた
皮膚病患者が霊癒をうけたのは興味があります。
 一九四四年、其の後の報告は疾病の再発を認めなかつたと述べてい
ます。
 此等の症例で、不在治療により癒された瘡の治療から見ても明らか
な様に、霊癒家が原因を除く事により此等の疾病にたずさわつてるも
のと見なす可き理出があります。此を成就するため、血行の性状に或
る変化を生じ、その障害を換起し維持していた毒物又は他の原因体を
除去したと云うのが合理的な仮説でしょう。
              一六八頁

 患者は霊癒をうけている問に、患者は売薬ものまず医療もうけなか
ったと報告されました、 静脈瘤について、著者は霊癒によりて静脈
が常態に復した一例にも会っていません。然し容態は軽快し、静脈の
堅さが感じ、腫脹は消失し、疼痛は減少しました。効果が一週問そこ
そこ続いてからその容態をすっかり治すには他の療法が必要でした。
静脈瘤性潰瘍は或る症例に於てそれで乾涸して唯瘢瘡のみを残すと云
う結果を来す様に加療されました。此は三例で起り、他の例では唯僅
かに軽快を来したにすぎませんでした。
 一九四二年二十九日サイギツク・ニュしス誌に於て次の報告が発表
されました。此れは患者の両親から来た手紙に基くものです。

 不治の疾病をもつ女子が霊癒によりて、戦時の仕事をやる事が出来
た或る霊媒に施された不在治療により、四年間不治の患者として就褥
して、死亡するものと期待された若い女が今時戦争に献身従事してい
る。彼女は生れながらにか弱くて生存すると期待されていず、幼時か
ら彼女の生涯は疾病の長い連続であった。
 成人期に達して急性の咽喉障害が患者の病苦を増加し数回手術をう
けた。其後数年の氷い問病褥に過した。それから脊髄病が起り有痛性
内臓疾患を併発した。
              一六九頁


      
 規則正しい医学的の実験と手術が行はれ、医師は彼女の病状に非常
に同情し且つ興味をいだいた。然し乍ら医学的記録には不治の疾患、
恢復の望み無きものと誌された。其時一人の友人が不在治療を依頼す
る手紙をハリー・エドワーズ氏の許に送った。疼痛と体重減少が止み、
恢復への一般的運動が始まった。
 霊癒が依頼された時から、彼女に規則正しい強壮剤の服用以外、内
外科的医療を受げなかった。
 此の時代に、患者は「目に見えぬ手で自分の躰が取扱はれてる様な
気がする。」と云った。
間もなく彼女は病床を離れて歩き出し普通に近い生活を過す事が出来
た。彼女は政府の或る任務に傭はれる事が出来た程に引き続き快くな
つた。

勿論此の項目の下に前章で既に報告した。癌、急性関節炎、聾、失明
等の多数症例も含まれませう。すべて此等が考察された時、かくて不
治の疾患と認む可き患者の治療数は暗合と見倣すには余りに多すぎま
す。実際霊癒により上述の症例の一例でも治すことが出来たら、それ
は霊癒家にとり、やり甲斐のある仕事でせうし、又医業上にも考究を
要するものとして、自然好い印象を与へる筈でせう。
             一七〇頁

          第十七章 非分類的成績

 次の抜粋はすべてロンドンの新聞とサイキツク・ニューズ誌からと
り入れたものです。報告されたすべてのよ症例で、紙上では一致す可
き二つの条件を要しました。
 第一、患者の氏名と住所をしるし、大多数の症例で支持的な記録に
    よる実証を伴ふ可き事。
 第二、患者は調査し発表された物語を快く支持する事。
    ロンドン新聞の場合 探訪記者は霊癒本部叉は本人の自宅で
    会見し又或る場合には記者が治療中にその会へ列席しました。
    そして診断と成績を確認するため、十分、自由に患者に質問
    する事も出来ました。
 此等の抜粋は順序立っていませんが、それは治療された病状の、広
い範囲を説明する目的には役に立ちますし、紙上で注目する価値もあ
りました。
             一七一頁


 エドワーズが救い得た一つの症例は十二指腸潰瘍のためしばらく悩
まされていた一人の友人で、最近衰弱と激痛のため職業に従事するの
も妨げられました。
 四日後、患者と相談の上不在治療が行はれ、即時に軽快し初めまし
た。患者は翌朝仕事を再開する事が出来て、唯僅かに疼痛の痕跡だけ
があり、その次の日にその疼痛は全然消え去って再発しませんでした。

     霊 癒 の 奇 蹟

 私は初めて神霊主義教会へ行って見た。そこの霊媒で講師だった方
はハリー・エドワーズ氏でした。司会者が霊癒家だと言った。二年以
前から怪我の為固定した二つの腕の骨が日常激しく痛むので、それが
治して貰へるかしらと思っていた。私かかく不審に思ってた時、講師
は壇上で演説しているのに、その姿が私の方へやって来るのを見た。
彼は一時私の上においかぶさる様に思はれて、私は恐怖の余り額に冷
汗が流れた。
 帰途、私はまだその姿が私と一緒にいるような気がした。私が馬鹿
な独語を言っていた時、ひどい痛みが関節に起って路傍の手すりにつ
かまり辛じて身を支えた。二、三秒で痛みが去った。私は関節を動す
事が出来る様な気がした。多年動かさなかったその関節を使って、今
私は此の手紙をかく事が出来る。エミリー・スマイサー誌す。
(ウエスト・モワラソドコード・ロ
             一七二頁

ンドン南部十四)
 一人の母が娘の治療を求めてきた。墜落の結果娘の腕に鶏卵大の塊
が出来たと言うのです。
霊癒家は塊の上に手を置くと二、三秒の内に完全に消散して再発しな
かった。
 内臓の悪性腫瘍のすべての症状を示した母のために、若い女が不在
治療を施してほしいと言って来た。一日以内に非常に怪快したと報告
して来た。一週間後その娘が手紙をよこした。
 「症状はすべて痕方もなく消失しました。母の健康は大層よくなっ
ています。」とかいてあった。
 肉体的病苫だけが関与した症例ではなく、劣等症状症例の吃りに悩
まされた少年に不在治療が施され、その母から全般的に著しく快くな
ったと報告している。

  此は霊癒的接触である

 雲癒家の手の下で腫瘍が消失したのはバルハム心霊研究協会のハリ
ー・エドワーズ氏の最近の治療的成功の一つである。
 一人の女が乳房内の腫瘍に対して霊癒を求めた。手に触れて見ると
約四吋の硬固な塊がある事を認め、霊癒を施した処腫瘍は胡桃大に減
小し、疼痛は全部消失。
 他の患者はニケ年問腹部腫瘍に悩まされ、それと共に頗る急激な疼
痛を起しました。患者は
              一七三頁

厳重な食餌の下に長い問入院療法をうけていた。霊癒を施した後エド
ワーズ氏は痛む部分を見つけて呉れと彼女に尋ねた。患者は手で触れ
たり押したりして疼痛が残っていないのに驚いた此の一回の治療以来、
患者の障害は再発せず常食を取っていた。
 不治の肺結核として療養所から退院させられた患者は二、三週問霊
癒をうけた。かくて同じ医院当局により胸部に検査が行はれ、医師が
言った。「今、胸部に何等の障害があるとも思はれない。」と
 麻痺に悩んでいた年高さの男(彼の手が無力だった)が眼の障害と
頭痛を訴へたが第一回霊癒後、その手を使って力を入れて物を掴む事
が出来、彼は眼と頭痛と両方の障害からも救はれた。
  今 ダンスに行く
 頗る悪性の静脈瘤に悩まされ、医師の言に従へば、静脈瘤炎にも罹
っていた一人の女は、エドワーズ氏より三回の霊癒をうけた。静脈瘤
は著しく減少した。それで医師は斯る顕著な軽快を起すためにどんな
療法をうけたかと彼女に尋ねた。静脈炎のすべての痕跡が消失した。
 治療前患者は仕事に行く事が出来なかったが第一回の霊癒後彼女は
仕事を再開する事が出来それ以来ダンスにも行った。
              一七四頁

   第十八章 統計的記録

 大戦勃発に先き立つ事正に一年、治療成績に関して頗る注意深い記
録が保存されました。
 僅か一年間の記録が利用されうるにすぎないとしても読者の諒承を
求めなければなりません。
と云ふのは治癒上の仕事をそれに関?する労作のすべてを加へた時問が、
昼間の通常の業務後の余暇に行れた奉仕だつた事を考へていただきた
いからです。
 一週間中の一定の日の夜間、午後七時から十時の問の治療会だけで
なく尚、海週土曜の休暇も亦同じ目的に使用されました。個人に対す
る返事を書き、又記録簿の各項目の下にそれぞれ記入を要する数百通
の手紙も来てました。亦患家へも訪間しました。又「ジヤツクウェー
バーの霊媒術」と云ふ著書の校正と云ふよけいな仕事も、詳細な形式
的の記録も持続する上に邪魔となりました。 記録は、結核病、腫瘍、
精神及び神経症状、骨疾患、視聴力障害、及び一般疾病と云ふ項の下
に分類されました。
              一七五頁

不在治療申込み者の多くは報告をつづけず又、全然報告しないものも
ありましたから茲に引用した数字は完全なものとは考へられません。
 個人治療のため一、二回来訪した後好果を報告した患者の或るもの
は治療を続けなかったか、又は治療による最終の結果を証言しません
でした。
 此の後の点について、多くの場合、直接又は問接に、治療が完全な
恢復を来した事が、後日になって著者の耳に届いかものがおりました。
此は数ヶ月経過後、患者の容態によっても判断されました。
 数字を呈示する前にもう一つ注目に価する条件があります。
それは霊癒家の加護を求めて来た症例の大部分が頗る重篤な進渉した
容態を呈する疾患に罹ってる患者であったと云ふ事実です。
 患者又はその親戚が医者から「治療の見込みなしと思ふ」と云はれ
た程悪くなってから霊癒家の助力を求めて来る場合が非常に多いので
す。
 処で、その数字を示せば次のようです。

 病類 全治  認む可き軽快の報告 無効 死去 報告なきもの
結核病 25%   30%     15%10%  20%
骨疾患 45%   30%     50%     20%
              一七六頁

腫  瘍50%   20%     0   0   30%
精神障害20%   36%    14%      30%
視、聴力50%   40%    35%  0   20%
一般疾生34%   32%    12%  0   22%

 リウマチスと関節炎の部類に関して進渉した容態の患者で全治を認
めたものに皆無でした。此の問題についての章に示したように可なり
著明な効果をうる事が出来ましたが、急性に悩まされた者で完全にそ
の障害を免れたものも皆無でした。発病早期の疾病は一般に軽快する
事が出来、時には永久に治癒しました。
             一七七頁

      第十九章 最後の結び

始めの章で、すべての操作はそれに適用した法則に支配された力の結
果であるとの仮定が示されました。それで他のすべてのものと同様に、
霊癒も自然の法則によりて決定されます。
 自然の法則という語の中には理学的及び形而上学的の法則の二つを
含んでます。即ちそれ等は何れも自然の法則なのです。
 霊癒は神聖な行為であり、超自然的性状のものであり、又自然の法
則を凌駕するものであるとの考へを認める人々も、どんなに不愉快で
も、特に治療霊媒によりて懇願された時、霊癒があらゆる人種と領国
の人々に起るものであると云ふ主張に当面せねばなりません。
 ローマンカトリツク教徒は、ルールドで時として起る処の治癒を、
神の干渉の結果と信じてますが、然し類似の治癒を来す処の治癒霊媒
の此等の善行を人類を誘惑するための偽装として遂行する、頗る狡猾
な悪魔の道具であると信じてます。
              一七八頁

勿論ルールドに於ける治癒と治療教会に於て起る治癒との問に何等の
差異もありません。一方が悪なれば、他方も善ではあり得ません。
同一法則に支配される操作がいづれの場合にも働いてます。人門の宗
派的信仰は治癒法則に何等の関係もありませんし、又よしんばあると
しても少いものです。かくてすべての治癒は巧妙に行はれた力の結果
した場合であると再び説いてよいのです。
霊癒を来す前に起す必要のある大切な要約について既に記述しました。
此等は治癒機能の理解へ今後近づくに際し合理的な論拠を提供します。
世界的な実証は霊癒が偶然起るものでもなし、気紛れものでもない事
を証明しました。
基本的必要条件が実施された時、霊癒が常に起り得る事を事実が証明
しました。
治療作因を祈る事を常に実行している治癒霊媒は定った儀式又は伝説
的奉仕の一部である教会の奉仕的代祷を行ふ場合よりももっと不断に
頻繁に成績をあげる事が出来ます。
 遠い昔イエスの霊癒を行った教会は、先づ霊癒を賞讃して、その力
の使用法の習得と実行とを唯々切望し歎喜す可きものと、人々は考へ
たであらう。不幸にも事実はその反対です。実際一般の輿論は宗教的
頑迷により治癒霊媒に対して偏見を抱いてゐました。
不可解に思はれませうが、教会は病人に対して教会幹部が祈る事は本
当に適当だと考へてるのに、治療霊媒による類似の祈
            一七九頁


願を悪魔の行為と見なしています。
 一七三五年の古代魔術法令の下に霊医よりの助力を求めて病人を癒
さんと試みるものは誰でも違法でした。一八二四年の浮浪者取締法の
下に霊癒家は無頼漢、浮浪者、変態性慾者と共に分類される危険かお
り、陪審員に控訴し、又裁判をうける権利もなく、入獄の略式判決を
うける傾向がありました。
 著者も亦若し自ら霊癒を申し出てれば法的訴訟手続をうける危険が
あります。その際霊と交通する陰謀の仲問となるからです。
 若し或る数の人々が霊癒の祈りのために会合して、病人を救ふ目的
で彼等の考へを語で表現すれば、彼等は更に魔法使の嫌疑をかけられ
る傾向があります。
 一九三八年癌腫法として知られた法令が政府の法案として法律にな
りました。此の法今は主として医業界により保証されました。それは
神霊主義者と他の宗派の信者をとはず、癌又は腫瘍に関して治癒の記
録を公表又は宣伝しか場合その治療霊媒に対し重い処罰を以て起訴す
可き違法行為と見なされました。新聞紙は此の法令により、斯る治癒
に関係する事は許可されません。又、或る集会、又時としては個人と
しても、本当に此れを述べてはならないのです。
 かくて発令猶予期間の此の一年、一方では法令と医業には快心の協
力がおるに反して、吾々は
             一八○頁

霊癒を妨害することを目的とする同盟があるのを発見しました。
肉体的逝去後、吾々の持続的存在を支配する法則の履行を妨げる事が
出来る以上に、治療の起るための自然の法則の操作を妨げ得る法令は
ありません。
 本書に蒐集した記録は、大英国に於ける数千の霊癒家によって達成
された治癒の最も少い部分にすぎませんが、霊癒が空想ではなく、真
実である事を実証するに足る事が望まれます。実際此れは驚く可き科
学です。
 結論として、本書が多少でも啓蒙された当局を、霊癒の潜在力とそ
の含有するすべてのものに或る注意を払ひ初める時代に少しでも近づ
かしめるなれば、本書の目的を達成したものと云へませう。
 各時代を通じて、人間は多くの驚く可き科学を発達させました。
然し彼等の誰がそれを人類の改善と進歩に対し合成的知識を利用する
ため吾々の科学者、医師その他の人々の最も熟練したものが、もっと
進歩してる肉身を捨てた智識人と協力するとき人類に開放さる可き無
限の可能性と比較する事が出来ますか。
             一八一頁


             一八二頁

                                     一八一

   第二十章 著者の自叙伝
 <<著者の氏名ヘンリー・ジェームス(ハリー)エドワーズ>>
                      (一九四四年五月)

 一八九三年ロンドンで生れウッドグリンのエルパーク学校で教育さ
れました。
 少年時代より公共の仕事に興味を示しました。十五歳の時第一少年
隊の首唱者の一人となりました。其の後自由党員として政治事務に興
味をもち、十八歳でロンドン自由党協会の書記となりました。
 世界大戦(一次)の初期に、私は初め自耳義救済残金、ウェールス
公の国際救済基金等の仕事の構成に従事しました。
 一九一四年十一月ローヤルサッセックス?隊に編入され、印度に駐
在勤務、印度で私は陸軍部隊に対する救済事業に活溌な興味をもち
ローヤルサッセックスヘラルド紙を創設編輯しました。
 一九一八年バグダットの野戦隊に任命されその結果、北西波斯に対
する労働指揮の位置で大尉の位階を得ました。
                         
             一八三頁

 東洋に滞在中、印度、ペルシヤ、イラク、クルデスタン、ルリスタ
ン、スーダに或る月日を過し、此の間に東洋の宗教を研究し、同時に
印度では或る数の印度人の家や寺を、祭日の時に訪問する特典を得ま
した。
 マラパールでオチクルトの粗野な原始的な儀式を調査し、そこで人
問が確実に獣に変化するために行ふ儀礼とかに備を僧侶が私に示しま
した。
 悪魔と虎の踊りはバンガロアの土人部落で目撃しました。
 シク寺に名誉ある客として招かれ、稀有な特典が私の調査に対して
与へられました。その時 「黄金の書(Golden Book)をうけとつて
みました。
 波斯で私は標高一三二〇〇尺のエルグエンド山頂の聖洞へ巡礼の旅
路につきました。
 ラアダンの粗暴な血醒いマホメットの祭と、もつと平和なラマザン
の儀式を二回見物しました。
 波斯にゐる間にケルマンシヤ回教寺院へ入る許可を得、その際マホ
メットの女はラマダンの儀式の肉休的苦痛で祝福されていました。
 ヅロスターの家を訪間してケリンドの拝火教徒と数日を共に過しま
した。
 ルリスタンヘ単独で旅行して山賦種族の一つの客となりました。
 古代エクバタナにエスターの墓を訪れ、叉カンガヴアーの近くの
アナイーダ寺やビジチュンとテクアイ、ブスタンの遺跡を訪れました。
             一八四頁

イラクでカーチメーンの金色塔のある回教寺院を通ってテクリトの
ムエッチンに暫く滞在しそこでマホメット信仰の一般儀式を見物す
る事迄許されました。
復員後、社会及び政治方面の事業を新しく再開しました。退役軍人
協会の実行委員となり国際連盟の分科の創始者でもありました。
一九二九年北キヤムバーウェルから議会に立候補し、一九三六年同
地から再候補しました。
キャムバーウエル平和会議の議長で極刑廃止協会の編制書記官でし
た。
一九三六年神霊主義の調査を始めました。
個人的啓発のために列席して速かに霊癒力、入神談話及び霊視等の
能力に気がつきました。
一九三八年ジャック・ウエーバー氏に会ひました。その後四ヶ月
の問にウェーバー氏は私の手配した集会へ三回訪れて来ました。
一九三八年八月ウェーバー家がロンドンヘ引き越すよう取り計っ
て私の隣家を手に入れました。二年問私は此の霊媒を後援しまし
た。その記録が「ジャック・ウエーバーの霊媒術」と云ふ著書と
して発刊されました。
ウエーバー氏が帰幽した後、問もなく私はアーノールド・クラー
ル氏に面接し此の天恵的霊媒と更に1ヶ年協力して働いた後に
「アーノルド・クラルの霊媒術」と云ふ書物で彼の研究の結果を
発表しました。
            一八五頁

 一九四○年国内守備隊に入隊し、後に任官しました。
 此の期問中も私は治療に引き続き従事しましたけれど、後年
(一九三六-三八年)に於けるようにはつづけられませんでした。
 一九四三-四四年の問ギングストン神霊治癒本部で治療の助手
として働いてました。
 私の現在(一九四四年)の希望は治療本部を設立することです。
(訳者註 此の希望は今実現されてます)それに依ってすべての
患者が霊癒を施され、又研究にも便宜が与へられませう。

附 録 (一九四五年 三月)
 一九四四年六月私の家は敵の攻撃によりて破壊されましたが、
七月の終り、私は幸巡にもエウエルで新しい家を手に入れました。
 私の家が破壊されてから一週問後に起った事件は私に深い感動
と教訓を与へました。
 多年或る男が静脈瘤とその潰瘍に悩まされてました。
三ヶ月問治療を受けてますと潰瘍は乾固し静脈瘤も可なり著しく
消散し疼痛は完全になくなりました。
 彼は非常に心配して私の仕事場へ入って来ました。
彼はこわれた家を見廻って来、それ以後の治療がうけら札るかど
うかと心配していました。
              一八六頁

 私は彼の苦悩を感じて、彼がそう思った時、此の男の治療を続
ける事は非常に重要であることを力強く意識しました。
 此の教訓は物質的損害が賠償されたよりも真の価値かあるもの
でした。
 不在治療の章の附録で記述したように、治療が以前よりももっ
ともっと遥るかに進歩した善い仕事が行はれるようになった事を
証言する数于の手紙が今手許に保管されてます。
 
       霊癒の科学 終            
                  一八七頁


 


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霊癒の科学(17) [心霊と人生]

                     霊癒の科学(17)

 学問として体系づけられた心霊研究ではあるが、その概要を
知るには現時点では先達の文献に依るしかないのが現状であり、
なんと云っても、浅野和三郎先生、脇長生先生の著作集による
のが一番である。今回からハリー・エドワーズ著山本 競訳の
「霊癒の科学」を載せます。・・・・

{注}パソコンでの入力の関係上JIS設定にもれている漢字の
   表示が困難な場合は現在の簡易表示体で代用するものも
   あるのでご理解ください。
            霊 癒 の 科 学
     
               ハリー・エドワーズ
               山 本   競 訳

 

しますが、身体の衰弱の為十分に健康をとり戻す事が出来ないで、或
廻らせ、それから人手を借りて階段をおりてゆきました。患者がおち
る心配があったので介添人が必要でした。それでまだ彼女自身も独り
歩きする程十分の自信をもつことが出来ませんでした。
 階段をやっとおりてゆき、両手を霊癒家の手で支へられ乍ら広問を
通ってタキシーのまつ処迄歩いてゆきました。
 其後患者から来た手紙は彼女が引きつづき良好の状態で経過してい
ると報告してきました。
 此の患者は脊柱の故障を起す以前は、経験のある看護婦でした。
それだけに彼女の手紙は価値がありました。「脊柱を取扱った手は手
技的外科医の巧妙な手であった。」と
 本章が書かれてから、もう一つ背推の霊癒の成功した症例がありま
す。患者は極めて高度の肩胛骨間の脊柱湾曲を示す婦人でした。
その結果として彼女の胸は前で曲り、一方の肩胛骨は凸隆して、湾曲
は此の肩胛骨の方へ向っていました。
 故障は十七余年以前の怪我によって起りました。此等の霊癒に際し
て著者は深い入神状態を求めたので、此の場合もそうしました。
著者はアモス嬢を助手とし、又患者の良人も列席していました。
 最初油が患者の周囲に塗擦されてから、霊癒家の指が背柱がまっす
ぐになる迄手技が行はれました。
              一五七頁

             
 その仕事は五分問以上はかからなかつたし、患者は疼痛を感じませ
んでした。
 患者が足で立つた時、まつすぐ(完全にまつすぐ)に立つ事が出来
ました。肩胛骨は本来の位置にに戻りました。かくも湾曲したまま長
い年月そのままたった背柱を疼痛もなく、かく短時問にまつすぐにす
る事が出来たとは信じ難く思はれませうがでもそれは真実なのです。
 再発は起らず、患者は霊癒家の力の証人として時々他の人々に、彼
女のまつすぐにたった背なかを示しました。脊柱に於げる斯かる手技
は、その肉体、脊髄、腺等の虚弱な組合上、多大の注意と可なり著明
か智識を要する事がわかりますのに著者はそれ等について何等の知識
をもつていません、此等の操作に要した時開は短く、第一例では数妙
その他では数分でした。此の作業は既に記録した療法とは異つた項目
の下にあるものとに見てよいでせう。此等比他の力により十中八九は
助けら札た明確な理学的手技でありました。霊癒家はどうして療法を
成就す可きかを知りませんが、然し彼の手は指導霊の支配の下に使用
されました。
 等閉にされた症例でも、此等の手技がいづれに於ても、霊癒家が直
接霊医に支配された深い入神状態におち入つていた事をもう一度此に
述べておきませう。此れは霊癒家の霊体的の心が劣勢となっている問
に霊医によって操作された霊的の心が、採用す可き行動を指示した事
を示します。
 斯く司配されてる場合に、手も指も、霊医が直接霊癒家の身体を支
配してる事を示す「加へら
             一五八頁

れた力」をうけますから、上述の説明では多分十分ではないでせう。
 上述の症例のいづれに於ても、患者は何等の疼痛も感じません。
W夫人はいいました。「彼女の背なかはしびれたやうで、手術中感
じかなかった。」と
 非常に激痛のある状態が加療された時、幾度か此の四肢又は体部
の麻酔について記述されました。此の治療法の特徴は損傷された患
部の印象をうけとって、関与する患者のその部分の意識を鈍らせ、
又患部の神経を鈍らせる、指導霊の能力を暗示します。
 一般霊癒上軽い症例の多くが調整されましたが、それ等は特に茲
で記述する必要はありません。
上述の実例は、霊医が肉身をもっ吾々地上の医師よりも、多くの智
識を保有するに相違ないと云ふ事実を実証するものと云ふだけで十
分です。
 本章を終るに先き立ち、睡眠中の手技について一言しなければな
りません。数例に於て患者が眠ってる間に脊椎に治療が施された事
実に霊癒家は注目しました。その報告の中に目立った類似点があり
ました。
 患者は就褥して眠におちました。夜問、患者は殆ど耐え難い程激
しい疼痛によって醒めました。
それは僅かに一、二秒問続いただけでした。それから疼痛は消失し
て障吉も消散したのを認めました。
             一五九頁
                      
 此の療法は墜落の際脊椎尾部を打ったために起っ脊柱の障害に悩
む三例の患者に行はれ、又他の骨の障害又は内臓変位の症例にも行
はれました。
 数年間肥大していた跚趾の関節が可なり著しく快くなった一例も
あり、その結果疼痛は消散しました。
 「アーノールド・クラーレ氏の霊媒術」に於て、ピーター(指導
霊)は骨の手技は「小さい人」の領分の中にあると述べましたが、
此の陳述に基づく智慧からはなれて、それを実証し、支持し又は確
保する実証はなかつたのです。
   附 録 (一九四五年三月)
比軟的最近に治癒した骨の畸形の実例中著明なのはG氏の場合です。
 彼は以前運動競技に従事した青年です。一九四二年頃、彼は身体
が硬直し始めたのを認め且つ可なり著しい疼痛を伴ひました。
 一層元気な生活法で病状に打ち勝つのを助長しやうと欲して近衛
隊に入隊しました。そして不満足な状態の下に書記の事務に傭はれ
疾病は増悪しました。彼は終に不治の患者として陸軍病院から退院
を命ぜられたのです。その証言は民間の医師によっても確認されま
した。此の時代に患者の脊椎骨が皆一緒に結合していました。
竹製の脊柱として知られた状態に化骨し、その後の結
             一六○頁

果、著しく駝骨となって背部は弓なりになり多大の疼痛と不快感が
あり着座にも起立にも困難を感じました。彼が著者に霊癒を求めた
数ヶの条件がありますが此処では言及しかいことにします。
個人的治療は一九四四年十一月に始まり1周回1回続けられました。
二週間目に腰椎の一つが動かせるのを認め幾週か続けているうちに
その上方の脊椎骨も弛くな
って、果ては脊柱が前後左右に曲げる事が出来るようになり、G氏
は庭へ穴を掘つたリ自転車にのって仕事がやれるやうになりました。
治旅中、著者は偉大な力が腕や指から流れ通るのに気がつきました。
半入神状熊であつた著者は自分の手から流れでるものに気がつき、
又脊椎をいぢつている時、霊医がそれをやつてるのを意識しました。
弓なりの脊柱は尚目立つていましたが、一ヶ月それをまつすぐにす
る為に特殊の努力が払はれました。著者は平生よりも一層深い入神
状態に入り、彼の手が凸出している脊柱の上に置かれた時静かに圧
迫を加へ、それに応じて脊柱骨組織全体が可動性だった様に感じま
した。
此の時から脊柱は益々まつすぐにたり今日、G氏が椅子にかけた時
肩胛骨を椅子の「よりかかり」に押しつける事が出来る程にまつす
ぐになりました。
[霊癒家が此の症例に於て成就し得た現象的成功のそれ以上の実証
は、今G氏に前方へかがんだ時、手の指でぼし跚趾にさはれるよう
になつたと云ふ事実です。
              一六一頁
   
 G氏に対する此の作業中を通じてエウルスピラー氏の霊癒能力に
より助けられた事を茲に記述しなければなりません。
              一六二頁

      第十六章 不治の患者


 霊癒は屡々医師によって絶望又は不治と見なされた不幸の人々に
対して求められます。
常にとは云ヘぬが時々それ等の症例が全治しました。又全治しない
としても、常に認む可き好果を伴ひます。例えば疼痛の減少、体力
の増加、深い眠り、一層良い食慾、全身の爽快感等です。
 次なるは著者の関与したに早期の一例を、代表します。
嬢(前々章参照)はグラパムと云う頗る悲哀な患者を著者に紹介し
ました。
その患者は恐しい疾病に悩まされていた一人の女です。その上半身、
腕も頭もすっかり肉がなくなり、腕は胸の上に組んで固定したまま
動かせず、指は固く組合せられて掴んでました。腰から下半身は腫
れて青色を呈し、足は頗る大きく長くなり下脚には青色の瘡があり
ました。此の哀れな身体の疼痛はその顔に認める事が出来ました。
皮膚は固く骨の上に引きつっていました。患者ば一ヶ年問病院にい
ましたが医師は病名をつける事が出来ず未知の微菌によるものだと
云って
             一六三頁

いたと著者に語りました。
 第一回訪問後、患者は特に一ダースの蠣が喰べたいと云ひ出して
それを喰べた程快く感じました。それ迄患者はどんなものをたべて
も皆吐いていたのです。
 幾回も訪間しました。各回の訪間中白く引きつった顔がどんなに
和らげたことか顔に少し血の気がさして来て眠りを伴つたのを認め
ました。
 その女の逝去する迄治療はつづけられ、彼女は安らかに平和にい
たみも訴えず永眠しました。
 それに次ぐ報告は一九四三年八月廿一目のサイキツク・ニュース
誌に発表されたもので、その筆者は専門医でした。かくて資格のあ
る医師が霊癒の真実なる事を認めていると云へませう。けれども英
国医学会におげる懲戒的行動を恐れるため、開業匠としては確たる
自身をもたなくては霊癒家の助力を求められないのです。

霊癒に対する医師の貢献、患者は不治の疾病から救われた。
 実地医家によりて 霊癒を認めるのは合法的か否か、私は最近此
の問題に就て弁護士に質問した。彼は答へて曰く「僕は知らぬ。
僕はすべて新法制と歩調を合せる事が出来ない。」と
此の雑誌(サイキツク・ニュース)の主筆は同様な質問に答へて次
の一文を書いた。「私は
              一六四頁

 法律の発布について全然確知しないが、然し、誰がそれを気にす
るか、私は記載されるとは思はぬ癌その他の難病の治癒を発表する
ためには終始一貫その法律を破っている。」と
 私が記述せんとする四例は癌の項目の下には入らない故、私かそ
れ等を記載する事は多分許されるであらう。私にとって此の自由の
国大英国市民が陳腐でない方法で彼等の病苦を治してならぬとか、
又其の方法で治ったらその事実を秘密に保たねばならぬと云うのは
異常な事の様に思はれる。
訳者註 英国には癌腫法と云ふ方令があって医師以外の者が癌患者
を取り扱ったり叉治した事を発表するのは違法であると認められる
やうです。
国会の一議員が指摘した様に若しイエス・キリストが今日英国に居
住して病人を治したら、彼は明らかに牢獄に抑留されるであらう。
茲にハリー・エドワーズにより治癒された四例の不治の疾患につい
て記録する。
第一例 三年前患者は鬚瘡と云ふ皮膚病に感染した。此れは手にお
へない頗る苦悩のある疾病である。戦争に従事していたため、患者
が熟練家の療法をうげ得る迄に一ヶ年の大半が過ぎた。専門家は初
診の際手遅れになったから、治癒の予想が遠のいたと患者に告げた。
私は同僚に此の症例を示した。彼は云った。
「九ヶ月問も何んにも治療をうけなかったのだから、九年
             一六五頁


の間に治ったら彼は幸せでせう。」と殆どニヶ年間、患者はロンド
ン及び地方の諸病院の皮膚科へ通った。時々一時的の軽快は認めた
げれども顔面の瘡は治らないのみか患部は徐々に増大した。
 最近四月、エドワーズ氏はその患者の治療を依頼された。約二週
後に、私が其の患者を見たとき、彼の顔はすっかり治って瘡のあっ
たあとを示す淡い瘢痕以外何も残ってなかった。
 私が見たエドワーズ氏の霊癒の他の症例同様洽癒は漸次に起って、
最初の一、二週間は僅かに軽快を認めるにすぎなかった。それから
突然痕が消敬する迄治癒機転が促進された。
 第二例 此れは巡行的体重減少、耐え難い疲労感ヂジヂリ進む健
康の悪化を訴える女子でそれに対して適当な原因を見出す事が医師
に出来なかった。医師はそれを心労と戦争に関?した栄養不良に帰
着して通常の治療を施した。けれども容熊は悪から最悪となり、患
者は歩く事も自らすすんで食事をとる事も困難になって来た。
 晩秋エドワーズに近づきとなって治療をうけ始めた。或る週間の
問何等特別の軽快も起らなかったが、クリスマスの朝患者は突然快
く感じて七面鳥と杏菓子を沢山夕飯にたべて友人たちを驚かした。
その日から断然軽快し初めて今日は健康優良となり、病中に失った
体重を二十四ポンドとりかえした。
             一六六頁


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霊癒の科学(16) [心霊と人生]

                     霊癒の科学(16)


 学問として体系づけられた心霊研究ではあるが、その概要を
知るには現時点では先達の文献に依るしかないのが現状であり、
なんと云っても、浅野和三郎先生、脇長生先生の著作集による
のが一番である。今回からハリー・エドワーズ著山本 競訳の
「霊癒の科学」を載せます。・・・・

{注}パソコンでの入力の関係上JIS設定にもれている漢字の
   表示が困難な場合は現在の簡易表示体で代用するものも
   あるのでご理解ください。
            霊 癒 の 科 学
     
               ハリー・エドワーズ
               山 本   競 訳


      第十四章 失 明 と 聾
一、二年前南ロンドンの霊癒家によりて、全然失明していた者が治さ
れた信憑してよい一例がありました。
 斯る例は稀ですが部分的失明又は失明に脅されていた症例の多数が
著しく治つてます。
 早期の症例は一九三八年南ロンドン新聞に報道されました。
 他の一例は、限科専門医に、一年半以内に一眼は失明するであらう
と宣告された少年の症例で す。患者は特殊な眼鏡を供給され、それ
でかすかに物を見る事が出来ました。視力に関して吾々に何も談され
ていなかつたが唯霊癒だけが要求されました。二、三週間後、患者は
眼鏡なしで新聞の細字もよむ事が出来て、特に眼の疲労も感じません
でした。
 他の症例は一九四〇年十月十九日のサイキツク・ニユース誌に報告
されました。次にその一
             一四七頁
       
部を転載します。

   ロンドン空襲中の霊的助力

 私は暫く国内守備隊の一員だった。私は最近他の人々と共にロンド
ン対空砲兵隊(髙射砲隊)の夜問勤務に従事していた。その際、軍曹
と他の兵卒との会話を立ぎきした。軍曹は数年問限病に悩まされ、高
価な医療をうけていたが長い問何の好果もなかつたと云っておった。
症状が複雑になつたのは汚い潰瘍が眼を犯したためであった。
 此の会話は最近のロンドン空襲中に行はれた。砲兵隊の状勢は少く
とも皆張り切っていて病気の事などかまつていられなかつたが、私は
その兵卒の眼に心を集中しかいではいられなかつた。
 私は他の夜、再び軍曹に会って「眼の共合はどんなかね」ときいた。
限の外観は異状がない様に思はれたので私は或る信念をもつてかうき
いて見た。
 彼は答へた。「貴君が私にそんな事をお尋ねになるのはおかしい、
私の限はすっかりよくなつてますでせう。」彼は過去或る期問、毎週
医療をうけるため専門家の許へ通っていた。その時、彼は云った。
「私は過去二週間治療をうけに行く事が出来ませんでしたが、それな
のに治療し
               一四八頁

ないでいた問に眼はよくなって来たのにきがついてました。」
 私はその時彼が対空砲兵隊に勤務した夜の事をおぼへてるか、又眼
がよくなり出したのはそ の時から始りはしなかったかを尋ねた。
彼は答へた。「あの夜私は潰瘍でひどく脳んでました。当然悪くなる
筈のあの一夜の勤務中に潰瘍は自然に消失して終ひました。」と
 軍曹は私がなぜその事に興味をいだくかと尋ぬた。私は彼が知らぬ
問に霊癒をやって見た事を語った。私は嘲笑されるものと思って出来
るだけいろいろの方面から説明して見た。軍曹は私に対して感謝の意
を表し、そう云う事のあると云う話をきいた事があり、又好感もいだ
いていたと語った。そして彼は家族の病人に対しても奉仕してくれと
求めていた。
 此の症例で特に注目す可き点は主訴の精確な病状を指摘しなかっか
ことです。此は稀ではあります。それで霊癒の超自然的性状を再び支
持するものです。
 此れに次いだ症例では反対な事が起りました。明確な限病に対して
霊癒が求められた症例でした。

   父が霊癒で小児を治す

 著者は不在治療を求められた時、患者に著者の心を集中している問
に軽快し始めたのを認める事が度々ありました。
              一四九頁

時々、人々は偶然彼等の病苦について著者に語りました。著者は一、
二秒問その病苫の治癒を希望して送念しました。後になってその瞬間
から微細な症状が治り初めた事屡々発見しました。
二、三日前著者の小児が針金で限の裂傷を起したため入院しました。
病院の医師は云ひました。
 「傷つかぬ方の限にまで充血が起っている程、ひどい怪我をしたのだ
から全く危かった。」と著者は翌朝眼科の専門家に見て貰う約束をし
ておきました。
 専門家が診察に来て、紺帯をとりのけて見た時、眼に何等障害の跡
も残っていませんでした。
 聾に関しては、聴力が全然失はれていた唯一例の洽癒示ありました。
然し聴力不全だけで霊癒を施した症例で好果のあったものは多数にあ
ります。
 上述全治の症例は前章で既に報告されていました。慈に比較的軽症
の二例をあげませう。第一例は次の如くバーラム・エンド・マーキユ
リー誌に報告されました。

 最も興味があったのは聾のため自分の職能をよぎなくあきらめねば
ならなかった男の症例でした。二、三週問の不在治療後、患者は全治
したので、最近再び仕事を始めたと云う便りをよこしました。
 一九四三年に一人の女が著者の仕事をしていたキソグストン本部へ
来ました。その女は殆ど
             一五○頁

聾に近く、高声で話しかけた時だけきこへるにすぎなかったので読唇
術を習はねばなりませんでした。
 治療中霊癒家はその女の背後に立っていて普通の声で話しかけまし
た。女はそれをきいて答へました。数回の試験が行はれ、声が過度に
低くすぎない限り、その女は談しかげた言葉をききわけて返答をした
でせう。治療後蓄音器を使ってその音量が調整されました。
 音量の調節が最低部に転じた時以外、その女は音楽を明瞭にきくこ
とが出来るやうになりました。
 かくて此等二つの感覚に関連して、吾々は個人及び不在の両治療法
を行って霊癒を施すことが出来ることを認めました。
 数例に於て聴力の矯正と共に或る状態を伴ひました。此は一般に耳
鳴りと呼ばれてゐる障害で、それに対して認む可き好果が得られまし
た。
             一五一頁


         第十五章 骨の畸形と其の調整

  結核の章で述べたヘッチー・ジー嬢は幼少の頃から足の畸形に悩さ
れてました。彼女は一寸一寸外科手術その他の医療をうけて、一、二
の骨が除去されていたと著者に告げました。
 足は萎縮を救うのと彼女が絶へず使用しつづげるために強く繃帯し
なければなりませんでした。
そして繃帯使用の圧迫のため彼女は絶へず痛みを感じていました。
 霊癒家は彼女の妹ダラデイスに治療を施した後、彼女は足を見てく
れと求めたので霊癒を行ひました。そのいきさつの最初の部分は、次
の見出しの下に一九三八年二月のサイキツク・ニューズ誌に掲載され
ました。

    畸形ですら霊的治療は奏効した

エドワーズが霊癒を施してる問にダラデイスの姉は、彼女の足にも霊
癒が施せるかどうかと
                        一五二頁

尋ねた。足は生誕以来畸形を呈していて、軟骨は化骨し、骨の腫瘤が
二つの趾の問に現れて激痛を起していた。
 過去に二回も手術を受けたにも拘らず、数年悶絶へずいたみつづけ
たが、彼女の生計に足が必要だったので終日使はねばならず、それは
可なり著しい苦悩を彼女に与へてゐた。
 霊癒が施されてから三日目の朝、彼女は骨の腫瘤が全然消散してそ
の部分の皮唐がたるんでるのを認めた。
 霊癒は続けられた。化骨形成も消散して、骨ははなれていた、足は
柔軟になってゐた。霊癒が施されて以来、疼痛はすっかり跡方もなく
なった。
 上述の報告が発表された後、数ヶ月問此の足の治療が続けられまし
た。外科医によって切除された骨の欠存のため当然有る可き状態とし
ては可なり常態に近い形のものとなりました。今は繃帯の必要もなく、
靴をはいた時、ねぢれや、醜い形を認める事も出来なくなりました。
畸形は消失し疼痛はなくなり、他の足と同様に使へるやうになりまし
た。戦争中、ヘッチーは自動車運転手となり、両足を使って操縦しま
した。今、彼女は結婚生活に入っていて、一九四四年彼女が著者を訪
間した特、足には全然何の異常も認められませんでした。
 趾問の骨の腫瘤が三月以内に除去されたに拘らず、主要症状の治癒
が完了するためには数ケ
             一五三頁


第十五章 忖の崎形と調整                          

月問連続的治療を要しか事に注目されませう。治療経過中、漸進的に軽
快するのが認められました。足は益々柔軟となり、骨と皮膚との間に肉
がなかった母趾球とも云う可き足の或る部分に、毎週肉の発育が認めら
れ、足の形が変りねぢれていた足はまっすぐにのびてすっかりよくなり
ました。
 かくの如く或る場合には治癒が漸進的だと云ふ事があります。霊癒家
は足に圧迫を加へたことも、骨を手でいぢったことも一度もなく、足を
両手の問に保持してる方法か行って霊医の力をして意のままに仕事をす
るやう任せよっていました。
 一九四三年にキングストン本部で次の二つ霊癒示行はれました。
 二十歳を越して問もない若いW夫人は、少女の頃から背椎骨脱臼に悩
まされていました。脱臼は外傷の結果起り、その結果患者は多大の苦痛
に悩まされました。医師と整骨医により手技(マニフレーション)が施
されました。霊癒をうける前、短時日の間、彼女は妊娠の結来起した過
労のため、症状が増悪して絶へず多大の疼痛を訴へていました。
 霊癒をうけてゐる際、彼女は長椅子の上に横たはり、彼女の母と本部
所属の他の霊癒家の助力をうけてゐました。
 著者は深い入神状態に入っていましたので、此の物語の残部は目撃者
により話されました。即
              一五四頁

曰く
 「頗る短時問の問、実際唯一秒の仕事として霊癒家の手は脱臼部の両
側で、背椎を掴んだやうに思はれた。背柱はその際皮下で、上の方へ引
き上げられる様に見へ、骨のその部分が一直線となって、背柱は常態に
復した。」と。
 此れは一九四三年に起り、現在(一九四五年三月)迄背柱はまっすぐ
になったままであり少しも痛みませんでした。患者は霊癒の後で「少し
も痛くないなんて、なんと云ふ驚く可きことでせう。」と云っていまし
た。患者の母から次の手紙がきました。
 (前略)私の娘が背柱の手当をうけてから可なり長い月口日たちまし
たので、その結果を判断することが出来ます。
 娘の故障は約十五年前の自動車事故に始りそれ以来、娘は整骨療法、
按摩等をうけましたけれど。可なり激しい背柱の疼痛に悩まされていま
した。ハリー・エドワーズ氏の霊癒をうけてから、此の長く続いた疼痛
は治りました。それで私は誠心誠意感謝と温情をこめた御礼の一文を貴
君に送らずにはいられません。」
 「私は此の奇蹟を見せていただけた事に対しても貴君に感謝いたしま
す。なんと云ふ驚異的な事実でせう。私自身の限でそれを見ていなかっ
たら、私は決してそれを信ずる事が出来なっか
             一五五頁

たでせうと思ひます。
 「娘の脊柱はそれ迄の位置から三寸以上も引き上げられました。人間
業で出来る事ではないでせう。」敬具   ジェー・ピー・ダブルユー
 同様の治癒例は中年の婦入にも起りました。背柱湾曲のために彼女は
歩く事も脚を使ふ事も出来ませんでした。此の状態は長く続いたもので
した。此の婦人は数人の小児をもち養育しなければなりま世んでした。
躰を支へるのに一定の道具を使用し、部屋中を骨を折って動くのに腕で
身体をひつぱる必要があり、此のやうに常に躰を引つぱるために、彼女
の腕も肩も身体もその筋肉が可なり著しく発達していました。
 彼女はタキシーで治療本部に連れて来られて治療室へ運ばれました。
施された療法は脊柱の手技をアモス嬢が助力した以外はダブリュー夫人
に施したものと類似していました。取扱ひ方は此の場合異っていました
。即ち湾曲の上と下の背推骨の部分は外方へ引き出されてから、湾曲が
まつすぐに圧迫されました。
 霊癒家の支配霊たる霊医は患者が起き上る迄に、暫時安臥させておく
様忠告しました。それは筋肉と組織を引つばると、再び骨を引き出す事
もあり得るからです。
 冊分間安臥しか後、患者は坐りました。霊癒家は患者を両手で軽く支
へて治療室内を数回歩き
             一五六頁


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